第三話 一途な恋
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――高二の夏休み、千秋が交通事故に遭った。
忘れもしない八月十五日。その日は千秋と二人で水族館に行く約束をしていた。
朝七時前に携帯のアラームで目を覚まし、自室からリビングに下りる。カーテンが開いてなかったから、まだ家族は眠っている……と思いきや、テレビの方からうめき声が聞こえて心臓が止まりかけた。
慌てて振り返ると、ソファの上に『かつて姉だったもの』が横たわっていた。姉の死体がそこにあったわけではない。酒気を帯びた朝帰りの姉を、実の姉だと認めたくなかったのだ。おそらく帰宅後、すぐにソファの上で横になったのだろう。
「み、水……」
『かつて姉だったもの』は死ぬ瀬戸際に発するような声で水を要求してきた。ただの二日酔いである。
自業自得だと思って無視しようとしたが、前に「二日酔いの時は脱水症状を起こしやすい」と、どこかで聞いたのを思い出して、水の入ったコップをローテーブルの上に置いた。本当に『かつて姉だったもの』になられても困る。
僕の姉――
この「通い詰めている」というのは頻繁にホストクラブへ行っていると誤解を招きそうだが、そういうわけではない。大学生のバイト代では行ける回数なんて限られているし、我が家はそこまで裕福でもない。姉がホストクラブに行った回数なんて他の常連客と比べたら圧倒的に少ない方だろう。
しかし、姉はホストクラブに「通い詰めている」のである。貯金もせずにバイト代のほとんどをホストに貢ぎ続けて、親から借金することもあった。つまり、身の丈に合っていない回数は行っている、という悪い意味で「通い詰めている」のだ。
当然、僕はそのことを快く思っていなかった。散財していることに文句が言いたいわけではない。借金してまで通うのは論外だが、自分で稼いだ金の使い道は自由だし、貯金しないで遊んでいようが、人に迷惑をかけない範囲なら好きにすればいい。
でも、愛を金で買うのは馬鹿げている。
金を払ったところで客から恋人になれるわけでもないし、仮に恋人になれたとしても金で買った愛に何の意味があるのか。そんなものを愛と呼べるのか? 僕は断じて呼びたくない。
それでも姉が一途にホストのことを想っているというのなら、それもまた恋の形として理解したし、応援もしただろう。だが、姉が推しているホストは一人ではなく、複数いる。そのことが一番気に食わなかった。どうして複数の男を好きになれるのか理解できない。
小学生の頃に見たドラマで、同じ不快感を覚えたことがある。そのドラマは不倫を題材としていて、不倫が大人の恋愛として描かれていた。出演者の中に母が好きなアイドルグループがいたのと、放送時間が夕飯と被っていたせいで、いつも家族四人で見ていた。当時は小学生だったから理解できない部分も多かったが、とにかく見ていて不快になるドラマだった。
悪い事だと自覚しておきながら不倫をして、時には正当化するかのように開き直る登場人物達は、僕が抱いていた大人のイメージとはかけ離れていて、なんだか気持ち悪かった。夫婦仲が悪くなったことを察した子供が涙を流すシーンは見たくなかったし、ベッドシーンが流れた時は気まずくて耳を塞ぎたくなった。
おかげで不倫や浮気に対して強い嫌悪感を抱くようになったのは言うまでもなく、この気持ちが真っ当な人生を送るのに必要なものだと信じていた。
姉には姉の人生がある。人の恋に口出しするのは余計なお節介だと自覚していたし、自分の価値観を押し付けるのもよくないと理解していた。そもそも姉には恋人がいないから、複数のホストに金を貢いでも浮気とは言えないだろう。
とは言え、目の前で醜態を晒している姉が目に入れば、嫌でも苛立ちを覚える。その苛立ちの正体を探っていくうちに、あのドラマを見ていた時と同じ感情が湧いてくる。唯一無二の愛を求めず、その場限りの愛を貪る姉の姿からは近いものを感じるのだ。
