だから愛を迎えに行こう

「立花ー、女の子から電話だよ」

「……え」


 立花がお風呂から上がってきてキッチンで水を飲んでいる時、ちょうどローテーブルの上の立花の携帯が震えた。ディスプレイに表示されている名前はどこからどう見ても女の子の名前で、私は立花のほうに携帯を掲げた。立花は少し動揺したように体を震わせて、足早にこっちに歩いてきた。そして名前を確認すると、「あー……」と困ったような顔をしながらリビングを出て行ったのだ。……何だあれ。浮気か?その後リビングに戻ってきた立花はさっきのことはなかったかのように普通にしていて、しかもいつもより優しい気がして。……怪しい。

 次の日、私は立花の会社に来ていた。でっかい自社ビルを見上げたら、一番上が見えなくて首の後ろが痛い。いや別にね、立花の浮気調査に来たわけじゃない。ただ立花の会社の内部ってどうなってるんだろうって思っただけで……そう、実は今日キャリアウーマン風の格好で立花の会社に潜入してみようと思ってます。だって浮気するなら多分社内の子だし……じゃなくて、大企業の内側を見てみたかっただけ!

 意を決して入ってみたら、誰も私を気にもしていなかった。そりゃそうか。何千人も社員がいるんだから全員の顔を知っている人なんているわけない。私もこの会社の人だって普通の顔で入ればいいじゃん。でも大企業はそんなに甘くなかった。社員パス、あるわけない……。ピッ、ピッと改札みたいな機械に社員パスをタッチして入っていく社員の人たちの中で困り果てる。どうしよ……、立ち止まりかけたその時、後ろから誰かに腕を引かれた。まさか立花……?!そう思ったけれど、安心した。私の手を引いていたのは、できる部下・三崎くんだった。

 三崎くんは社員パスがなくても入れる一番奥の人気のない場所まで来ると立ち止まり、振り返った。


「早坂さん、何してるんですか」

「えー、あはは、ごめんね、ちょっと気になって、大企業の中ってどんな風になってるのかなって……」

「立花さんは浮気してないと思いますよ」

「……」


 三崎くん、だから違うってば。でもきっと全部見透かされているのだろう。私は一つため息を吐いた。


「……ごめん、重いよね、引いていいよ。でもお願い、立花には言わないで」

「……」

「立花が働いてるところ見てみたいと思ったのも本当なんだけどね」


 もうほんと、嫌になる。立花が、他の女の子に触れている妄想が頭の中を回って、離れなくて。信じられないとかそんなんじゃない。浮気はしないと思ってる。ただきっと、私が立花を好きすぎるだけ。


「……分かりました。俺と一緒なら入れるので」

「えっ」

「でも俺は基本立花さんと一緒なので途中までしか一緒に行けません。いいですか?」

「……うん、ごめんね、ありがとう」

「三崎ー」


 ふっと安堵に体の力を抜いた瞬間、立花の三崎くんを呼ぶ声が聞こえて。ハッと心臓が冷えた瞬間、三崎くんが私の手を引いた。そして私を隠すように壁に押し付け立花に背中を向ける。密着する体、三崎くんの綺麗な顔がすぐそばにあって。


「みさ……、あ、ごめん邪魔した?」

「……いえ」

「彼女紹介してよー」

「すみません、今は無理です、真っ赤なんで」


 三崎くんが私の顔を見て笑う。わ、悪い男だ、この人は……!

 立花が行ってしまったのをしっかり確認して、三崎くんは私から離れた。


「か、彼女いるなら、他の女の子にこんなことしちゃダメでしょ」

「平気です、早坂さんはこの世で一番俺を好きになる可能性がない人なんで」


 三崎くんは相当ドSだろうなと思った。彼女さん、大変だ。

 三崎くんの協力のおかげで何とか社内に侵入した私は、立花と三崎くんの営業部にやって来た。もちろん立花にバレないように外からちょっと覗くだけだ。立花は……ああ!!


「立花さん、これ出来ました!」

「ああ、ありがとう花ちゃん」


 私の目に映ったのは、立花を明らかに好きな女の子が立花に話しかけて、立花は優しく微笑みながら彼女に応える。そして、あの大きな手で彼女の頭を撫でてあげたのだ。花ちゃん、その名前には見覚えがある。昨日、電話に……


「ごめん、三崎くん」

「……」

「私帰る。ありがとう、迷惑かけてごめんね」

「早坂さん」

「なに?」

「これ、返さなくていいです」


 差し出されたハンカチは、三崎くんらしく綺麗にアイロンが掛けられていた。そこでようやく気付いたのだ。自分が泣きそうなことに。あれだけで浮気だとかそんな風に思った訳じゃない。ただ、私以外の女の子に簡単に触らないでよ、なんて。大人気なく思っただけ。


