第三章
第十六話 無価値なのに
16
幸野と七夕祭りに行った翌朝、世界は変わっていた。
部屋にサッカーボールが置かれていた。携帯の待ち受けが変わっていた。学年が一つ下がっていた。学校で大地に話しかけられた。廊下を走って担任に怒られた。
「和樹くん、おはよう」
千秋と恋人関係になっていた。
順風満帆だったあの頃に戻っていた。
幸野がいないあの頃に、戻っていた。
なんとなくだけど、こうなるかもしれないと予想はしていた。半年以上も彼女の隣にいたから、彼女ならこうするかもしれないって気はした。
けれど、本当に僕の身代わりになるなんて、やっぱり彼女は救いようのない馬鹿だと思った。
なにも翌日に決行しなくたっていいじゃないか。まだ三ヵ月残っていたんだ。僕に黙って身代わりになるにしてもギリギリまで待てば良かったじゃないか。こんな僕の為に身代わりになるなんて、
君は、本当にどうかしている。
吐きたい気持ちを抑えて、必死に彼女を罵った。心の中で罵ったところで気持ちがおさまるわけがない。直接、彼女に言わなければおさまらない。
僕は真っ先に幸野の居場所を調べた。元の日常に戻れた喜びなんか忘れて、ひたすらに情報を集めた。
幸いなことに、この世界は僕が身代わりになる前の世界と大差なく、同じ学年に幸野綾香の名前があった。そこから先生に問いつめて、彼女と再会するまで一週間もかからなかった。
結果から言うと、幸野は入院していた。
大地の身代わりになったという心臓の病気はそのままで、この世界でも長くは生きられないことになっているようだ。
幸野の無事を知った時は膝に力が入らなくなる程度には安心していた。彼女には山ほど訊かなければならない事があったし、何よりあんな別れ方を許すわけにはいかなかった。
しかし、病室に辿り着いて、僕は言葉を失った。
病室のベッドには酸素マスクをつけた幸野が眠っていた。その姿を見て、交通事故に遭った直後の千秋がフラッシュバックする。
意識障害。看護師さんの話によれば七月八日の朝からずっと眠ったままだと言う。原因不明と言っていたが、それが身代わりの代償であることは間違いないはずだ。
代償によるものと考えれば、このまま目を覚ますことはないだろう。今まで言えなかったこと、今まで訊けなかったこと、今まで謝れなかったこと、全て伝えられないまま。
「君は……本当にどうかしている」
病室でポツリと声が漏れた。
八月二十日。昼。
世界が変わってから一ヵ月経ち、僕は順風満帆な生活に戻っていた……とは言えなかった。あれから僕はほぼ毎日、幸野の病室に通っていた。無意味なことだと分かっていながら、通っていた。
「ゲームショップに寄ったら、目に入って買ってしまった。一人でクリアできるか分からないけど、やれるところまでやってみようと思う」
以前、幸野と遊んだゲームを手に持って語りかける。彼女と一緒に遊んだゲームはほとんど消えていた。残っているのは元々姉が買ったゲームばかり。幸野との思い出が部屋から消えてしまったように思えて、なんだか寂しく思えた。
こうして病室に通うのは千秋が入院していた頃を思い出す。目が覚めることがないと分かり切っているから、あの時よりは気持ちが楽だ。
でも、完全に諦めているわけではない。今のままでは目を覚まさなくても何かしら方法があるんじゃないかって以前と同じような馬鹿なことを考える自分がいた。
一度、幸野の名前を書いて身代わり石に玉を投げたことがあった。代償が軽そうだったら今度は僕が彼女の身代わりになろうと、そんなことありえないと期待せずに投げたのだ。
しかし、結果は意外なものだった。
代償が重いか、軽いか以前に夢を見なかったのだ。
本来なら玉を投げた一週間後に見るはずの夢が、一ヵ月たった今も見れていない。幸野が二回身代わりになれたことから、回数的な制限があるわけではなさそうだが、原因は分からないままだ。
分からないと言えば、僕が記憶を引き継いだままという点も謎のままだ。
僕が一度身代わりになった人間だから例外なのか。
または今回、幸野が身代わりになったのは僕が千秋の為に払った代償だから、事故が起こることを知っている人間がいなければ千秋はまた事故に遭い、僕は身代わりになる。そうなれば、結局幸野が身代わりになったことは無意味になってしまうから、千秋が事故に遭わないようにする為に記憶が残ったままなのか。
どちらにしても記憶が残っているのは厄介なものだ。
幸野のことを忘れていれば、病室に通うこともなかった。
おかげで千秋には「最近、デートに行けてない」と怒られ、大地には部活をサボっていると思われている。なのに、病室に通うことをやめられないのは何故だろうか。
九月十五日。昼。
