第十五話 恩返し
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六月二十八日。昼。
「綾香ちゃん来ていたの」
「お邪魔しています」
この日、リビングで幸野とゲームをしていた。今日は僕しか家にいないから二人で会話するにはちょうどいいと思って誘ったのだが、姉が予定より早く帰ってきや……帰ってきた。
「今日は出掛けているんじゃなかったの」
「夕方までに帰るって言ったでしょ」
「いや、まだ二時前なんだけど」
いい加減なことしか言わない姉は当てにならない。夕方までには帰ってくると言いつつ、深夜まで帰ってこないことも多い。
「この間、綾香ちゃんが持ってきてくれたチョコ、凄く美味しかったよ」
「本当ですか! 私も大好きなので嬉しいです!」
幸野は遊びに来るたびにお菓子を買ってくる。ここ最近、幸野が買ってくるお菓子は決まって、僕と一緒に食べるスナック菓子と姉に渡すチョコの二つだ。
スナック菓子は僕が好きなやつを買ってくるし、チョコの方も姉の反応を見る限り、外れを引いたことはなさそうだ。そういうこともあって、いつの間にか姉に気に入られていた。
「可愛いし、センスもいいし、本当に和樹にはもったいない彼女だよね」
「そ、そんなことないですよっ」
照れる幸野は確かに可愛い。粗探しが得意な姉が他人をここまで褒めるのはなかなか難しい。
「じゃ、私は部屋で大事な用事があるから」
「どうせ昼寝だろ」
「和樹に何かされそうになったら、大声で叫ぶんだよ」
姉は笑いながら二階に上がっていった。
「私、諏訪くんに何されるんだろう」
「何もしねーよ」
「……ちょっとショックだなぁ」
不服そうな顔でゲームをする幸野はとても子供っぽく見える。と、横目で彼女を見ていたら、ミスをしてゲームオーバー。あまりに凡ミスすぎて、かっこ悪い。
「すまん、ミスった」
「操作慣れるまで時間かかるし、仕方ないよ」
凡ミスも笑って許してくれる幸野は相変わらず、ゲームが上手い。僕が思っていた以上に様々なゲームをやっているようで、家にあったゲームのほとんどはプレイ済みのようだった。
「他のゲームにする? そうそう、これとか前に来た時からやりたかったんだ」
幸野がケースから取り出したゲームは協力プレイ可能と書かれた古いアクションゲーム。僕はやったことないが見覚えはあった。つい先日、姉の部屋から発掘されて渡されたゲームである。だから、前に幸野が来た時にはケースに入っていなかったはずなのだが、見間違いでもしたのだろうか。
「やりたいならそれでいいけど、また足引っ張るぞ」
「大丈夫だよ。このゲーム、少しだけ自信あるから私に任せて」
始める前にそう言った幸野は、確かに味方として心強かった。隠し通路や宝箱の位置などを完全に把握していて、操作が拙い僕をサポートしつつ、すらすらと進んでいく。
「もう幸野一人でやった方がいいんじゃないか? 僕がいても足引っ張るだけだし」
「そういうのダメだよ。諏訪くんと二人でやるから楽しいの。私も最初は下手で友達の足を引っ張っていたけど、教えてもらっているうちに上手くなったから諏訪くんも頑張って」
「友達って前に話してた亡くなった友達だろ? こんな古いゲームを教えてくれたって、結構年上だったんじゃないか。親戚とか」
僕がそう言うと、幸野はニヤニヤしながら「さあ、どうでしょう?」と意地悪っぽく言う。ひょっとして昔の友達のことが気になっている、すなわちヤキモチを妬いているとでも思っているのだろうか。若干当たっているのが少し悔しかったが、結局答えは教えてくれなかった。
それから夕方まで茶飲み話にもならないような雑談を続けた。今日も一日が終わる。六月も終わりに差し掛かり、来週から七月。こうやって幸野と二人でいられる時間も残り僅かだ。
別れ際、幸野はいつものように「またね」と手を振る。
そして、「この間の……もう一度考え直してね」と付け足して帰っていった。
僕は――彼女に答えを告げなければいけない。
『私が諏訪くんの身代わりになれば、片岡さんと元通りになれるんじゃないかな』