 別に気まずいわけじゃない。立花が浮気しているとは思わないし、立花はものすごく普通だ。こんなに悩んでいる私が馬鹿みたいに。でも相変わらず『花ちゃん』から電話はかかってきて、その度に私がいない部屋に行く。私がモヤモヤしていることなど知らない立花は、私の隣に戻ってきたら平然と手を出そうとしてくるのだ。


「最近何で嫌がるの」

「生理なの」

「一ヶ月も続く生理がありますか!」

「ちょ、うるさい」


 ソファーの上でジリジリとにじり寄ってくる立花から逃げていると、今度は私の携帯が鳴った。


「……あ」

「……え?」


 私は立花を押し退けてリビングから出た。


「もしもし、ごめん!」

『いえ、今大丈夫ですか』

「うん、大丈夫」


 電話の相手は三崎くんだった。この前お世話になったから、ハンカチのお礼を渡したいと連絡したのだ。もちろん重いものじゃなく、三崎くんから聞いた彼女さんの好きなケーキ屋さんのケーキを渡そうと思っている。あれくらいいいですよと三崎くんは言ったけれど、あの日は本当にお世話になったから。


「うん、じゃあ明日の7時に駅前で」

『はい』


 電話を切ってリビングに戻ろうとすると、リビングへ行くドアが少しだけ開いていて、その隙間から立花がじっとりとした目で見ていた。


「……何」

「三崎と会う約束したの」

「うん、ちょっとね」


 ドアを開けてリビングに入る。立花は私の後ろを魚の糞みたいについてきた。さっき私の携帯のディスプレイを覗き込んだ立花は、何故三崎くんと私が連絡を取っているのか気になっているらしい。でも何故かは言えない。あの日立花の会社に忍び込んだことを知られるわけに行かないからだ。


「何の用事?」

「立花には関係ないこと」

「関係なくないでしょ。部下と彼女が俺に隠れてコソコソしてんの気分悪いよ」

「自分だって……」

「え?」

「自分だって人のこと言えないでしょこの変態クソ野郎!!!」


 クッションを掴んで思いっきり立花に振り下ろした。まさか私がそんなに怒るとは思っていなかったらしい立花は驚きながらもヒラリとかわし、私の手を掴もうとした。でも、その動きは止まった。私が泣いていたからだ。何泣いてんだろ。いやだ。いやなのに。


「ヨリ……」

「触らないで!」


 浮気するとは思っていない。立花のことを信頼している。それは所詮、私が自分を守るための逃げなのだ。立花にあの子のことを聞く勇気もない私は、そうやって自分に言い聞かせて、立花の口から嫌なことを聞かないように逃げている。本当は、特別なのはヨリだけだよって、あの子とは何でもないんだよって、言ってほしい。でも、怖いから。他の子に優しくしないで。そんなことを自分が思う日が来るなんて思わなかった。


「ちょっと、離れよう」

「は?!」

「ごめん、冷静になりたい」


 涙を乱暴に拭ってリビングを出た。立花は追いかけて来る。ヨリ、待って、ヨリって。引き止めて、抱き締めて、好きだよって言ってほしい。でも、今はダメなの。私は立花のことが好きすぎる。


「ヨ、」

「追いかけてきたらその×××もぎ取るから!」

「……え」


 立花が怯んだ隙に立花の家を出た。どこに行こう。行くところなんかないのに。のめり込んでのめり込んで、苦しいなら。何もない、楽なところに行きたい。


***


 最近立花さんのげっそり具合が半端ない。早坂さんが家を出たことは早坂さん自身に聞いたので、立花さんに元気がない理由は分かっている。


『浮気じゃないですよ』


 最後に早坂さんに会ったのは協力したお礼だとか言って俺の恋人である静菜の好きなケーキを買ってきてくれた時のことだ。俺の言葉に早坂さんは苦笑いした。早坂さんも元気がないようだった。


『三崎くんはさ、私みたいな重い女嫌だよね』


 浮気を疑っているというより、自己嫌悪に陥っているほうか。これは長期化するかもしれない。そう思ったが、立花さんと花ちゃんの実際の関係をあまりよく知らないから勝手なことは言えない。ただ分かるのは、立花さんが早坂さん以外の女性を気にすることはないってことだけだ。


『……浮気じゃ、ないです』


 だから繰り返しそうやって言うしかないんだ。早坂さんが重いとは思わない。もし恋人が今の早坂さんみたいに不安になることがあったら全力でその不安を取り除いてやりたいと思うし、それを面倒だとも思わない。きっと立花さんもそうだ。でも、俺は立花さんじゃないから、慰めでも勝手なことは言えない。


