第四話 身代わり石


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 翌日の八月十六日。


 朝早くにかかってきた電話で、千秋のお父さんから事故の報せを受けた時は悪い夢でも見ているんじゃないかと疑った。


 ――千秋が事故に遭った。


 頭が真っ白になり、疑う以外に何も考えられない。電話を終えてからどうやって病院に辿り着いたのか憶えてすらいない。


 駆けつけた病室で千秋と対面しても目の前の光景を受け入れることができなかった。人工呼吸器を装着している顔も、無数の管に繋がれた体も、僕の知っている彼女とはかけ離れていて、見れば見るほど現実から遠ざかっていく。


 事故のニュースなんて今まで嫌なほど見てきた。自分達の身にも同じことが起こるかもしれない、と想像することもあった。もしも千秋が事故に遭ったら、泣き叫びながら必死に言葉を掛けるだろうと思っていた。


 しかし、現実はどうだろうか。流す涙も、掛ける言葉も出てこない。心電図の音が鳴り続ける病室には、ただ現実を受け入れられないでいる情けない彼氏の姿しかなかった。


 事故が起きたのは駅前で別れてから約三十分後。赤信号の交差点に路線バスが猛スピードで突っ込み、多数の通行人を撥ねた。その犠牲者の中に千秋が含まれていた。ニュースでも大々的に報じられ、バスの乗客は「運転手が突然意識を失った」と証言していた。


 死傷者が大勢出たこの事故で、千秋はなんとか命を取り留めたものの意識は戻らず、後に遷延性意識障害と診断された。重度の昏睡状態、要するに植物状態である。医師の診断では回復の見込みは絶望的で、意識が戻る可能性は極めて低い、と伝えられていた。


 そのことを千秋のお母さんから聞かされた時、僕は耳を塞いで逃げ出したくなった。ハンカチで涙を拭いながら話す千秋のお母さんは諦めているようにも見えて、現実から目を背けたかった僕の逃げ場は失われかけた。


 だからこそ現実を受け入れてしまう前に言葉を振り絞る。


「大丈夫ですよ。千秋ならきっと目を覚まします」


 ここで僕まで泣いてしまったら、彼氏である僕が諦めてしまったら、千秋は本当に二度と目を覚まさないんじゃないかと思った。無理やり口角を上げて笑みを作りながら「千秋が目を覚ますのを待ちましょう」と千秋のお母さんを励ました。


 僕はいつまでも待つつもりだった。千秋が目覚めるのが十年後だろうが、二十年後だろうが、いくらでも待つつもりでいた。いつか想いが通じて目を覚ますと信じていた。


 ――これからじゃないか。こんなところで終わるはずがない。


 高校生にもなって「諦めなければ、そのうち想いが通じて目を覚ます」なんてドラマやアニメで起こるような奇跡を信じるとか馬鹿みたいだろ。


 でも、当時の僕は馬鹿だったんだよ。


 この事故がきっかけで、僕の人生は大きく変わっていった。


 夏休み明けの始業式。校長先生が事故のことに触れると、周囲はざわついた。千秋と仲が良い女子グループ周辺は既に知っていたらしく、始業式前に色々と訊かれたが、大半のクラスメイトは驚いている様子だった。


 それもそうだ、彼氏である僕が周りに事故のことを話していなかったのだから。別に隠そうとしていたわけではないのだが、千秋の容態を誰かに話す気にはなれなかった。「あとで質問攻めに遭うんだろうな」と憂鬱になりながら、校長先生の話が終わるのを待った。


 案の定、始業式が終わると同時に友達や部活仲間に囲まれた。しかし、質問攻めに遭うことはなく、励ましの言葉が飛び交う。「大変だろうけど頑張れよ」とか「きっと良くなるって」など飾り気のない素朴な励ましばかりだったけど、言葉を掛けてもらえたことで気持ちが少しだけ楽になり、目頭が熱くなった。事故が起きてから一人で不安を抱え込みすぎていたのかもしれない。堪えらずに涙を流すと、また一段と励ましの声が大きくなった。


 二学期が始まった後も千秋のいる病室には毎日通い続けた。学校が終わると、すぐに病院へ向かい、眠り続けている千秋にその日の出来事を語り聞かせる。手を握ったり、彼女がカラオケでよく歌っていた曲を流したりもした。


 ネットによれば、昏睡状態の患者に語りかけたり、音楽を聞かせたりすることで意識を取り戻した回復例もあるようだ。すぐに目を覚まさなくても、せめて千秋の耳に届いていればいいな、と僕は願った。


 この時はまだ千秋が目覚める未来を信じていたし、サッカー部の仲間も気を遣ってくれていたようで、部活を休み続けて病室へ通い続けていることにも文句を言わないでくれていた。


