第十七話 これが現実


 17


 ――私には自分の命よりも大切な人がいた。


 これは私が身代わりになる前の話である。


 自分で言うのもどうかと思うけど、幸野綾香の人生は壊れていた。


 私が物心ついた頃から父と母は仲が悪かった。


 月に数回しか帰ってこない父は、いつも怒鳴り散らして母に暴力を振るっていた。私と遊んでくれたことも、どこかに連れてってくれたこともない。私の記憶にある父の姿はいつも怒っていて、母や物に当たっていて、救いようのない男だった。


 母も母で、ちょっとしたことですぐに怒り、私に暴力を振るっていた。母のビンタには憎悪がこもっており、それがしつけの枠を超えていることを当時の私は知っていた。私の食事はコンビニで買ってきた菓子パンか、カップラーメンのどちらか。少なくとも手作り料理というものを食べた記憶はない。


 ここまで劣悪な家庭で育った私でも、いつか家族三人で仲良く暮らせる日がくる、と信じていた。幼稚園の運動会に来ていた友達の家族みたいに、普通の家族に。


 小学校に上がり、家庭環境がさらに悪化した後も変わらない。友達の家庭との差に心を濁らせながらも私はずっと耐え続けた。


 ――いつか報われる。


 子供で力のない私は、その言葉を信じ続けるしかなかった。所詮は夢見がちな子供の幻想で、まともな家庭になる未来なんて最初からありえなかったのだけど、それでもありえない未来を想像している時間が当時の私にとって唯一の救いだった。


 私が夢から覚めたのは小学五年生の秋。


 当時の私には友達と呼べるクラスメイトが沢山いた。確かに彼女達とは客観的に見れば仲の良い友達だったし、客観的に見なくても友達と呼べる関係ではあった。


 でも、私と彼女達には大きな溝があった。


 普通の家庭に生まれた彼女達が羨ましかった。向こうは私が嫉妬していたことに気付いていなかっただろうし、当時の私も彼女達と接する時に感じるモヤモヤが嫉妬であると自覚していたわけではない。


 ただ単純に彼女達の何気ない会話を聞きたくなかった。家族の話だったり、旅行に行った話だったり、誕生日プレゼントの話だったり、そういう話を聞きたくなかった。


 これらを聞く度に彼女達が自分とは違う生き物のように思えてしまうし、彼女達との溝が広がってしまう。


 それでも友達と遊ぶのは楽しかったし、小学生の私が友達の輪から抜けることはない。私は彼女達よりも酷い目に合っているけど、弱音を吐いたりしない強い人間だと自分に言い聞かせることで、自身の尊厳を守り、彼女達と上手くやっていた。


 せめて学校だけは私の居場所であってほしかったのだ。


 しかし、ある事件をきっかけに私の居場所はなくなってしまう。


 ある日、些細なことで友達同士が喧嘩をした。喧嘩と言うよりは片方が怒って、一方的に暴言を吐いた形だけど。


 暴言を吐いた方はクラスの中心的グループに属する派手な女の子で、吐かれた方は同じ班の女の子だった。


 同じ班の子は無意識に棘のあるようなことを言ってしまうタイプで、彼女がいないところでよく陰口を聞いていた。要するに元から嫌われていたのだ。


 私も彼女にムッとする時はあったけれど、この子に悪気がないことは理解していたから、他の人と変わらない接し方を続けていた。家だけでなく、学校でも争いごとに悩まされたくなかった。


 ところが今回、彼女が敵に回したのはクラスの中心的存在であり、クラス全員で彼女を仲間外れにしようとしていた。


 実際に喧嘩が起きてから、彼女に対する扱いがガラリと変わった。露骨に無視されている場面を何度も見かけるようになり、他のクラスメイトも彼女を避けるようになった。


 誰かが口にして広がったことではない。こういう事が起きた教室に漂う独特な空気を感じ取っただけである。


 以心伝心。皆、独特の空気に気付いているようで、彼女に話しかけるクラスメイトはいなかったし、彼女に話しかけられて困った顔をするクラスメイトは何人もいた。


 流石にこれには彼女も気付いていたようで、学校を休むことが多くなってしまった。


 問題は彼女と同じ班で家が近いという理由で、彼女の家までプリントを届けにいくことだ。


 家にいても嫌なことしか起こらないし、プリントを届けに行くのは気にしてなかった。けれど、派手な子のグループに囲まれて「プリントを届けずに捨てろ」と言われるのは非常に困った。