『あはは、三崎くんって真面目だね』


 早坂さんは朗らかに笑った。この人を手放して後悔する立花さんを見たくないと思った。


「立花さんっ」


 げっそりしながらもちゃんと仕事はこなしている立花さんの周りには花ちゃんが纏わりつく。こんな言い方になってしまうのは多分、俺がどちらかと言うと早坂さんの味方だからだ。


「なーにー、花ちゃん」

「あの、私今日お弁当作ってきたんです。一緒に食べませんか?」

「あー、花ちゃんは料理上手なんだね……」


 花ちゃんから渡されたお弁当を持って固まる立花さん。キョトンとする花ちゃんの視線を遮って、俺は立花さんの手からお弁当を奪った。


「立花さん、今日は外で食べる約束だったでしょう」

「え、あ、……うん、うん、そうだね」


 花ちゃんにお弁当を返したら涙目で見つめられた。悪いけど俺は、あんたの味方はできないよ。屍状態の立花さんを引きずって会社を出た。

 花ちゃんが立花さんを好きなのは有名な話だった。立花さんは彼女がいることを公言していたけれど、早坂さんを知らない人間は「奪っちゃいなよ」なんて簡単に背中を押してしまう。何があったのかは知らないが、確かに最近立花さんと花ちゃんの距離はぐっと縮まったと思う。


「あんなの受け取ったら期待させますよ」

「うーん……」

「それとも早坂さんと別れてあの子と付き合う気ですか」


 早坂さんの強がった笑顔を見ていると、フラフラしているこの人に苛々する。それに、あんただって。後悔することが分かり切っているほうに行くわけないよな?


「三崎ってさ」

「はい」

「ヨリと花ちゃんどっちがいい女だと思う?」

「はぁ?」

「ヨリってさ、全く料理できないんだよね。素直じゃないとこあるしすぐ暴言吐くしおっぱいもそんなに大きくないし」

「……」

「その点、花ちゃんは料理上手だし甘え上手だし女の子らしいしおっぱい大きいし。モテるのは確実に花ちゃんだよね」

「……」

「でもさー、欠点も全部含めてヨリのこと好きなんだよね、俺。誰かに取られるの、想像しただけでイライラしてさ。隠れて連絡取ってたお前にも結構、恨み持ってっから」

「……え」

「そろそろ何とかすっかなぁ」


 ポンと肩に手を置かれて、偽物だと一瞬で分かる笑顔に寒気がした。でも、この人はちゃんと分かっている。自分が進むべきほうを。


「いや、あの、あれは事情が、」

「あー別にいいよ、恨んでるからってお前にキツく当たったりしないから安心して」


 だからあの、笑顔が怖いです。


***


「あの……、早坂さんって、もしかして……、馬鹿なんですか」


 躊躇うように、遠慮がちに、それでもズバッと思ったことをハッキリ言うのが三崎くんらしいと思った。三崎くんは呆れているのだろうけれど、それを決して見せてはいけないと私を気遣っているのが表情から見て取れた。


「三崎くんっていい人だね……」

「この前たまたま俺に会えたから助けられたって言いましたよね?今日もたまたま俺に会えると思ったんですか?それともこの前は無理だったけど今日は自分で何とかできるとでも思ったんですか?」

「ぐっ……」


 今日、私はまた立花の会社に来ていた。決して仲直りしたいからじゃない。寂しくなってきたとかじゃない。立花がちゃんと生活できているか心配になっただけだ。また改札みたいな機械の前で青ざめているところに三崎くんが現れた。あ、今気付いた。私呆れられているというか、叱られてるんだ。


「ごめん、あの、すぐ帰るから」

「え、早坂さん?」


 そうだ、よく考えたら立花は私と再会する前も独り暮らしだったし、料理だって洗濯だって何だってできるんだ。むしろ私の分のご飯まで作らなくていいから楽だったかもしれない。自惚れてた。

 三崎くんに頭を下げて出口に向かう。タイミングがいいのか悪いのか、向こうから立花が歩いてきた。ああ、姿を見ただけで、安心だとか胸をぎゅっと締め付ける切なさだとか恋しさだとか、コントロールできない気持ちが溢れてきて。気付かれたくなくて俯いた。……本当は、隣を歩く可愛らしい女の子から目を逸らしたかっただけだけど。おしとやかで可愛らしくて、立花にお似合い……