 それは『この時ならまだ引き返すことができた』ということでもあり、この後の選択を間違えさえしてなければ、僕の未来はまだマシなものになっていたのだろう。


 ――千秋を見捨てて、引き返すべきだったのだ。



 九月十二日。その日は千秋の誕生日プレゼントを買う為に少し遠くの街へ出掛けていた。


 まず最初に買ったのは指輪。事故がなければネックレスをプレゼントするつもりだったけど、ベッドで寝たきりの彼女が身に着けるにはどうなのかと一考し、指輪に変更した。


 それともう一つ、お守りをプレゼントしようと神社へ向かっていた。


 お守りと偏に言っても、「恋愛成就」「合格祈願」「商売繁盛」「金運上昇」など種類が沢山ある。事故が起きてしまった今では「交通安全」のお守りをあげても意味がないので、容態の悪化を防いでくれそうな「無病息災」や「厄除け祈願」のお守りが売っている神社を探した。


 ネットで調べた末に見つけたのが、『身代わりお守り』と呼ばれるお守り。怪我や病気といった災厄から身代わりになって守ってくれて、役目を果たすと壊れたり、変色したりするらしい。


 真偽はともかく、身代わりになってくれるというのは効果がありそうで、これをあげることにした。


 そのお守りが売られている神社は、都内にある閑静な住宅街の近くにあった。


 ここが神社だと一目で分かる大きな赤い鳥居を潜り、坂道のような長い石段を登る。遠目から見ても急な傾斜だと分かる石段を登るのは、サッカーをやっている僕でもしんどかった。


 石段を登りきり、小さな鳥居が並んだ参道の先に拝殿を確認する。そこそこ大きい神社なのだが参拝客の姿が見当たらず、不気味に思うくらい静まり返っていた。手水舎で手を清めてから参拝をして、お守りが売られている授与所へ歩き出す。


 ふと、視界に入ってきたのが『厄』と書かれた大きな丸い石だった。その石の前には立て札があり、「身代わり石 一回参百円」と書かれている。三百円払って何をする石なのか気になり、お守りを買うついでに訊いてみることにした。


 授与所ではお守りの他にも御札やおみくじ、絵馬などが売られていた。その中からネットで見たのと同じお守りを見つけて手に取る。それと同時に奥から巫女装束を着た若い女性が出てきた。


「なんか買うの?」


 客が来るとは思っていなかったような言い方だったから少し困惑した。


「これ、ください」


 お守りを見せながら五百円玉を渡すと、「ちょうどね。袋入れる?」と軽い口調で訊かれた。おそらくアルバイトなんだろう。欠伸をしながら、小さな白い紙袋を渡してきた。


「ありがとうございます」


 お守りを紙袋に入れて鞄にしまい、立ち去ろうとしたところで思い出す。


「そういえば、あそこにある石はなんですか?」


 身代わり石を指差しながら訊ねた。


「あれは……そうだね。『厄割り石』とか『かわらけ投げ』だと思えばいいよ」


「厄割り石?」


「おまじないみたいなもんだよ。あの石にお皿を投げつけて割ると厄落としできるっていうのが本来の厄割り石……なんだけど、この神社って身代わりお守りが売りじゃん?」


 そう言って巫女さんは、手のひらにギリギリ収まる大きさの白い玉を取り出した。


「まず、この玉に治したいところを書くの。足が悪ければ『足』と書いて、これを身代わり石に投げて割ると、なんと玉が身代わりとなって足が良くなる! っていう独自のルールと設定を採用したのが、あそこにある身代わり石なわけ」


 巫女さんの顔を見つめながら、胡散臭い神社だと思った。でも、最後のルールと設定を採用したことを聞かなければ、信じていたかもしれない。現にお守りだって買っているし。


「やる人いるんですか?」


「結構いるよ。ゲーム感覚でやっていく人もいれば、実際に良くなったって報告しに来る人もいるし、もしかしたら本当に身代わりになってくれているのかも」


「やっていく? 私は信じてないけど」と付け足して笑う巫女さんは全然巫女らしくなかった。


 さっきの話を聞いて信じる人間はいないだろう。だけど、やるかどうかで真剣に悩んだ。千秋にしてやれることなんて意識が戻るのを待つだけ。おまじないだろうとやれることはなんでもやりたかったし、三百円をケチるのも彼氏としてのプライドが許さなかった。


「せっかくなのでやります」


「え? やるの?」


 財布から取り出した三枚の百円玉と引き換えに、玉とマジックペンを受け取る。何で作られているのか分からない玉は、中が空洞になっているようで見た目より軽かった。


「書いたり、投げたりするのって本人じゃなくてもいいんですか?」


 マジックペンを手に持った瞬間に思ったことだが、本人じゃないと駄目とかあるのだろうか。


 巫女さんは一瞬悩むような表情を見せて「他の人を治したいってこと? 別に珍しいことじゃないし、気持ちがこもっていればいいんじゃない?」と疑問形で答えた。真面目に考えるだけ時間の無駄のようだ。


