005 結
冷たい。頬に冷たさを感じる。
その冷たさで思い出す。自分の体を、感覚を思い出す。
ああ、喉が渇いた。
喉が焼けるようだ。
水、水……。
何かを飲み込む。口の中にじゃりじゃりとしたものが広がる。
ゲホッ、ゲホッ。
思わず吐き出す。
そして、ゆっくりと目を開ける。
それは……泥。泥だ。泥水に顔を突っ込んでいる。
ゲホッ、ゲホッ。
ジャリジャリする訳だ。口の中が泥だらけで気持ち悪い。最悪だ。最低の気分だ。
……いや、今はそれよりも、だ。
俺は、あのモンスターに喰われて……どうなったんだ? 夢だったのか? いや、あの痛みと恐怖は覚えている。腐臭のする臭い息、自分の体が動かなくなっていく感覚――あの生きたまま喰われた恐怖は……。
手を見る。
手がある。
いや、何だろう。見慣れていた自分の手よりも小さくて、少し毛深くなっているような気がする。その腕の毛も白――いや、銀色のようだ。ただまぁ、その腕が泥だらけで大変なことになっている訳だけど……。
うっ。
お腹が痛い。
空腹とは違う痛みだ。
泥の地面に手を着き、ふらつきながらも上体を起こす。そして、自分の体を見る。
……。
……。
え?
もう一度、改めて自分の体を見る。
え?
何だ……これ?
胸元に大きな、何かに斬り裂かれたような傷、貫かれたような傷もある。そんな傷が残っている。いや、傷は良い。最近、付けられた傷のようだが、もう塞がっている。これが痛みの原因なのだろう。それは良い。それは、もう良い。
そうじゃない、そうじゃない。
何だ、これは?
少し毛深い体。そしてうっすらと膨らんだ胸。下半身の違和感。
……。
下の方へと手を伸ばしてみる。
……。
俺は、そのまま無言で崩れ落ちる。それにあわせて、はらりと長い銀色の髪がこぼれ落ちる。
長い……髪?
何だ、これは!
泥だらけの手で顔を触る。違和感しかない感触。張りがあってもちもちぷにぷにしている。耳がない。いや、元々、自分の耳があった場所に何も無い。
まさかと思い、頭の上を触る。
そこに何かが乗っている。摘まむ。少し痛い。感覚がある。
耳、か。
獣のような耳か。
どう……なっている?
ゆっくりと立ち上がる。そして、足に上手く力が入らなかったのか、ふらふらと体がよろめき倒れる。泥の水たまりへと顔面から突っ込む。
全身泥だらけだ。
……。
そして、もう一つのことに気付く。
お尻の辺りに何かふよふよと……。
それは泥だらけの細く伸びた毛玉だった。いや、泥だらけなのは、今、泥水に突っ込んだからだ。元々はもっとふわふわしていたのかもしれない。
今は泥だらけになって萎んでしまっている!
これは……尻尾だ!
この体、尻尾が生えている!
この尻尾、動くのか? 自分の意思と関係なく動いているように見える。意識していないのに、微妙に揺れているというか……。
お腹の傷が開きそうなほど気合いを入れる。すると、わずかに意識したとおりに尻尾が動いた。こ、これは、これを動かすのは奥歯に挟まったものを取るくらい大変だ。そういったじれったさを感じるむずがゆさだ。
……。
何処かに綺麗な水たまりはないか?
キョロキョロと周囲を見回す。
あの塔が見える。
この世界に来た時に見えていた塔が見える。そして、近くに焼け焦げたような、黒く崩れた建物が――いくつも見える。
ここは……村か?
自分は斬り裂かれたようなボロボロの服を身に纏っている。もちろん、見覚えなんてない。肌触りは――ガサガサして正直、悪い。
泥にまみれ、這うように動き、綺麗な水たまりを探す。この辺りは泥だらけになっている。大雨でも降ったのだろうか。
そして、水たまりを見つける。
――綺麗な水面を見る。
そこに映っていたのは、分かっていたことだが――泥だらけの少女だった。頭の上に獣の耳が乗っている。幼いが、幼女と呼ぶよりは少女と呼んだ方がしっくりくるような、そんな年齢の女の子だ。
泥だらけの手で口の端を引っ張る。水に映った少女がにぃっと口の端を引っ張っている。そこには牙があった。
俺だ。
これが、俺?
