第十二話 迷い


 12


 五月十三日。昼。


 今日も頬杖をつきながら授業を受けていた。


 僕からすれば以前聞いた内容の授業を受けているようなもので退屈でしかない。休み時間になっても机から移動することはなく、窓の外をぼーっと眺めるだけ。教室の窓から見える景色は平凡で、とっくに見飽きている。


 けれど、下手に教室内で誰かと目が合っても、視線を逸らされて無駄に傷つくのがオチである。周りの会話を盗み聞きしても、ゲームの話とか、誰と誰が別れたとか、そういうのばかり。


 彼女も、友達も、ライバルもいない学校に通う意味なんてあるのだろうか。


 幸野が学校をサボっているのも理解できる。


 今頃、幸野は何をしているんだろう。家にいるのか、病院に行っているのか、それともまた四つ葉のクローバーでも探しているのか。


 どれだけ想像してもマイペースに過ごしている彼女の姿しか思い浮かばない。もう半年も生きられないのに……今度、前に千秋と行った美味しいお好み焼き屋に連れていってやるか。


 最近はいつもこんな感じで、無意識に幸野のことを考えている時間が多い。どうしたら僕の身代わりになってくれるのか、今度はどこに連れていくか。仮初の恋人のことを考えるなんて時間の無駄としか思えないけれど、学校での暇つぶしとしては悪くない、と思う。


 結局、この日も会話がないまま授業が終わり、一人で帰途につく。今日は幸野と会う約束をしてないし、寄り道せずに帰る……なんて考えながら校門を出た瞬間、彼女と目が合う。


 幸野と。


「……こんなところで何している」


「えへへ、来ちゃった」


 照れながら頬を掻く幸野。お前は彼氏の家に来た彼女か。


 立ち止まっている僕達の前をクラスの男子達が通り過ぎる。振り返って、こちらを見てくる彼らは幸野だけではなく、僕も含めて見ているようだった。千秋と大地の一件からクラスで浮いてしまった僕の立場は、学年が上がった今でも変わらない。


 他人の恋人を自分の彼女だと言い出す奴と関わりたい人間なんていないだろう。だからこそ、そんな奴が幸野みたいな美人と会話しているのを不思議に思われているのかもしれない。


「それで、何か用事でも?」


「ううん、諏訪くんを驚かせたかっただけ」


「……別の校門から帰っていたら、どうしていたんだよ」


 呆れながら問うと、「あっ、それは考えていなかった」と間抜けな返事が返ってきた。


 ため息をついている間も後ろから来たクラスメイトにジロジロと見られ、ひとまず足を動かす。幸野には身代わりになった後の学校生活がどうなっているのか一切話していなかった。今の僕がクラスの皆から嫌われていると知られたら、彼女の中の諏訪和樹というブランドが落ちてしまう。あくまで幸野と恋人になれたのは、彼女が順風満帆だった頃の僕しか知らなかったからであって、今の状況を知られて嫌われでもしたら、身代わりになってもらうどころの話ではなくなる。


 とは言え、このまま幸野を帰らすのも良くないから、僕は会いに来てくれた彼女を歓迎する彼氏を演じることにした。駅前のファミレスに入り、クラスメイトに見つからないように奥の席へ座った。ここでしばらく時間を潰して、頃合いを見計らって解散しよう。


「今更だけど、急に来ちゃって大丈夫だった?」


「本当に今更だな……。ま、予定があったわけじゃないし、別にいいよ」


 それなら良かった、と嬉しそうな顔で、ストローに口をつけてオレンジジュースを飲む幸野。


「いつから校門の前にいた?」


「諏訪くんが出てくる少し前だよ。会えたらいいなって思っていたら、本当に出てきて笑っちゃった」


「わざわざ学校に来たんだったら、僕じゃなくて大地を探せばよかったのに」


 幸野は大地に会いたくならないのだろうか。あのまま大地を探す流れになっていたら、色々と面倒なことになっていただろうけど、気にはなる。


「ううん、諏訪くんに会いたくて来たからいいの。それに……」


「それに?」


「葛本くんに会いたいなんて言ったら、諏訪くんがヤキモチ妬いちゃうでしょ」


 なんてね、と照れながら舌を出して戯ける幸野に「あ、そう」と返しておく。


「……凄く恥ずかしかったんだから、もっと彼氏らしいリアクションをしてよ」


 わざとらしく頬を膨らませて、ふてくされた顔をする幸野は新鮮に見えた。


「会話もしたことがなければ、会いたくならないような奴の為に身代わりになるなんて……本当に理解できないな。彼氏になれば少しは分かると思っていたんだが」


「諏訪くんはどうしても何か別の理由がないと納得してくれないみたいだね」


「そりゃな。花に憧れているとか聞かされて納得する方が難しいだろ」


「私はただサガリバナに憧れているだけなのになぁ」


「散るだけで印象に残るのが羨ましいとか前に言っていたよな。でも、大地は身代わりになってもらったことを知らないし、幸野のことすら知っているか怪しいんだぞ。これじゃ、サガリバナでもなんでもないんじゃないか?」