結局、二学期になっても病室には通い続けていた。
僕の知る限り、幸野の病室には僕以外に誰も見舞いに来ていない。千秋が事故の時は千秋の家族や友達が来ていたから、つい比べてしまう。僕まで来なくなったら、本当に幸野は一人ぼっちになってしまう。せめて死ぬまでの間は一緒にいてやりたかった。
だけど、千秋はそれを許してくれなかった。
幸野の病室に通っていることは千秋も知っている。最初は「友達なんでしょ? 行ってきなよ」と優しく背中を押してくれていた。しかし、流石に二ヵ月も通い続けていたら千秋も不満を漏らす。「いくらなんでも通いすぎだよ」と普段より強めな言い方をした時からもう限界だと思っていたが、ついに「私とどっちが大事なの」とどこかで聞いたことのある台詞を言われてしまった。
私とどっちが大事なの。
分からない。今でも千秋のことは好きだし、元の生活に戻れて良かったと心から思っている。
でも、だからって幸野を見捨てるわけにもいかなかった。彼女のことが好きなのはもちろん、身代わりになってくれた彼女を置いて自分だけ元の生活に戻るのは、ズルいと思った。
ズルいってなんだろう。ズルくて何が悪いんだろう。幸野は眠ったまま、千秋と遊んでいたって別に彼女は傷つかない。千秋の病室に通っていた時だって通い続けたところで何も変わらなかった。同じことで繰り返し悩む僕自身もあの頃から変わっていない。
奇跡的に縒りを戻すことができた千秋と、死にかけの幸野。
どっちが大事で、どっちを優先させるべきか、なんていい加減もう分かっている。幸野だって、千秋を選んでほしくて身代わりになったんだ。僕のつまらないプライドや考えに価値はない。
仮に全てが――僕の願望通りだったとしても関係はない。
選ぶべき答えは目の前にある。
あとは選ぶだけ。
迷う必要なんてない。
それでも答えを出すのに時間がかかった辺り、僕も救いようのない馬鹿だ。
十月十日。夕方。
放課後、普段通りに見舞いに行き、いつものように些細なことを語り聞かせた。
一年後に幸野は死ぬ。もしかしたら、僕の身代わりになったことでもっと早く死ぬかもしれない。だけど、僕はもう待つことができない。
「幸野には悪いけど、ここに来るのは今日で最後にしようと思う」
今日は幸野に別れを言いに来た。
僕は選んだ。
今度こそ正しい選択をした。
やっと戻ってこれた日常を壊すわけにはいかない。
だから、僕は――千秋を選んだ。
「正直に本音を言ってしまえば、千秋よりお前と一緒にいたかった。最初はお前のこと嫌いだったんだけど……いつから好きになってしまったんだろうな」
走ることのできない僕のことを好きになってくれたから? それとも幸野の容姿が良かったから? 両方くだらない理由だな、と鼻で笑う。
運命の恋だった、で片付けられるものなら片付けたい。自分達の恋は特別で、世界で一番尊いものと今でも信じられていたら、どれだけ楽だろうか。
「でも、僕は幸野とは違う。僕は自分の為に自分の人生を決める。だから……」
すまない、なんて言ったって許されることではないけれど、そんな言葉を言わなくても許してくれるのが彼女。この状況でも笑みを浮かべて「気にしないで」と答えるのが幸野綾香だ。
――サガリバナに憧れているんだ。
そんなことを言い出した時は本当に困惑した。会話もほとんどしたことのない大地の身代わりになったと話した時もだ。いつも笑って、全く気にしていない、後悔していないと言いたげに話すお前に苛立ちを覚えていた。
でもな、幸野。
半年間も彼氏をやっていれば、本当に笑っている時の笑顔と無理して作った笑顔ぐらい簡単に見分けることができるんだよ。幸野が僕を苛立たせる時はいつも後者の笑顔だった。僕の身代わりになると言い出した時も、だ。
お前が簡単に命を投げ出せるような奴じゃないことぐらい、もう分かっている。会話をほとんどしたことなくて、興味すらなかった大地の身代わりになるなんて絶対にありえないんだよ。
友達もいなければ、恋人もいない一人ぼっちだった少女。
そんなお前が川原で出会ったばかりのクラスメイトに「四つ葉のクローバーを探すの手伝って」なんて頼むのもおかしいだろ。
これは僕の願望で外れているかもしれないけど、その通りだったとしても、
「今日で僕達の関係は終わりだ。今までありがとう」
全て分かったうえで、僕は千秋を選ぶ。
最後に幸野の頭を撫で、病室を出る前に一度振り返り、さよなら、と小さく呟く。
多少時間はかかったけれど、こうして僕の日常は無事に戻ってきた。
以前と全く同じとは言えないけれど、表面だけ見れば元の順風満帆だった頃の日常が、戻ってきた。
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