水をごくごくと飲み終えた姉は、礼も言わないまま横になって目を瞑った。僕はソファの斜め後ろにあるダイニングテーブルに座って菓子パンを食べ始める。カーテンを開けずに暗いリビングで黙々と食べている間も苛立ちは治まらない。それどころかエアコンの動作音とパン袋の擦れる音しかしない沈黙の空間が、苛立ちを煽り立てる。
「なぁ、このままでいいのかよ」
言葉になって出ていた。
声に出してしまったものは仕方ないと、ソファの方を振り向いたまま返事を待ったが返ってくる気配はない。外から蝉の鳴き声が聞こえたところで諦めて、ねじれた体を元に戻す。
すると、後ろから「なにが?」と枯れた声が飛んできた。
「ホストクラブに通っていないで、ちゃんとした彼氏を作った方がいいって」
そう答えるとソファからため息が聞こえてきて、再び姉の方を振り向いた。少し遅れて「またその話?」と面倒くさそうな声が返ってくる。以前にも何度か諫言していたが、姉がまともに話を聞いたことは一度もない。
「恋人の代わりが欲しくて行っているわけじゃないから」
同じようなことを前に聞いた気がする。
「それにホストクラブってそういう店じゃないし。アンタ、世間知らずなところあるよね」と付け足した姉は大きなあくびをした。
人の諫言をないがしろにされたことが癪に障り、姉を睨みつけながら言う。
「だったら、なんで金払ってまで行っているんだよ」
「そりゃ推しを応援して売れっ子にする為じゃん。アンタだって同級生の女の子が一生懸命に頑張っていたら応援したくなるでしょ? それと同じ」
「いや、全然違う。金を貢ぐことが応援って不純すぎるだろ。大体、ホストが売れっ子になって姉貴に何のメリットがあるんだよ」
それを聞いた姉は品のない笑いをして、すぐに「あいたたた」と頭を押さえた。
「それじゃあ、アンタは友達に誕生日プレゼントを渡して、自分の誕生日にお返しがなかったら、その子と絶交するんだ?」
「どうしてそうなる。友達とホストじゃ話が変わるだろ」
「変わらないね。あたしは喜んでほしくて応援している。アンタも喜んでほしくて誕生日プレゼントを渡す。どこから見ても一緒じゃん。違うのは見返りを求めるかどうかじゃない」
違う。僕が言いたいことはそうじゃない。でも、言葉にするのが難しい。頭の中を整理して言葉にしたところで、姉がまともに聞くとも思えない。じゃあ、どうする。
考え込んでいると、姉は勝ち誇った笑みを浮かべて言った。
「私からすれば、見返りを求めるアンタの方が不純に見えるね」
――僕の方が不純? いやいや、ちょっと待て。お前にだけは言われたくない。
「不純なのはそっちだろ! 屁理屈ばかり並べて!」
「はぁ? っていうかなんでアンタにそこまで言われなきゃならないわけ?」
「そりゃ言いたくなるだろ! 酔っぱらって朝帰りするような情けない姉の姿を見なきゃいけない弟の気持ちも考えろよ!」
「考えるわけないでしょ! 見たくないなら見なきゃいいじゃん」
見たくて見ているわけじゃない、と言いかけたところで、廊下から足音が聞こえてきた。
「お前ら、さっきからうるさいぞ」
寝起きの父に怒られたことで、僕はそっぽを向き、姉は舌打ちをした。
気怠そうな声で僕達を叱りながらカーテンを開けていき、窓から光が差し込む。眩しそうに手をかざしていた姉は「こんなところで寝たら風邪ひくぞ」と諭され、足もとをふらつかせながらリビングを出ていった。
「休日だからまだ寝ているのかと思った」
「これから会社の人と釣りに行くんだ」
父の趣味は釣りで、昔は家族四人でよく行っていた。中学に上がってからは部活で土日も忙しくなり、姉も外に出たがらないから最後に家族で行ったのは何年も前になる。
「あ、そうだ。車で行くなら駅まで乗せてくれない?」
「駅? どこか行くのか?」
「水族館に行く」
「水族館か。誰と行くんだ?」
「……誰だっていいだろ」
素っ気ない返事をして誤魔化そうとしたが、父は口元を緩めながら「千秋ちゃんとデートか」と呟く。照れ隠しに「ああ、そうだよ」とぶっきらぼうに答えた。
それから三十分もかからずに支度を終えて、父の運転で駅へ向かった。僕も父も前日のうちに荷物を用意しておくタイプだから滞りなく出かけられる。姉と一緒でなければ、の話だが。