待ち望んでいた展開だった。当初の目的通り、幸野に身代わりになってもらって、元の生活に戻る。それで僕達の関係は終わるはずだった。
けれど、僕は断ってしまった。
『……そんなことできるわけないだろ』
『どうして?』
『ただでさえ大地の身代わりになってボロボロの体なのに、僕の身代わりになるなんて無理だ』
もし僕の心情が幸野と出会った頃のままだったとしても一度は止めていただろう。即決でお願いすれば、自分のことしか考えていない彼氏と不信に思われる可能性もある。念には念を入れて一回は幸野を心配する彼氏のフリをするつもりだった。
しかし、今は本当に心配している。
「大丈夫だよ」と笑う幸野に苛立ちさえ覚える。大丈夫なわけがない。ここまで落ちこぼれた僕を助けるなんてどうかしている。
『幸野が大丈夫でも、僕は大丈夫じゃない』
首を傾げる幸野は、本当にどうしようもないほど何も分かっていない。
『私のこと心配してくれているの?』
『当然だろ』
『あはは、心配しなくても平気だよ。どうせ死ぬんだし、今更どうなったって……』
いつものように自分の命を粗末に扱おうとする幸野。僕は我慢できず、一秒でも早く卑屈な言葉を止めようと、彼女の手を握った。
『僕は……どうなってもほしくない』
普段とは違う雰囲気だったからか、それとも急に手を握られたからか、幸野は一瞬言葉を失っていた。
『でも……このままじゃ諏訪くんが……』
『幸野が身代わりになることはないだろ』
『ううん、私だから諏訪くんの身代わりに……』
食い下がらない幸野に「そういうのいいから」と冷たく言い放つ。
『僕だって元の生活には戻りたい……戻りたいけど、身代わりになってくれなんて言えるわけないだろ……。僕は幸野が思っているよりもずっと弱い人間で……だから……もうこれ以上、同じことを言わせないでくれ』
幸野は「ごめんね……」と謝り、それでも僕を誘惑する。
『私は諏訪くんの身代わりになりたい。だから、もし気持ちが変わったら遠慮しないで言ってほしい』
僕はその場で、彼女の言葉に返事を返せなかった。
本当に弱い人間だ。身代わりになってほしいと思う自分と身代わりになってほしくない自分の両方がいる。どちらに転んでも不思議ではない。こういう場合、どちらを選ぶべきか分かっているのに。そんなこと分かり切っているのに。答えはもう出ているのに。
この選択で人生が決まると言ってもいい。
だけど、もう少し――もう少しだけ時間が欲しい。
その後も僕は答えを幸野に告げられないまま彼女と過ごした。学校で顔を合わせて、休み時間に会話をして、放課後は二人で寄り道する。この時間が終わってほしくなかった。
幸野綾香との関係が――終わる日を迎えたくなかった。
七月七日。夕方。
この日は幸野と商店街の七夕祭りに来ていた。学校が終わってから一度家に帰り、現地で幸野と合流。屋台が並ぶ商店街を二人で歩いていく。
何か目的があるわけでもなく、ただ屋台を見て回るだけ。ソースの匂いが漂ってきても横目で見て通り過ぎる。幸野の食欲は以前よりも落ちているようで、彼女から食べたいと口にしない限りは何も食べないつもりだ。僕から言えば、おそらく無理をして付き合うだろう。
食欲が落ちていることを幸野は隠しているつもりのようだが、流石にこれだけ一緒にいれば彼女の異変を見逃すことはない。変なところで強がるのは彼女の欠点でもあり、長所だと思う。
人混みではぐれないように手を繋ぐと、幸野も握り返してくる。今までもたまに握ってはいたが、彼女が恥ずかしがってあまり握る機会はなかった。やっと自然と手を繋げるようになったのに、やっと彼女のことが分かってきたというのに。
突然、立ち止まった幸野の視線の先には金魚すくいがあった。
「やる?」
僕の問いに幸野は首を横に振る。
「私、下手だから。それに金魚貰っても先に死んじゃうしね」
「自虐ネタはやめろって」
その後も幸野が立ち止まるのは食べ物以外だった。二人で射的に挑戦するも何も落とせず、くじを引いたら光るおもちゃの剣が、幸野は光るブレスレットが当たった。金魚の代わりにスーパーボールすくいもした。
