第十四話 自覚
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六月八日。夕方。
この日、僕と幸野はファミレスに来ていた。
帰りにファミレスで勉強会しよう、と誘ってきたのは幸野の方だが、メニュー表をじっくり見ている彼女は食べ物を注文する気らしい。ドリンクバーだけのつもりだったが、僕もなにか頼むことにした。多分、勉強せずに食べて帰る流れになる。
「今日は僕が奢るから」
「……どうしたの?」
「何が?」
「最近の諏訪くん、なんか優しいなって。奢ってもらうのを優しいと言うのも変だけど」
「……やっぱり奢らない」
「えー」
幸野が学校に通い始めてから一週間が経った。
流石に一週間も経てば僕がクラスで浮いている存在であることに気付いているはずだ。しかし、幸野は今までと変わらない様子で接してくる。おそらく僕との関係を守る為に見て見ぬふりをしているんだと思う。
彼女が学校に通うと言い出した時はどうなるのかとビクビクしていた。
身代わりになる前の僕と今の僕、その落差を実際に目の当たりにした幸野に嫌われるんじゃないかと気が気じゃなかった。
単刀直入に言ってしまえば……、
僕は幸野に嫌われるのが、怖かった。
どうやら僕は自分が思っていた以上に幸野がいる日常に依存していたようだ。
幸野からすれば、僕はたった一人の恋人。だから彼女は僕との関係を壊したくなくて今も変わらずに接してくれている。それと同じように僕も唯一の繋がりである幸野を失うことを恐れていた。
幸野が身代わりになって、元の生活に戻れるかもしれない、という希望もあったし、彼女がいなければ今頃も一人で過ごしていたに違いない。
情けない話だが、あれほど妬んでいた幸野の呆れるほど純粋な心に救われていたのだ。そのことに気付いてから幸野への接し方が分からなくなっていた。
幸野の横顔を見ながら、そんなことを考えていると、視線に気付かれてしまった。目が合った瞬間、優しい笑みで返されてしまい、反射的に視線を逸らしてしまう。
僕は――彼女をどうしたいのだろう。
運ばれてきた料理を食べている間もずっと考えていたが答えは出ない。ただ、納得のいく答えが出るまでこの時間が続いてほしい、と彼女を眺めながら思った。
軽めの食事を終えて、本来の目的である勉強会らしいこともしないで雑談をしていると、突然幸野が僕の後ろを指差した。
「ねぇ、アレって片岡さんじゃない?」
振り返ると、遠く離れた席に千秋が座っていた。千秋の前には大地が座っていて、二人ともペンを持って何か書いている様子。もしかしたら、二人で勉強しているのかもしれない。
「話しかけてきたら?」
呑気なことを言う幸野に「話しかけられるわけないだろ」と返す。
きょとんとした顔で「どうして?」と首を傾げる彼女は何も知らない。
と、思っていたのだが――。
「本当のこと言えば、誤解を解けるかもしれないよ」
誤解を解けるかもしれないよ?