 それでも千秋の身代わりになってくれるとしたら、なんて書けばいいのだろう、と考え込んでしまう。「目を覚ましてほしい場合は『頭』か『脳』と書けばいいのだろうか」など十分ぐらい悩んだ末に書いたのが「千秋」の二文字だった。


 意識が戻ったとしても身体の怪我を治さないといけない。どうせ「治したい箇所は一つだけ」という決まりもないだろうし、巫女さんに訊いても疑問形で返されるか、新しい設定が追加されるだけだろう。


 千秋と書かれた玉を手に持ち、授与所から身代わり石の前へ歩いていく。手前には石の台があり、その上に立って狙いを定める。


 そして――玉を投げた。


 僕の手から放たれた玉は身代わり石のど真ん中に当たり、パキッと音を立てて割れた。綺麗に割れたからと言って達成感があるわけでもなく、彼女の名前が書かれた石を割ったことによる罪悪感の方が強かった。


 授与所へ戻り、無事に割れたことを巫女さんに報告すると、「そう。願いが叶うといいね」と微笑んだ。


「そろそろ帰ります。ありがとうございました」


 背を向けて帰ろうとすると、後ろから「あぁ、そうそう」と呼び止められて振り返った。


「もし夢の中で身代わり石が出てきたら、玉を投げないようにね」


 巫女さんは確かにそう言った。


 夢の中で身代わり石が出てきたら?


 何を言っているのか分からず、訊き返す。


「どういうことですか?」


「参拝客から『夢に身代わり石が出てきた』って話をたまに聞くんだけど、それがちょっと気味の悪い話でね。夢を見た人にはある共通点があるんだ」


「共通点?」


「君と同じだよ。夢を見た人は全員、現実で誰かを治そうとして玉を投げていた」


 巫女さんは「本気で信じているわけじゃないんだけど」と前置きして続きを話す。


「夢の内容もほとんど一致していてね。夢の中に身代わり石と玉が出てきて、玉には最初から文字が書かれているんだって。その玉を身代わり石に投げて割ると、現実で願った通りになるんだけど……」


「願った通りになるって、治してほしかった人の病気や怪我が治るってことですよね?」


「うん。でも代わりに、自分は玉に書かれていたものを失うことになる」


 あまりに現実離れした話で首を傾げる。


「それだと玉じゃなくて、願った人が身代わりになっていますよね。実際に症状が治ったり、何かを失った人がいたんですか?」


「いや、いないよ。玉に書かれているものは人によって違うんだけど、『目』や『足』だったり、失いたくないものばかりだから、皆ビビって投げないまま目覚めるのを待った、って」


 それを聞いて、ますます話が分からなくなる。


「じゃあ、なんで玉を割ったら願いが叶って、何かを失うって話が出てくるんです?」


「夢を見た人には分かるらしいよ。私は見たことないからどう分かるのか分からないけれど、夢の中って瞬間移動しても不思議に思わないじゃん? そういう現実じゃ信じられないようなことも受け入れてしまうのと同じようなものなんじゃないかな。夢を見た瞬間から『玉が割れたら願いが叶って、書かれたものを失う』って信じ込んでいる状態だったり」


 そういうものなのだろうか。


 とは言え、小さい頃はよく戦隊モノのヒーローになる夢を見ていた。なぜ自分がヒーローになって戦っているのか、なぜ身長が高くなっているのか不思議に思わないまま出てくる怪人をひたすら倒す夢。


「ま、実際にどうなるのかは置いといて不思議な話ではあるよね。夢を見た人に共通点があって、夢の中での出来事をハッキリ覚えていて、誰も玉を投げなかったって。夢の中なんだからノリで玉を投げる人がいてもいいと思うんだけどねぇ」


 確かに勢いで投げる人がいてもおかしくないし、僕なら間違いなく――


「もし夢を見たら臆せずに投げてみますよ」


 冗談めかして微笑むと、巫女さんは「やめといた方がいいよ」と忠告しつつも「夢を見たら結果報告よろしくね」と楽しみにしているような口ぶりだった。


 投げるのは本人じゃないと駄目なのか訊いた時に巫女さんが一瞬悩んでいるように見えたのは、夢のことを話すかどうかで悩んでいたのかもしれない。結局投げ終わってから忠告したということは、怖いもの見たさに結果報告を期待しているのだろう。今まで抱いていたイメージとは程遠い策士な巫女である。


 神社を後にした僕はいつも通りに病室へ足を運び、千秋に巫女さんから聞いた話を語り聞かせた。誕生日はまだ先だけど、身代わりお守りを枕元に置いて頭を優しく撫でる。


「代われるものなら代わってやりたい」


 どこかで聞いたような台詞が口から漏れた。


 巫女さんが話したことが本当に起きるのなら、僕は迷わず身代わりになるだろう。たとえ玉に「命」と書かれていたとしても、千秋が助かるのなら僕は喜んで命を差し出す。



 ――自分にはそれだけの覚悟があると思っていた。

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