「……2度目だね、その格好」

「……え?」


 突然近くで声が聞こえて、私は固まった。顔を上げると立花が微笑んでいた。この人混みの中から、ちゃんと見つけてくれるんだね。


「……え?に、2度目って……」

「この前もいたでしょ。三崎とイチャイチャしてたよね?」


 ば、バレていた……!ていうか笑顔が怖い!!立花の隣の女の子、多分花ちゃん、はキョトンとした顔で私を見る。立花はただまっすぐに私を見て、私の髪を1束指で掬った。立花の長い指をサラサラと流れ落ちる髪を、摘んで。一歩で距離を詰めて、ふわりと立花の香りが漂った。ちゅ、ちゅ、と髪にキスをされて、まるで髪に神経が通ったみたいに顔が真っ赤になる。立花はずっと、私を見つめたまま。


「仲直り、しに来てくれたの?翔の家にいたのは知ってる。ヨリ、嫌な思いさせてごめんね」


 花ちゃんが、見てるのに。そう思うのに、絶対に離さないって指先から伝わってくる。私は立花から目が離せなかった。


「俺が好きなのは、ヨリだけだよ」


 ああ、もう。不安なんて一瞬で弾け飛ぶ。今すぐここで抱き締めてほしいって思う。目の前の愛しいこの人に、触れたいって。ピクッと動いた手を止めたのは、花ちゃんの声だった。


「立花さん!もう行かないと!」


 そうだ、立花はこれから仕事なんだ。この子と、一緒に。帰るね、と口を開こうとしたけれど、立花は腕時計を見て微笑んだ。


「あと15分は平気。ヨリ、ちょっと話そう」


 立花は私の手を握って歩き出した。花ちゃんは何も言わなかった。振り向くこともできなかった。嫌な女になってしまう気がして。

 立花が立ち止まったのはこの前三崎くんと話した人気のないトイレの前だった。


「花ちゃんとは何もないよ。ちょっと相談受けてただけ」

「……」

「でも嫌な思いさせたのは謝る。何もないって分かってても、俺も三崎とヨリのことで嫌だったから」

「……ごめん」

「……ヨリ」


 立花が私を見て、微笑む。会うのは、触れるのは、2週間ぶり。たった2週間なのに、恋しくてたまらなかった。


「ヨリって実はすっごく俺のこと好きだよね」

「調子乗んな」

「乗るよ、だって、変装してまで俺に会いたかったんでしょ」


 抱き締められると、全てがどうでもよくなる。私は自分で思っている以上にきっと、この人のことが好きだ。


「キスしていい?つーか、抱きたい」

「……」

「無言イコール肯定だよね」

「ち、違うよ呆れてただけ、て、どこ触ってっ」

「ヨリのお尻最高ー!!!」

「声デカいわ!!」


 このトイレでするの、2回目なんですけど。もう、2度と会社には来ない。絶対!!!


***


 始業時間直前になって立花さんがやって来た。それはもうスッキリした顔で。仲直りできたみたいでよかったです。口に出したら面倒臭そうだから心の中だけで思っておく。


「た、立花さん、あの」


 俺に話を聞いて欲しそうにチラチラと見てくる立花さんを無視していたら、花ちゃんが立花さんに声をかけた。今の立花さんに声をかけるなんて勇者だ。


「さっきの人、誰ですか?ま、まさか恋人とかじゃ……」

「彼女だよー。あれ、俺彼女いるって結構言ってるけど、知らなかった?」


 花ちゃんは目に涙を溜める。そして、立花さんの服をきゅっと握った。


「ショックです……」


 で、何なの。俺がこういう子苦手だからイライラする。好きなら好きってハッキリ言えよ。ただし、仕事が終わってからな。


「うん、まぁ、花ちゃん彼氏のこと俺に相談して来たのに簡単に心変わりするような子だったんだって俺はそれがショックだけど」

「そ、それはっ」

「あ、もしかして彼氏いんのも嘘だった?あー、そっちの方が幻滅ー。俺結構親身になって聞いてたのになー」

「っ、」


 唇を噛む花ちゃんを見下ろす立花さんの目は冷たい。早坂さんに向ける目があまりにも優しかったから、更に。さっきの立花さんを目の前で見ていた花ちゃんも、その違いはきっと分かっていて。目に溜まっていた涙が引いていく。


「ブスな彼女とお幸せに」


 とんでもない捨て台詞を吐いて花ちゃんは行ってしまった。「ヨリがブスに見えるなんてあの女目おかしいな」なんてブツブツ言っている立花さんが不意に俺を見た。あ、やべ、目合った。


「三崎ー」

「……何ですか」

「中出ししたら引っ叩かれた」

「……」


 それでニヤニヤしてるとか、まさか立花さんドMなんですか。聞きたくなかった。ため息を吐きながらも安心している俺がいた。やっぱり二人は、一緒の方がしっくりくる。

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三度目の恋 白川ゆい @mimosay

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