 私は「先生に怒られてしまうから」と言い訳じみた言葉で乗り切ろうとするが、彼女達は不服そうな顔をして気まずかった。それが放課後、毎日繰り返されるのは地獄である。


 何度かプリントを届けるのを断ろうとしたが、担任に「今日もお願いね」と申し訳なさそうな顔で言われてしまうと断るのも難しい。


 仕方なく、私は彼女に手紙を書いてプリントと一緒に彼女の母親に渡した。手紙の内容は「学校に来るのを待っているよ」といったありきたりなものだった。もし彼女の立場だったら、これを読んだからといって学校に戻りたいとは思わないだろうけど、彼女のことを心配していたのは本心だったし、書いて渡しておきたかった。


 それから数日後、彼女は学校に戻ってきた。


 気まずそうに「おはよう」と話しかけられて、私も気まずそうに「おはよう」と返す。その瞬間、周りから飛んできた鋭い視線が私の体を貫いた気がした。


 どうやら意外にも彼女は私の渡した手紙で、学校に戻ることを決意したらしく、私にばかり話しかけてくる。彼女が戻ってきたのは良かったが、相変わらず彼女は教室で浮いていたし、彼女と一緒にいる私も浮いていた。


 私の想像していた通り、彼女が戻ってきてから数日で、筆箱がゴミ箱に捨てられたり、上履きに画鋲を入れられたり、漫画やドラマで見たことのある嫌がらせが立て続けに起きた。


 喧嘩に関与していなかった友達も私のことを無視するようになり、次第に後ろから突き飛ばされたり、陰湿ないじめにエスカレートしていった。


 しかし、私は思っていたよりも傷ついていなかった。元々、彼女達とは溝があったから、遅かれ早かれこうなっていたかもしれない、とすんなり受け入れていた。


 私がターゲットになった後も同じ班の子は無視され続けていたが、しばらくしてから喧嘩した派手な子のグループと一緒にいるところを見るようになった。それと同時期に私の身の回りのものが無くなる頻度が増えた。


 派手な子と同じ班の子が一緒にいる時はこちらを見て、ヒソヒソと話していることが多い。同じ班の子は苦笑いしながら、派手な子の話を聞いているように見える。そして、それを見かけた後に教科書や鉛筆、消しゴムなどが無くなる。


 つまり、そういうことである。


 私は直接、同じ班の子に「私の消しゴム、盗んだ?」と訊くと、彼女は泣きながら正直に話してくれた。脅されて仕方なくやった、と。


 彼女は謝りはしたものの、消しゴムを盗ませてほしいと頼んでくる。「またイジメられて学校に通えなくなったら、親に心配をかけてしまう」と彼女は泣きながら言う。自分のことだけで、私のことは何一つ心配していない。彼女の欠点はこういうところだった。


 けれど、私は彼女に消しゴムを渡した。


 消しゴムを無くしたことでヒステリックな母親に怒られる可能性を考えたら、私だって大変なことになるのだけれど、それでも私は自分が犠牲になって解決するのなら、それでいいと思った。どうせ消しゴムを無くさなくても、母は怒る。だったら、人の為に怒られた方がまだマシかな、とも思えた。


 その後も彼女は私に直接頼む形で物を盗んでいき、クラスの輪へ戻っていった。その一方で私は孤立し、気付いた時には友達と呼べる存在はいなくなっていた。


 これはこれで、友達の家族の話を聞かなくて済むし、悪くない。そう何度も思うことで、崩壊しそうなメンタルを保った。


 休み時間はクラスで飼われているハムスターを眺めることで、暇を潰していた。教室なら堂々と嫌がらせをうけることも少なかったし、ハムスターを眺めるのは唯一の楽しみでもあった。


 ハムスターは家族の話をしないし、家族と離れ離れにされて一匹のまま一生を終えるハムスターには親近感が湧いた。「君も一人なんだね」と心の中でハムスターに語りかけると、こちらを見てくる。きっと餌を貰えると思って、こちらを向いただけなのは当時の私でも分かっていたが、その仕草が私のことを心配してくれているようで、ちょっとだけ気持ちが救われる。