「……幸野、今の僕と千秋の関係をどこまで知っている?」
「え? 全然知らないよ。諏訪くんが教室で恋人宣言して嫌われていることくらいしか」
全部知っている。
なんてこった。
「どうして知っているんだよ」
「クラスの女子に教えてもらったの。あ、訊いたわけじゃなくて向こうから教えてくれたの」
「……つまり『アイツはヤバい奴だから近寄らない方がいい』って忠告されたわけだな」
苦笑いを浮かべて答える幸野に大きなため息を吐く僕。
「悪かったな。彼氏が嫌われ者で」
「ううん。私、ちゃんと諏訪くんは優しくて良い人って言っておいたよ」
「良い人って特に何もしてないけどな」
「そんなことないよ。一緒に四つ葉のクローバー探してくれたじゃん」
「後ろから見ていただけだが」
「諏訪くんは片岡さんのこと諦めているの?」
「諦めるも何も無理だろ。今の僕はサッカーもできなければ人望もない。落ちこぼれの僕がどうやって大地から千秋を取り戻すんだよ」
「そういう卑屈なこと言わないでよ」
卑屈かもしれないが、幸野にだけは言われたくない。
「私はモヤモヤするなぁ……。諏訪くんは片岡さんの為に身代わりになったのに……」
幸野は心の底から納得できないと言いたげに表情を曇らせる。
「仕方ないだろ。それに幸野だって同じようなものだろ」
「私は最初から恋人じゃなかったからいいの」
なんて平然と言いのける幸野を見ると、僕までモヤモヤしてしまう。
「ま、奇跡が起こって足が治れば別かもしれないが」
そう言って、幸野の表情を窺う。
黙り込んでいてよく分からないが、どこか思い悩んでいるようにも見えた。
結局、教科書もノートも鞄から出すことなく、千秋達が帰ったのを確認してからファミレスを後にする。いつもなら下手くそな鼻歌を口ずさむ幸野だが、あれから口数が少ない。もしかしたら幸野はさっきの話をしたくてファミレスに行こうとか言い出したのかもしれない。
「なにか落ちているね」
黙っていた幸野が口を開いたと思いきや、目の前にハンカチが落ちていた。
「あー、このアニメ懐かしい!」
子供向けのアニメキャラクターがプリントされたハンカチ。小学生の頃に流行っていたキャラで、全く同じ柄のハンカチを千秋は愛用していた。
「これ、千秋のハンカチだ」
「え? 片岡さんってこういうキャラ物が好きなの?」
「小さい頃から使っていて、亡くなった祖父に買ってもらったとか前に聞いたな」
「じゃあ、大事なハンカチなんだね」
「まぁ、大事にはしていたと思う」
落ちていたハンカチを拾って、幸野に渡す。
「じゃあ、頼んだ」
「へ? 諏訪くんが渡さないの?」
「この状況で渡せるわけないだろ」
うーん、と声に出す幸野は納得がいかないようだ。
「諏訪くんが渡しなよ。もしかしたら、これがきっかけで縒りを戻せるかもしれないんだし」
「落とし物を拾ったから仲直りなんて夢見すぎだ」
アニメか漫画で、落とし物を拾ったことがきっかけで始まる恋愛モノを見た気がするが、現実でそんなこと起きるわけがないし、千秋には大地がいる。多少、僕への見方が変わったところで、縒りを戻せるとは思えない。
「駄目! 諏訪くんが渡して!」
「なんでだよ。幸野の方が適任だろ」
「私、諏訪くんに諦めてほしくない!」
ジッと力強い目で見てくる幸野に押されて目を逸らす。
「……これで、もし縒りを戻したら、幸野が悲しむだろ」
と、苦しい言い訳を捻りだすと、幸野は「諏訪くん……」と言って僕を見つめる。
目と目が合う。
彼女の顔がほんのり赤い気がする。
そして幸野は――僕の鞄にハンカチをねじ込んで、そのまま逃げるように走り出す。
「おい! 汚いぞ! 待てよ!」
「私を言い訳にしちゃ駄目だよ!」
笑いながら走り去る幸野を追いかけようとして倒れかけた。走れない僕では彼女を追いかけることができない。鞄から半分出ているハンカチを見て、ため息をついた。あと幸野の頬が赤く見えたのは夕陽のせいだったかもしれない。
翌日、僕は強制的に渡されたハンカチを千秋に渡すことにした。