あの時、生きたまま喰われて、気がついたら……女の子になっていた? いや、毛深くて泥だらけでみすぼらしい女の子、か。
顔も、体も、痩せ細って酷いものだ。目は落ち窪み、この世界を恨んでいるかのような不気味さがある。
可愛くは……無いな。
にしても、訳が分からない。
綺麗な水たまりを掬い水を飲む。そして、そのまま、顔を拭い、体の泥汚れも落としていく。
ボロボロだ。
どうしてこうなったかは分からない。
まずは……まずは……、そうだ、この周辺を見て回ろう。
膝に手を当て、よろよろと立ち上がる。体のバランスが悪いのか、すぐ倒れそうになってしまう。それでも何とか踏ん張り、耐える。
何処かに着るものがないだろうか。さすがに、こんな斬り裂かれたようなボロ布では服としての用を成さない。
それに素足だ。靴も欲しい。
転けないように、一歩、一歩、足元を確かめながらゆっくりと歩き、周囲を見て回る。
木造の建物? どれも、黒く、焦げ落ちている。廃墟か? いや、それにしては燃え跡が新しい気がする。
そして、その建物の影に見つける。それは腹ばいになって身を縮めた黒い塊だった。
もう一度、崩れた建物を見る。至る所に、それが見える。
黒焦げになった死体!
その死体にも獣の耳や尻尾が見える。そして、その黒焦げの死体の中には体の部位が切り取られたかのように欠けているものがある。
上半身と下半身が離れているような黒い塊もある。
斬り殺され、火を放たれた?
自分の小さな体を――胸の傷を見る。斬り裂かれた傷だ。斬られ、貫かれた傷だ。普通なら死んでしまうような傷だ。
……。
ま、まさか。
俺は、あの時、死んで、この少女の死体に乗り移ったのか? こんな、こんな死体だらけの、滅びた村で、この少女が生き残っている? 生き残っていた? そんな奇跡があるものか。
俺は……どうなったんだ?
俺の体は、俺の元々の体は無くなったのか?
……。
考えても、無駄、か。
……その後、俺は、この場にあった黒焦げの死体を弔った。何か無いかと探した家捜しのついでだ。家捜しで見つけた、乾燥しカピカピに固くなった芋のようなものを鋭い歯でかみ砕き、食べ、同じように見つけたクワのようなもので穴を掘り、焼け残っていた布を体に巻き付け、彼らを弔った。
未だにふらふらとしか歩けないが、この体は見た目よりもかなり力持ちだった。軽い力で穴が掘れる。黒焦げになった死体を運ぶのも簡単だった。焼け落ち、崩れた重そうな瓦礫も、炭化した木片も簡単に持ち上げることが出来た。
それでも、この村の広場に全ての死体を埋める頃には陽が落ちていた。
夜だ。
暗闇だ。
俺が喰われたのと同じ暗闇だ。
だけど、だ。
今の俺の目には――見えていた。この獣のような少女の体は暗闇でも問題無く見ることが出来るようだ。光がないのに、まるで目に暗闇を見通す暗視スコープでも付いているかのように、問題無く見ることが出来た。
立って歩くのは難しいが、見た目よりも力があり、夜目も利く。意外と便利な体なのかもしれない。
……。
……そして、これからどうするか、だ。
黒焦げの死体に付いた切り傷。この村は何者かに襲われたのかもしれない。それが戻ってこないという保証はない。
旅立つべきだ。
武器は――このクワと一緒に見つけたスキがある。何かに襲われたとしても、フォークのような、このスキで刺せば……何とかなるだろう。多分、何とかなるはずだ。だが、このスキ、長らく放置されていたからか持ち手の部分が脆くなっている。今の無駄に怪力な自分だと気を付けないと折ってしまいそうだ。大切に扱おう。
にしても、何処にも畑が見えないのに農具があったのは……何だったのだろう。このクワとスキは、この村の外れに転がっていた。手入れされず放置されていたような感じだ。だからこそ、燃えずに残っていたワケだが……。
足には靴代わりに布を巻き付け、見つけた十個程度の乾燥した芋のようなものを布に包み、肩から結びつけ下げている。これで準備は出来た。
塔は見えている。
ここは、俺が殺された場所から、そう離れていないはずだ。
俺は、俺がどうなったか確かめる必要がある。
向かうべきだ。
武器は刃がボロボロのクワと折れそうなスキだけ。また同じ目に遭うかもしれない。そう考えると足が震えそうになる。
それでも向かうべきだ。
俺は前に進むべきだ。
怖い。
怖い。
だけど、だからこそ、立ち向かうべきだ。
行こう。
確かめに行こう。
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