 もちろんこのままでいいとは思っていなかった。いつかいじめが収まって、私もクラスの輪に戻れる日がくると思っていたし、家庭の問題だっていつか解決する、解決してくれなきゃ困ると思っていた。それまでの間、私は弱音を吐かずに耐えなければいけない。


 私は彼女達に突き飛ばされても泣いたりしなかった。家ではもっとひどい目に合っている。「アンタなんか産まなきゃよかった」という言葉が創作物の中でしか存在しないと思っている他のクラスメイトとは違う。ハムスターを眺めている間、何度も、何度も、自分に言い聞かせる。私は強い人間だ、と。


 友達と遊ばず、一人でハムスターを眺めるなんて寂しい子供だと思われるかもしれないけど、その時間は私が耐えぬく為に必要な、大切な心の支えであった。


 だから、私がクラスのハムスターを心の拠り所にしていることは誰の目から見ても一目で分かるものだったに違いない。


 彼女達の目から見ても、そう映っていたのだろう。



 小学五年生の秋、クラスで飼われていたハムスターが誰かに殺された。



 私はその日、初めて学校で泣いた。泣いている私を見て、喜んでいる人間が数人いた。急遽開かれたホームルームではハムスターを殺した犯人は分からないままだったけど、その日の放課後、私は聞いた。


 いや、私に聞こえるように彼女達が話していた。


「お前のおかげで幸野が泣いた」と嬉しそうに派手な子が笑った。


 安心するかのように笑う同じ班の子。


 それを聞いて、私は心の底から悔やんだ。


 私が手紙なんて書いたからハムスターが死んだ。私が彼女を助けようとしたからハムスターが死んだ。私がこの世にいなければハムスターは死ななかった。


 私は一生懸命悩んだ上で選択をした。それなのに最悪の結末を迎えた。


 もし、私のいじめが収まったとして、私は彼女達と仲直りできるのだろうか。


 絶対に――無理だ。


 死んだハムスターは生き返らない。


 もう二度と元に戻れない。


 正しいと思ったことを選択しても正解だとは限らない。正解があるとは限らない。報われる保証なんてないことぐらい分かっていた。でも、ハッキリ分かった。


 ――これが現実なんだ。


 悲しい思いをした分だけ楽しいことが起こるわけではない。救われない人生だってこの世には数多くある。そう、これが現実。そして、私は救われない方の人生を引いてしまった。


 その日から私は自暴自棄に生きるようになった。こんな世界で生きていても楽しくない。どんなに頑張っても報われない。誰も助けてくれない。死んだ方がマシだと思った。


 でも私に死ぬ勇気はなかった。学校には行きたくない。家にもいたくない。


 どうすればいいのか分からなかった。「学校を休みたい」と言っても、ビンタの数が増えるだけ。


 私は体を引きずる思いで学校に通い、放課後は近くの川原で一人泣いていた。


 誰もいないところに行きたかった。私しかいない場所に行きたかった。一人になりたかった。


 だけど、子供である私は一人で遠くに行く力はない。人が立ち入ることの少ない川原で、一人世の中の不公平さに文句を言い、悔しさで泣くだけ。ボロボロと涙は落ちる。


 だけど、漫画やアニメみたいに助けてくれるヒーローは現れるわけではない。


 そう、


 ――現れないはずだった。


「大丈夫?」


 泣きじゃくっている私に声をかけたのは、同い年の男の子だった。


「こんなところで何していたの?」


 私は慌てて涙を拭い、言い訳を考えた。


 泣いているところを見られたのもそうだけど、何よりこんなところに一人でいるのはいけないことだと思った。友達と遊ばずに一人でいることがいけないことで、それは怒られることなんじゃないかと急に怖くなった。


 言葉が出てこない。本当のことなんて言えない。それらしい嘘も思いつかない。


 私は男の子の真っ直ぐな目から逃げるように地面へ視線を逸らす。そこにはちょこんと三つ葉のクローバーが生えていた。


 それを見た私は――


「……よ、四つ葉のクローバーを探していたの」


 無理のある嘘をついた。


 こんな誰も来ないような場所で泣きながら四つ葉のクローバーを探す女の子なんて引かれると思った。


 でも、男の子は持っていた鞄を地面に置いて、「困っているみたいだし、僕も手伝うよ」と言った。



 それが私と諏訪くんの――本当の出会いだった。

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