八月に入ってから猛暑が続き、この日も夏の青空が広がっていた。冷房の効いている車内が若干寒く感じていた分、普段よりも外が蒸し暑そうに見える。
「さっきはなんでお姉ちゃんと喧嘩していたんだ?」
唐突な問いかけに少し悩んだ後、「なんでもないよ」と答えた。父はこちらを見ずに前を見ながら「なんでもないってことはないだろ」と苦笑する。
「……父さんは姉貴のことをどう思っているの?」
「どうってなにが?」
「ホストのことだよ。今のままでいいと思っているの?」
父は呟くように「そうだなぁ……」と口にして十秒くらい黙り込んだ。黙り込む父の姿は真剣に考えているように見えるが、そうでもない。
「ま、あいつはまだ若いし、好きにさせておけばいいんじゃないか」
こうなると分かっていたから言いたくなかった。父と母にも前から姉のことを言ってきたが、いつも同じような反応だ。
「いいわけないだろ。このままじゃ彼氏は作れないし、まともな恋愛だって出来っこない」
真面目に言ったつもりだったが、父は「まともな恋愛ってなんだ」と呑気な声で笑った。
「それは……ほら、姉貴って複数のホストを応援しているだろ? あんなことしていたら彼氏ができても、他の男を好きになったり、ホストクラブに通い続けたりするかもしれないし」
僕が言いたいのは要するに『一途な恋をしろ』ということだ。高校生にもなって親に一途の恋がどうこうと話すのは流石に抵抗があったから、遠回しに言うのが精一杯だった。
「ははは、だからって浮気はしないだろ」
爆笑する父を見て、ムッとする。
「浮気云々の話じゃなくて、他の男を好きになる時点でアウトだろ。父さんだって、母さんがライブに行く時は嫌な気持ちにならない?」
母は年に数回、男性アイドルグループのライブに行く。正直に言えば、僕はそのことも快く思っていない。父がいるのに他の男を好きになるのはどうなのだろうか。
不倫や浮気に対しては大半の人が悪い印象を抱いているが、この問題に関してはシビアだ。「いくら夫婦だからってそこまで口出しする権利はない」「二次元を愛するようなものじゃん」といった肯定派の言い分も理解できる。
でも、他に好きな人がいると知ったら嫉妬したり、嫌な気持ちになる人だって必ずいる。少なくても僕はそっち側の人間だ。好きなんだから嫉妬する、そんなの当たり前の話じゃないか。
好きになってしまったものは仕方ないけれど、母みたいに堂々とライブに行ったりするのは、やはり疑問を抱く。
「別に嫌な気持ちにはならないぞ」
父の返事を聞いて思わず、「は?」と口から漏れた。
「俺より芸能人の方がかっこいいんだから仕方ないだろ。母さんが楽しんでいるなら俺も嬉しいしな」
清々しい笑顔で話す父を見て、これも一つの答えだと呑み込む。しかし、腑に落ちない。
「父さんはそれでいいのかもしれないけど、そうじゃない人だって世の中にはいるだろ」
現にここに一人いるのだから、世の中には沢山いるはずだ。
「仮に僕が千秋以外の女性と仲良くしていて、千秋がそのことを相談してきたら、父さんは仕方ないの一言で済ませられるの?」
僕がそう言うと、父は普段とは違う顔つきで黙り込んだ。
もし僕が父の立場だったら、こう考える。日本は一夫一婦制で、不倫や浮気は悪だ。疑われるようなグレーゾーンに踏み入れる方が悪い。だから、今話したような場面になったら、千秋に疑われるようなことをした僕を説得するのが正解だと思う。
だが、父は違った。
「もしそうなったら、俺は『そんなもん二人で相談しろ』としか言えないな」
「二人で相談って……僕を怒ったりしないの?」
「女癖ってのは説得したり、怒ったりして治るもんじゃないんだ。少なくても俺は改心した男なんて今まで一人も見たことがない。不治の病だと思え」
僕は黙って父の話を聞き続ける。
「それにな、和樹。人を好きでいるにはどこまで妥協できるかが大事なんだ。一緒にいるうちに嫌な部分を必ず知ることになる。恋人になってから知ることがあれば、同居や結婚してから知ることも、子供が出来てから知ることだってある。そういう嫌な部分を知っても一緒にいたいと思えるのが夫婦なんだよ」
