032 覚悟

 青銅の短槍は大猪の顔に深く刺さっている。これを引き抜くのは無理だ。


 顔をこちらに向けた大猪が動く。牙が近い。野生の動物特有の濁った匂いが顔にかかる。青銅の短槍が深く刺さっているのに、それをものともしていない。


 ひっ。


 足が止まる。


 慌てて青銅の短槍から手を離す。手は離れた。だが、それ以上、体が動かない。離れないと――逃げないと駄目だと分かっているのに動けない。


 やばい、やばい。


 自分が、前の自分が生きながら喰われたことを思い出す。嫌でも思い出してしまう。


「タマちゃん!」

 リンゴが叫ぶ。


 大猪が動く。


 大猪が大きく後ろへと飛ぶ。機敏だ。盾を持ち、全力で突進を抑えこんでいたリンゴの――その盾が空を切る。そして、大猪が改めて動く。こちらへと駆けてくる。突進。


 リンゴは態勢を崩している。


 ヤバい、ヤバい。


 俺は手に何も持っていない。武器もない。いや、武器があったところで、この突進を前に何が出来る? って、のんきに考えている場合か。逃げないと……駄目だ。

 大猪の巨体が目の前へと迫る。


 もう駄目だ。俺は目を閉じる。


 そして、俺の体が跳ね飛ばされる。


 激しい音。


 だが、思ったほどの衝撃じゃない。


 あ、れ……?

 俺の体に異常は……無い。


 ゆっくりと目を開ける。

 そして、気付く。


 少し離れたところにリンゴが転がっている。倒れている、ではない――そう、無残な姿で転がっている、だ。それが、どれだけ激しい勢いだったのか、身につけている鎧が凹み、歪んでいる。生きているかどうかも分からない。ズタボロだ。


 そして離れたところで鼻息荒く足踏みをしている大猪。


 俺はリンゴに突き飛ばされ、助けられた。


 そう、助けられたんだ。


 俺の身代わりにリンゴが大猪の突進によって吹き飛ばされたんだ。


 俺は助かった。


 だが、まだ終わっていない。大猪は生きている。元気いっぱいだ。そして、ヤツは俺を見ている。青銅の短槍が刺さった顔でこちらを見ている。その傷を負わせたのが俺だと分かっているのだろう。


 逃げる?


 ここから――この状況で逃げ切れるとは思えない。


 それにリンゴを置いてはいけない。


 じゃあ、どうする?


 俺の今の手持ちは、タブレット、お金の入った袋、火打ち石、紐、だけだ。青銅の短槍はヤツに刺さったままだ。


 俺は周囲を見回す。


 リンゴが持っていた青銅の斧と盾が転がっている。両方、無事のようだ。そして、少し離れた、この自然の広場の入り口のところに、リンゴが背負っていた鞄が置かれていた。戦闘が始まった時に邪魔にならないようリンゴが置いたのだろう。いつの間に? そんなことすら見えていなかったことに気付く。

 いや、今はそれよりも重要なことがある。リンゴの鞄には斧が結びつけられている。ちょっとレアぽい感じの真銀の斧だ。


 武器。


 武器が必要だ。


 そして、ヤツが動く。大地を踏みしめ、地面を削り、大きな音を立て駆けてくる。こちらへと迫る。真銀の斧を取りに行く暇なんて――無い。


 タブレットを操作して、何か逆転の奇跡を――違う。


 そうじゃない。


 それでは同じだ。あの時と同じだ。同じ結果にしかならない。奇跡を信じて不思議な力に頼ろうとしていては駄目だ。


 それよりも……。


 俺は奴の顔に刺さった青銅の短槍に気付く。奴の顔から突き出た握りの部分――それは、まるで踏み台のようだ。

 俺が、今、持っているものは?


 ……覚悟を決める時だ。


 出来る。出来るはずだ。


 うん、出来るはずだ。


 今の俺なら、この体なら出来るはずだ。


 巨体が迫る。


 タイミングは一瞬だ。でも、出来る。俺は出来る。


 タイミングを見るのは、反応するのは得意なんだ。


 だから、出来る。


 迫る。恐ろしい勢いだ。


 出来るのか?


 可能なのか?


 突進の速度よりも早く動けるか?


 だけど、俺はやるッ!


 踏み出す。


 走る。


 こちらから大猪へと駆ける。


 尻尾に振られ、バランスを崩しそうになるが、踏ん張り、駆ける。ここで、こんなとこで、こんなことで失敗してたまるかよッ!


 ヤツが迫る。


 踏み出す。


 飛ぶ。


 そして、奴の顔に刺さった青銅の短槍の柄を踏み台としてさらに飛び上がる。手には紐。


 イケるッ!


 両手に持った紐をヤツの顎下に通し、そのまま背に乗る。

「さあ、行くぜッ!」

 紐を引っ張る。


 紐がヤツの首へ――強く引くッ!


 大猪が苦しそうに顔を持ち上げる。強く、強く引っ張る。締め上げるッ!

 普通に考えれば、こんな筋肉の塊みたいな大猪の首を、手に持った紐で絞めるなんて無理だ。無理に決まっている。

 だけど、今の俺なら出来る。今の俺の怪力なら出来るはずだ。この体はちっこいが恐ろしいほどの怪力だ。


 出来るッ!


 大猪が暴れる。振り落とされそうになるが、手に巻いた紐をしっかりと握りしめ耐える。ただ、ただ、力を入れ、紐を引く。こいつの首を絞める。


 落ちろ、落ちろ、落ちろ。


「オチロッ!」


 無我夢中で耐え、ただ、ただ、落ちろと念じながら首を絞める。


 どれくらいそうしていただろうか。


 突然、巨体が崩れた。力なく、地面へと倒れ込む。


「落ちたなッ!」

 ヤツの巨体から飛び降りる。


 大猪が目を閉じ倒れ込んでいる。完全に落ちている。だが、安心は出来ない。野生の動物の生命力を甘く見てはいけない――はず、だ。


 俺はリンゴが置いた鞄へと歩く。そして、その鞄に結びつけられた真銀の斧を取る。


 そして、崩れ落ちた大猪の前に立つ。そして振り上げる。


 だが、そこで手が止まる。


 分かってる、分かってるさ。トドメは必要だ。


 襲いかかってきている時なら普通に殺せるのに、さ。いざ、こうやって動かない相手にトドメを刺そうとすると手が止まってしまう。

 平和ボケしているんだろうな。


 もう何匹も魔獣を倒している。殺している。出来るはずだ。


 はぁ、はぁ、ふぅ、ふぅ。


 息を整えろ。


 気合いを入れろ。


 覚悟を決めろ。


 そして、俺は真銀の斧を振り下ろす。

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