朝までは、誰もいない時に千秋の机に入れておくつもりだったが、下手をすれば千秋と会話する機会なんてこれしかないかもしれない、と考えた途端、どうにでもなれという気持ちが強くなった。どうやら幸野と一緒に行動しているうちに破滅願望がうつってしまったようだ。
ま、これでまた千秋との関係が悪化して、幸野が罪悪感から身代わりになるとか言い出す可能性もゼロではないし、何もしないよりは良いかもしれない。
と言ったものの、実際に教室で千秋に渡すとなると緊張してしまう。半年以上も話す機会がなかったのと、これ以上傷つきたくないという不安が足取りを重くさせる。
机に座っている千秋の周りにはクラスメイトの女子が取り囲んでいて、話しかけづらい。千秋は女子からも人気があったし、一人でいることの方が少ない。
とは言え、大地がいない今を逃すわけにもいかず、僕はどう声をかけるべきか悩んでいた。
なかなか渡せずにいると、ポンと背中を押された。
振り向くと、幸野が立っていた。
言葉をかけてくれるわけでもなく、ただいつものように笑っているだけだが、妙な心強さがあった。
幸野と目が合って、互いに小さく頷き、僕は前へ足を踏み出す。
千秋の横に立つと、取り囲んでいた女子達に睨まれた。
雛を守ろうとする親鳥みたいに。
そして、千秋も警戒心をむき出しの目つきで僕を見てくる。チクりと針に刺されたような痛みが確かにあった。それでも幸野が見ている。もう退くわけにはいかない。
「これ、道に落ちていた」
ハンカチを差し出すと、千秋の表情がガラリと変わった。警戒心が解かれて、見覚えのある顔に。感動するような出来事があった時に見せていた、僕が好きだったあの顔に。
しかし、千秋がハンカチを受け取ろうとした瞬間だった。
周りにいた女子の一人が、横からハンカチを取り上げるように奪い取った。
「用件はそれだけ?」
「早くあっち行ってくれる?」
次々と刺々しい言葉を浴びせられる。他に話すことなんて何もない。困惑の表情を浮かべる千秋を見て、僕は言葉を交わすことなくその場から立ち去ろうとした。
その時、幸野と目が合ってしまった。
今まで見たことがないような、不安げな表情だった。
後ろからは「なんで千秋のハンカチだって知っていたんだろ」「ストーカーみたいなもんなんだからずっと見ていたんでしょ」「っていうかアイツが盗んだんじゃね」と言いたい放題言っている声が聞こえてくる。他のクラスメイトから冷ややかな目で見られている。
まったく悲しいのはこっちだ。
なのに、なんで僕よりもお前の方が悲しそうな表情しているんだよ、幸野。
「な、分かっただろ。現実なんてこんなもんだ」
泣きそうな幸野の頭を軽く撫でようとした瞬間、幸野は僕の横を通り過ぎ、千秋達の方へ歩いていく。
好き勝手言っていた女子達の前に立つと、幸野は冷たい声で言った。
「諏訪くんに謝って」
ほんの一瞬だけ気後れした女子達だったが、すぐに言い返してくる。
「はぁ? なんでウチらが謝らなきゃいけないわけ?」
「私達の大事な友達を傷つけたアイツが謝るべきでしょ」
多勢に無勢とも言える状況ではあったが、幸野は臆することはなかった。
「諏訪くんはハンカチを届けただけでしょ。なんでそこまで冷たくするの」
幸野にしては大きな声だった。でも、足は少し震えていて、無理しているのが見て分かった。
「なんでってそれはアイツが千秋に近寄ってくるからじゃん」
「このハンカチだって千秋に近付きたくて盗んだんじゃないの」
「というかアンタ、アイツと仲良いけど、付き合っているの?」
「アイツと付き合うとかありえなくね?」
一歩も退く気がない女子達は容赦がなく、幸野まで罵倒し始める。
「行こう、幸野」
連れ戻そうと、幸野の腕を掴む。
「待って!」
掴んだ手を振りほどいた幸野の目は赤くなっていた。
「え? なに? 本当にアンタ達、付き合っているの?」
「コイツのどこがいいの?」
言いたい放題な女子達は、自分達が先に攻撃されたからいくらでも反撃していい、と思っているのだろう。もう収拾がつかない。
それでも幸野は彼女達に言い返す。
「私の好きな人を馬鹿にしないで! 諏訪くんは貴方達なんかより何倍も片岡さんのことを大切に想っているんだから!」