父の言っていることは理解できるが、納得はしたくなかった。要するに気に入らない部分も見て見ぬフリをするのが夫婦ってことだろ。僕はそんな夫婦の形を認めたくないし、千秋が我慢しなければいけないような欠点は直すように努力する。その努力こそが大事なんじゃないか。
「お前の……その、なんだ。ピュアな思考は親として誇らしいが、もうちょっと柔軟な考え方を持たないと、この先大変だぞ。ま、とにかくだ。お姉ちゃんの件は本当にヤバいと思ったら、その時にまた考えるから、お前はそんな心配なんかするな」
そう言われても心の靄が晴れず、何か言い返そうと考えたが、父が相手では上手く反論できそうにない。
結局、それから会話がないまま駅に着いた。
車から降りてドアを閉めようとした時、父に呼び止められた。父は後部座席に置いてあった鞄から財布を取り出し、一万円札を差し出してきた。
「せっかくのデートなんだから、これで千秋ちゃんになんか奢ってやれ」
珍しく気前がよい父に驚きつつ、「ありがとう、助かるよ」と礼を言う。
「あとお土産忘れんなよ。母さんとお姉ちゃんの分もな」
僕は「了解」と答えて一万円札を受け取ろうとした。
その時、一万円札の裏からひらひらと四角いピンク色の紙が落ちた。
助手席に落ちたピンク色の紙には、若い女性の顔写真と名前がプリントされている。
どこからどう見てもキャバクラの名刺だった。
僕は無言で父の顔を見て、気まずそうに父が口を開いた。
「和樹、これは会社の……」
父の言い訳が言い終わるのを待たずに、車のドアを思いっきり閉めた。「バン!」と大きな音が鳴り響き、周辺にいた人の視線が一斉に集まったが、気にせず駅へ歩き出す。
妥協が大事とか言っておいて、自分も同じことをしていただけじゃないか!
待ち合わせ場所である駅の券売機前に着いた後も、頭の中は家族への不満で溢れていた。時間が経つと、家族のことでいちいち苛立つのも馬鹿らしく思えて、自己嫌悪に陥るのはいつものことだ。
家族に対して干渉しすぎなのは自覚しているのに、何故こんなにも苛立つのだろう。しばらく考えたが、答えは見つからなかった。
夏休みなこともあって券売機や改札付近は混雑していた。邪魔にならないように、と壁際に寄って千秋が来るのを待ち続ける。ちなみに、家が近いから千秋の家で待ち合わせしようと提案したのだが、「それだとデートっぽくない」と断られてしまった。
「早く来ないかな……」
ボソッと呟いたが、まだ待ち合わせ時間まで十分以上ある。携帯をいじりながら、千秋が来るのを待ち続けた。
ところが、待ち合わせ時間を過ぎても千秋が来ない。ラインを確認しながら待ち続けるが、メッセージがないまま五分以上過ぎようとしていた。
家族や友達なら十分程度遅れたところで気にすることはないのだが、千秋が遅刻するなんて滅多にないことだから、何かあったんじゃないかと不安が過る。「大丈夫?」とメッセージを送ったが、既読すらつかない。
――事故にでも遭ったんじゃ……。
千秋の携帯に電話をかけてみたが、出ない。電話に出れなくても着信履歴を見れば、ラインの確認ぐらいしてもおかしくないのに既読にならない。
「やっぱり何かあったに違いない」と焦りながら、千秋の家に電話しようとする。
発信ボタンを押そうとした瞬間――。
「遅れてごめん!」
目の前に千秋の姿があった。肩で息をしている彼女を見て、走ってきたことはすぐに分かった。
「寝坊しちゃって家から走ってきたんだけど、間に合わなくて……。それで連絡しようとしたら携帯を忘れちゃったみたいで……本当にごめんね」
心苦しそうに謝る千秋を前に、僕は胸を撫で下ろす。
「無事でよかった……」
「え?」
それから僕達は急いでホームに向かい、乗る予定だった電車に無事間に合った。
「あはは、心配してくれていたんだ!」
「笑いごとじゃないって。あとほんの少し遅かったら家に電話していたんだからな」
「ごめんごめん。でも心配してくれていたのは本当に嬉しいよ。ありがとう」
小さい頃の千愛は口数が少ない女の子だったが、付き合い始めてからは口数が増えて以前よりもフレンドリーに話すようになった。楽しげに笑う千秋の笑顔を見るのが大好きで、いつまでも見ていられる気がした。