 僕がそう言うと、幸野は目を丸くして「確かに」と呟いた。いや、マジで今気付いたのか。てっきり何か言い分があるのかと思っていたから拍子抜けしてしまった。


「だったら、やっぱり死ぬ前に大地に告白してみたら? 当たって砕けろってよく言うし」


「前にも言ったでしょ。迷惑になるだけだって……というか断られること前提なんだね」


 そりゃ、身代わりになったことを後悔させようとして言っているからな。


「今は諏訪くんがいるし、私のことを知らないままでもいいの。それに……」


「それに?」


「葛本くんに告白して、もしオーケーが出たら諏訪くんがヤキモチ妬いちゃ……」


「それは絶対にない」


「……やっぱり諏訪くんって恋人のフリして揶揄っているだけでしょ」


 ジト目で見てくる幸野に「イイヤ、愛シテイルヨ」と言っておく。「なんで片言なの~」と笑いながらツッコミを入れる彼女に釣られて、口元が緩んでしまった。


「じゃあ、葛本くんの代わりに諏訪くんが憶えていてよ。私のこと」


「忘れたくても忘れられないよ。命と引き換えに自己満足を手にした人間のことなんか」


「もっと別の言い方があるでしょ~」


 テーブルの下でコツコツと痛くない程度に足を蹴られた。


「それにね、身代わりになって良かったことは他にも沢山あるの」


「良かったこと? どんな?」


「今こうして諏訪くんと一緒にいるのも身代わりになったから、でしょ」


「別に命を差し出さなくても会話できたけどな」


「そういうこと言わないの。それに……」


「それに?」


 またありえないことでも言い出すのかと思った。けれど、幸野は戸惑いがあるのかすんなり言葉が出てこない様子。


「身代わりになってから少しだけ家族が優しくなったの」


 言葉の趣旨を考える。優しくなった? 病気になったことで家族が心配するようになった、ということだろうか。


「前から家族と仲悪いとか言っていたよな」


「うん。身代わりになる前の私は……虐待を受けていたから」


 虐待?


 幸野が?


「でもね。身代わりになってからは痣を作らなくなったの。痣なんてあったら、病院の検査ですぐバレちゃうからね。だから、こっちの親は私に暴力を振るわないみたい」


「いや、待て。虐待を受けていたってのは本当の話なのか?」


 突然の話で一旦止めようとしたが、幸野は「うん、本当だよ」と答えて続ける。


「学校ではイジメられていたし、ずっと死にたいって思っていたの」


 表面だけ見れば明るい幸野からは全く想像できない。


 それでも、と幸野は言う。


「そんな私にも一人だけ友達がいたの。ほら、前に諏訪くんの家で遊んだ時に話した、病気で亡くなった友達。いつも私のことを励ましてくれて、私のヒーローだったの。結局、その友達は死んじゃったんだけどさ。私の人生で一番影響を与えてくれた人だったの」


 僕の顔を見ずにストローを回す幸野の顔は寂しげで、どこか儚く見える。


「だからかな。私も誰かの人生を変えるような人間になりたい。このまま死ぬだけの人生なら最期に誰かを救いたい。それで、できるものなら誰かの記憶に残りたいって思ったのは」


 幸野の言いたいことはよく理解できる。僕も千秋のいない世界で生きるぐらいなら、自分の命で彼女を助けたいと思って身代わりになった。仮に身代わりになった後も千秋が僕のことを憶えていてくれていたのなら、後悔することもなかっただろう。


「生まれてきたからには何か残したいでしょ。そう考えると、やっぱりサガリバナってズルいよね。ただ散るだけで印象に残るんだもん」


 そう言って笑う幸野だったが、それが自然の笑みでないことはなんとなく分かった。


「急にこんな話してごめんね。本当はこんな話したくなかったんだけど……今日の私、どうしちゃったんだろ」


「いや、少しだけ幸野の考えを理解できた気する」


 僕の言葉に「それなら良かった」と微笑む幸野はやはり不自然だ。


 幸野は何故、今になって踏み込んだ話をしたのだろう。


 自己肯定の低い奴だとは思ってきたが、それなりの原因があったわけで、今まで話す機会はいくらでもあった。虐待されていたことを話すのは抵抗があるだろうが、何故今日になって話したのだろうか。


 もしかしたら、さっきのは幸野なりの弱音の吐き方で、僕に同情してほしかったのかもしれない。元々、川原で会った時も人恋しさがあったようだし、今日だって学校にまで来た。


 これまで幸野のことを怖いもの知らずで、簡単に命を差し出せて、なんでも簡単に話してしまう奴だと思っていたが、意外と普通で、僕が思っていたよりも弱い人間なのかもしれない。


 帰り道、幸野になんで大地を好きになったのか訊いてみたら、「やっぱり気になる?」とニヤニヤした顔で言われたので、「別に」と返しておいた。


「今は諏訪くん一筋だし、ヤキモチ妬かなくても大丈夫だよ」


「……ヤキモチなんて妬いてないんだけど」


 そういえば、いつの間にかお互いおちょくるような会話が増えた。半年前に出会ったとは思えないほど自然な会話。千秋以外の女子とここまで仲良くなるなんて思いもしなかった。


「テレビでやっていたんだけどね。ふと特定の異性のことを考えてしまったり、美味しいものを食べた瞬間に『あの人にも食べさせたい』って思ったら、その人のことが好きな証拠なんだって」


「へぇ。じゃあ、幸野も大地のことをよく考えるのか」


「諏訪くんにオススメの喫茶店教えてあげたでしょ」


「うん? どういう意味?」


「一生、分からなくていいですぅー!」


 肩を軽くポコポコ叩かれながら、僕達は帰る。


 前は一緒にいるだけで苛ついていたのに、今はそんなに悪い気持ちにならない。


 幸野に残された時間は、あと半年。


 身代わりになってもらうのなら、そろそろ動いた方がいいだろう。


 でも、


 一体、いつからだろう。



 自分の中で迷いが生じ始めたのは――。

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