光る剣を手に持って、手首にはスーパーボールが数個入ったビニール袋をぶら下げるなんて正直、高校生にもなって何やってんだか、と思ってしまう。
でも、僕も幸野も間違いなく、この時間を純粋に楽しんでいた。僕達にとって、これが最初で最後のお祭りになるだろう。
「諏訪くん、お腹空いてないの?」
「幸野は?」
「……少しだけ」
「食べたいものある?」
「うーん……久しぶりにたこ焼き食べたいかも」
しばらく歩いた先にあった、たこ焼き屋の列に並び、一つのパックに入ったたこ焼きを二人で食べる。中のたこが熱くて、二人して涙目になって笑い合った。
たこ焼きを食べ終えた後、配られていた短冊に願い事を書いて笹の葉に吊るした。
『諏訪くんが幸せになりますように』
幸野の短冊にはそう書いてあった。
「まるで今の僕が幸せじゃないかのような書き方だな」
「うん、諏訪くんはもっと幸せになるべきだよ。身代わりになったんだから、その分幸せにならなきゃ」
「その言葉、そっくりそのまま返すよ」
「私はもう幸せなんだけどね」
僕が書いた短冊を見ながら、幸野はそう言った。
幸野との最初で最後のお祭りデートはあっけなく終わった。帰り道、前を歩く同年代のカップルが「来年も来ようね」と話しているのが聞こえて、なんとも言えない気持ちになった。
「ちょっと寄っていこうよ」
幸野に服を引っ張られて立ち寄った公園は静まり返っていて、僕達の他に誰もいない。二つあるブランコのうち一つに座った幸野は、漕いでいると言えば漕いでいるし、漕いでいないと言えば漕いでいない程度に揺れる。その隣のブランコに僕も座る。
「それ、気に入ったのか」
腕につけた光るブレスレットを眺める幸野をおちゃらかすように言った。
「諏訪くんもあの剣、似合っていたよ」
ブランコの端に置いた光る剣を見ながら幸野は笑った。
「お祭り、楽しかったね」
「今日みたいな日、あと何回あるんだろうな」
きぃきぃと軋むブランコ。風が吹き、あちこちで葉が擦れる音がする。幸野の長い黒髪が後ろにひらひらとなびく。会話が止まったまま時間だけが経つ。無意味な時間だけど、嫌いじゃない。
五分、もしかしたらそれ以上経ってから幸野が口を開いた。
「ねぇ、諏訪くん」
「なに」
「諏訪くんの名前を書いた玉を身代わり石に投げたって言ったら怒る?」
「は?」
一瞬、何を言っているのか分からなかった。
「本当に投げたのか」
「うん」
「いつ」
「一週間前だから今夜、夢見ると思う」
幸野は自分の足元を見つめながら、ぽつぽつ話す。
「やっぱり諏訪くんには元の生活に戻ってほしいな」
「……幸野が身代わりになったからって元の生活に戻るとは限らないだろ」
「かもしれないね。でも、身代わりにならなきゃ可能性すらないでしょ。試す価値はあるよ」
「身代わりになってまで助ける価値なんてないよ」
何故、答えとは正反対な言葉が出てきてしまうのだろう。
「私はあると思っているし、諏訪くんの役に立ちたい」
「なんで僕の為にそこまでできる? 学校での扱いを見ただろ。走れなくなっただけで、あのザマだ。僕なんか助ける価値ない」
「卑屈なこと言わないの。諏訪くんは諏訪くんだよ」
幸野は自信満々に言い切る。
「私ね、ずっと一人ぼっちだったから、諏訪くんが見つけてくれて本当に嬉しかったの。嘘じゃないよ。諏訪くんと過ごした時間が人生で一番楽しかった。だから、ずっと恩返しがしたかったの」
「……恩返しがしたかった、か」
「それに葛本くんの時なんて『ただ好きだったから』って理由だけで身代わりになったでしょ? そんなふざけた理由でも後悔しなかったんだから、心配しないでよ」
いつものようにへらへらと笑う幸野だったが、それが無理して作り出した笑みであることは分かっていた。出会った頃の僕だったら、そのことに気付かなかっただろう。
だから、訊いてはいけないことをつい訊いてしまう。
「なあ、幸野」
「うん?」
「なんで大地の身代わりになったなんて嘘をついたんだ」
幸野の口が一瞬止まる。