電車に乗り込んでから約一時間半、水族館の最寄り駅に着いた。久しぶりの遠出ではあるが、ずっと会話していたこともあって、電車に揺られてた時間が短く思えた。
水族館には駅から歩いて数分で着き、チケット売り場には列が出来ている。夏休みで混雑していることは容易に想像できたので、事前に前売り券を用意しておいて正解だった。
チケットを受け取った千秋は鞄から財布を取りだそうとしたけど、「チケット代なら気にしなくていいよ」と余裕ぶりながら断った。
高校生の財布事情からすれば、チケット代を奢るだけでも大きな痛手なのだが、それでも彼氏としての意地がある。父が差し出した一万円を受け取っておくべきだったと若干後悔しているが、千秋が喜んでくれるのならそれでいい。
入場口から順に展示されている魚やカメ、クラゲ等を見ていく。変わった魚がいれば一緒に驚いて、面白い魚がいたら一緒に笑って、水槽を覗きこむ度に感想を言い合った。
他にもふれあいコーナーでカピバラに餌をあげたり、ネコザメを触っているうちに時間は過ぎていき、気づいた時には昼過ぎだった。
館内にあるカフェで昼食を食べて、千秋はデザートにソフトクリームを頼んでいた。
「和樹くんも一口食べる?」
千秋はそう言って、手に持っていたソフトクリームをこちらに差し出したが、間接キスをするような恥ずかしさを感じて断ることにした。
「いや、甘いものはあまり好きじゃないから遠慮しておくよ」
それを聞いた千秋は「あれ? 甘いもの苦手なんだっけ?」と首を傾げた。
「言ってなかったっけ? 小さい頃から甘いのはあまり得意じゃなかったんだけど」
「えー! 知らなかったし、甘いもの嫌いな人、初めて見たよ!」
確かに記憶を辿っても千秋に教えた記憶はないし、バレンタインにはいつも甘いチョコを貰っていた。
「嫌いというわけではないんだけどね。食べすぎると罪悪感が湧くというか」
「……それって糖尿を気にしているってこと?」
「流石にそういうわけじゃない……と思うけど、大人になっても酒やタバコとかには手を出さないつもりだから、似たようなものなのかもしれない」
口元を手で隠しながら「気にしすぎだよ」と微笑む千秋は昔と変わらない。
「和樹くん、前にも『しゃっくりが百回続いたら死ぬかもしれない』って気にしていたよね」
「……あれは姉貴に騙されただけだから」
すっかり忘れていたけど、本気で「しゃっくりを百回すると死ぬ」なんてデマを信じていた時期があった。それで一度、遺書を書き始めて姉に笑われた黒歴史がある。
「なんだか不思議だね。小さい頃からずっと一緒なのに知らないことがあったなんて」
ふと、千秋の言葉で父との会話を思い出した。
『一緒にいるうちに嫌な部分を必ず知ることになる』と父は言っていたけど、僕は千秋に対して不満を抱いたことはない。「これから知ることになるのだろうか」と一瞬考えたが、想像できなかった。でも、お互いに嫌な部分を知ったとしても僕達ならきっと大丈夫だろう。
「そりゃ知らないことなんてまだまだ沢山あるさ。これから一緒に過ごしているうちに少しずつ知ることになるだろうし、僕はもっと千秋のことを知りたい」
自然と口から出てきた言葉のせいで、次第に恥ずかしくなってきたが、千秋は「うん、私も和樹くんのこと、もっと知りたい」と言って無邪気に微笑んだ。
その笑みをいつまでも独り占めできると思うと、心の中は幸福感に満たされて溢れそうになる。
その後もイルカとアシカのショーを見たりして館内を一通り堪能し、最後にショップでお土産を購入してから水族館を後にした。
まだ帰宅するには早い時間帯だったから、近くの海岸沿いを歩きながら海を眺めた。
「クラゲのクッキーかわいいね。私も買えばよかったかなぁ」
僕が買ったクラゲの形をしたクッキーを見ながら、千秋はそう呟いた。
「なら、あげようか? 姉貴の分として一応買ったけど、渡すか分からないし」
「え? 和葉ちゃんに渡さないの?」
「……今日喧嘩してきたんだ。だから渡すかどうかで悩んでいる」