必死に訴えかけるように話す幸野も歯止めがきかなくなっているようだ。
「諏訪くんは片岡さんの為に身代わりに――」
だから、身代わりになったことを話しかけた瞬間、僕は幸野の口を手で塞いだ。
「もういいから」
口を塞がれて我に返ったのか、幸野はなんとか言葉を呑み込んだ。
彼女の手を引いて、教室から出ようとするも後ろから「何アイツら」と笑う声が聞こえた。幸野が振り返って言い返そうとしたが、僕が手を強く握ると諦めるように向き直して、教室を出た。
「諏訪くん、ごめんね。私があんなこと言ったばかりに」
「あんなの気にすんなよ。大体、ああなることは最初から予想できたことだ」
思っていたよりダメージは大きいけどな、と心の中で付け足す。
幸野が悪いわけじゃない。僕だって縒りを戻せないにしても、せめて和解はしておきたかった。だから、これは僕自身が選んだことだ。
滅多に人が立ち入らない屋上へつながる階段に座り、幸野の背中を撫でて慰めた。僕の肩に頭を乗せる幸野はポロポロと涙を零す。
幸野は本気で縒りを戻せると思っていたのかもしれない。つまり彼女は現実を思い知った。僕がやろうとしていた目的の一部が達成されたと言っても過言ではない。
なのに、どうしてこんなにも心が苦しいんだろう。
僕は彼女にこれよりも酷いことをするつもりなのに――。
その後、僕達は授業をサボり、放課後になってから鞄を取りに教室へ戻った。何人か残っていたけれど、出来るだけ顔を合わさずにそそくさと鞄を持って教室を出た。
ところが廊下に出た瞬間、後ろから呼び止められた。
「ま、待って」
振り向かなくても誰だか分かった。
僕達の後ろには千秋が立っていた。
「その……ハンカチ届けてくれて……ありがとう」
確かに、千秋は気まずそうにそう言った。
僕も幸野も呆気に取られていると、千秋は頭を深く下げて「さっきはごめんなさい」と謝ってきた。
「別に気にしてないよ。僕の方こそ悪かった。この前のアレは……疲れていたというか……」
なんて説明すればいいのか分からなくて口ごもってしまう。
「私の方も……もう気にしていないから。皆にはもう悪口言わないように注意しておくよ」
「そうしてもらえると助かる」
「……本当にありがとうね。大事なハンカチだったから無くして困っていたの」
「おじいちゃんに買ってもらったやつなんだろ。もう無くさないようにな」
そう言うと、千秋は不思議そうに「諏訪くんに話していたっけ?」と訊いてきた。
「……小さい頃に聞いたのを憶えていたんだ」
千秋は「そっか、昔は遊んでいたもんね」と小さな笑みを見せた。
「なあ、ちあ……片岡。一つだけ訊いていいか?」
「……なに?」
「大地とはうまくやっていけそう?」
僕の言葉に千秋は一遍の迷いを見せずに、答える。
「うん。だから、悪いけど、諏訪くんとは……」
千秋が申し訳なさそうな顔で言い終わる前に、僕は言う。
「そう。なら良かった」
身代わりになってまで助けた恋人にフラれたというのに、何故か清々しい気持ちだった。これでいいはずがないのに、これでいいと思った。
「じゃ、もう帰るよ」
僕は幸野の手を取り、千秋を背に歩き始めた。
「本当にアレで良かったの?」
校門を出てからしばらくして幸野が訊いてきた。
「フラれたんだから仕方ないだろ」
「でも……」
「幸野には感謝しているよ。おかげで吹っ切れた」
本当に感謝している。僕一人だったら、ずっと千秋に嫌われたままだっただろう。
それにこんなに落ちこぼれた僕の為にあそこまで言ってくれた。
順風満帆でもなんでもない僕を好きと言ってくれた。
それが単に偶然出会って、流れで付き合ったからという理由だとしても嬉しかった。
この時だった。
自分が――幸野綾香に恋をしていると自覚したのは。
だから、僕は迷ってしまった。
「あのね、諏訪くん。私考えたんだけど」
これから幸野がしようとしていること、
「私が諏訪くんの身代わりになれば、片岡さんと元通りになれるんじゃないかな」
それを――止めるべきかどうかを。
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