「嘘なんてついてないよ。どうしてそう思うの?」
「好きだった割には大地に全然興味なさそうだし、半年間も彼氏やっていれば分かるよ」
それに、と僕は言う。
「そうであってほしいなって思った」
「どういうこと?」
これは願望、もしくは幸野と一緒にいるうちに彼女の悪い部分がうつってしまっただけかもしれない。
「本当は病気で亡くなった友達の身代わりになったんだろ」
身代わり石の力で亡くなった人間を蘇らすことができるのかは分からない。けれど、時間を戻せるぐらいなのだからありえなくはない。
何より、幸野の立場で考えれば大地よりもそっちを優先させるべきだ。
「それで、その亡くなった友達は……」
本題を言いかけた瞬間、黙り込んでいた幸野の口が大きく開いた。
「諏訪くん!」
その先を言うことを許さないような声だった。
「違うよ。私が身代わりになったのは葛本くんだよ」
そう言った幸野は僕の目を見ようとしない。
「ひょっとして葛本くんにヤキモチ妬いているのかな」なんて苦し紛れに話を濁そうとするから僕も言い返してやった。
「あぁ、そうだ。僕はヤキモチを妬くぐらい幸野のことが好きだ」
もし本当に大地の身代わりになったとしたら、救いようのない馬鹿だ。だけど、そうだったとしても――。
僕はブランコから立ち上がって、目を合わそうとしない幸野の前に立つ。
「本当のことを教えてくれないのなら言わなくていい。でも、これ以上身代わりになるのだけはやめてくれ。そんなことされても僕は喜ばないし、怒る」
幸野の前でそう言い切ると、彼女は唇を噛みしめた。
「どうして……? 元の生活に戻れるかもしれないんだよ?」
僕の中にあった答えは、ただの願望で跡形もなく消し去り、別の答えが生まれていた。
「そんなの元の生活に戻るより幸野と一緒にいたいからに決まっているだろ」
「……それじゃ駄目だよ。諏訪くんは片岡さんといるべき人間で、一緒にいたいと思うのは、諏訪君が優しいからで、私と諏訪くんは釣り合ってなくて……」
スカートの裾をぎゅっとつまみ、目から涙が零れ落ちていく。
「僕だって幸野と出会って救われた。走れなくなった僕を幸野だけは見捨てないでくれた。だから、せめて最期くらいは見届けさせてほしい。僕なりの恩返しをしたいんだ」
しゃがんで幸野の手を握ると、彼女の目から零れた雫が僕の手にぽたぽたと落ちてくる。空いている方の手で涙を拭ってあげると、僕の胸に飛び込んできて後ろに倒れかけた。
「違う……違うよ……。諏訪くんは私に同情してくれているだけで……」
「まだ言うか。幸野に同情したから今まで付き合っていたとでも?」
「……そうじゃないの?」
「お前なぁ……」
呆れた。
でも、そこが幸野の良いところでもある、と愛おしく思う。
「僕は本当に……本当にお前のことが好きなんだ。幸野」
「うん……私も諏訪くんのことが大好き」
胸元に顔を埋める幸野の頭を撫でながらため息をつく。
せっかく元の生活に戻れるかもしれなかったのに。余命三ヶ月しかない彼女を選ぶなんて僕も彼女と同類、本当に救いようのない馬鹿だ。
でも、これでいいんだと思う。だって、好きになってしまったのなら仕方ないじゃないか。
幸野が泣き止んだのは、それから二時間後だった。
「私、本当に諏訪くんと恋人だったんだ」なんて言い出すから「半年前からな」と言ってやった。別れ際までしつこく「絶対に石を投げるな」と言い聞かせると、幸野は「うん」と嬉しそうに笑った。
「また明日。気をつけて帰れよ」
「うん。今日はありがとう。諏訪くんも気をつけてね」
バイバイ、と小さな声が聞こえて、僕達は別れた。
僕は結局、よくある難病モノの最後みたいに幸野を見届けるハメになった。最低限の救いしかないエンディングを選んでしまう僕には最初から悪役を演じるなんて無理な話だったわけだ。
せめて残り三ヵ月間、彼女に出来るだけ沢山の思い出を作ってやろう。
そう決意した――翌日だった。
――教室から幸野の机が消えたのは。
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