「あー……なるほどね。どうして喧嘩なんてしちゃったの?」
「いや、別に大したことではないんだけど……気になる?」
「すごく気になる!」
悩みはしたけど、千秋にならいいか、と今朝のことを全て話した。僕の不倫や浮気に対しての考え方や父に言われたことも洗いざらい話すと、千秋は「和樹くんらしい」と笑った。
「なかなか難しい問題だね。和樹くんの気持ちも分かるけど、和葉ちゃんが悪いことしているわけじゃないし、私は一人っ子だからそういうこと考えたことなかった」
「干渉しすぎなのは自覚しているんだけどね」
千秋は何か考えるように僕の顔をジッと数秒見つめて、口を開く。
「……もしさ、私が和樹くんとは別の男性を好きになったら、どう思う?」
その問いかけに僕は混乱した。千秋が僕以外の男性を好きになったら……、
「正直に言えば嫌だし、嫉妬するかな。でも、考えを押し付けたいわけでは……」
「そっか……なら、今のうちに言っておかないと、だね」
千秋の発言に動揺が走る。これから何を話すというのか。
「実はね、私……和樹くん以外に好きな人が……」
唾を飲み込む。
そんなことがあるはずがない。
そして、千秋は僕の耳元で囁くように言った。
「いません」
「へ?」
間抜けた声を出した僕を見て、千秋はクスクス笑う。
揶揄われたことを理解した途端、自分でも顔が赤くなっていくのが分かった。
「驚かせるなよ! マジで他に好きな人がいるのかと思ったじゃないか!」
「和樹くん以外に好きな人がいるわけないでしょ! ちゃんと私を信じてよ!」
笑って逃げる千秋を、僕も笑いながら追いかけた。
「私ね! 小さい頃から和樹くんと結婚するんじゃないかって思っていたの!」
追いついて千秋の手を握る。
「僕だって、死ぬまで千秋と一緒だと思っていた」
握り返してくる千秋の手からは、猛暑の中でも不快にならない温かさが伝わってくる。
「私達は運がよかったんだよ」
「運がよかった?」
「世界の人口は七十億人らしいよ。その中から『この人しかいない』って思える運命の相手が、ずっと傍にいたんだから、運がよかったとしか言えないんじゃないかな。七十億人の中からって考えれば、複数の人を好きになる人がいてもおかしくないし、私達が特別なんだよ」
僕も前から自分達の恋は周りとは違う、特別な恋なんじゃないかと思っていた。誰にでも幼馴染がいるわけではないし、幼馴染がいても恋人になるとは限らない。漫画やアニメに出てくる幼馴染のような、そういう恋愛をしている気でいた。そのことを千秋の口から聞けたのが、とても嬉しい。
「和葉ちゃんも今は運命の相手が見つかっていないだけで見つかったら変わるよ、きっと」
「本当に変われるのなら、いいんだけどね」
「和樹くんが心配しなくても大丈夫だって」
「……別に姉貴が心配なわけじゃなくて、弟として姉のだらしない姿を見たくないだけだよ」
「本当かなぁ? 昔は和葉ちゃんに甘えていたのに」
楽しげに勘繰る千秋から目線を逸らす。
「と、とにかく! これからも千秋と一緒にいたい」
「私もだよ。だから和樹くんも他に好きな人作らないでね」
悪戯っぽく笑う千秋に「当たり前だろ」と返す。
「どんなことがあったって千秋を裏切るようなことはしない」
「うん、約束だよ」
僕達は微笑み、握っていた手を確かめるように強く握り合った。
地元の駅に着いた頃には、空が真っ暗になっていた。
「あ、私、買い物してから帰らないといけないから」
「付き合おうか?」と訊いたが、首を横に振りながら「ううん、大丈夫」と断るので、しつこく訊くのもよくないと思い、大人しく一人で帰ることにした。
「今日は楽しかったよ」
「私も楽しかった! 帰ったらライン送るね」
「僕も帰ったら送るよ。じゃ、また」
駅前で小さく手を振って、千秋の後ろ姿が見えなくなるまで見送った。
これが恋人として、最後の会話になるとも知らずに。
僕達が別れた三十分後、駅前の交差点に路線バスが突っ込む事故が起きた。
その事故の犠牲者の中に――千秋がいた。
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