タチの悪い男

 起き上がると、カーテンの隙間から差し込む光がシーツを照らした。真っ白のシーツがモゾリと動く。振り向けば、立花が穏やかな寝顔で熟睡していた。よく晴れて気持ちのいい朝だ。今何時だろうと枕元の携帯に手を伸ばせば、その手を突然掴まれシーツの中に引きずり込まれた。


「……寒い」

「あ、立花もう10時だよ!買い物行こう」

「ヨリ寝起きから元気だね……」

「あんたの下半身もね」

「俺の下半身はいつも元気だよ」

「それ問題発言」


 太ももに擦りつけてくる立花のお腹に一発パンチを入れれば、「ごふっ」と変な声を出して立花は離れた。それでもお腹に巻き付いてくる立花の腕を拒むことができないのは何故か。……ていうか、そもそも何で一緒に寝てるんだっけ。


「ヨリ、俺やっぱり一緒に寝たい」

「は?」


 昨日、私を抱き締めたまま立花は言った。部屋着と言えど立花に隙を見せるのは嫌でしっかりと着込んだ私の体を見下ろして立花はため息を吐く。対して立花はTシャツにスエットという軽装だ。この季節に半袖で寒くないのかと思ったけれど、このマンションは床暖房完備で寒くないらしい。床暖房があっても寒いものは寒いと思うんだけど……。


「布団で寝るの寒いから」

「服着なよ」

「……」

「……」

「……薄情だね」


 立花はソファーの上で膝を抱えてしまった。もうすぐ30になる男がそれを可愛いと思ってやっているのだろうか。引く。


「じゃあ私布団借りるからベッドで寝なよ」

「女の子が体冷やしちゃダメでしょ。いつか俺の子ども産まないといけないのに」

「孕ます気満々か」


 紳士なのかただの変態なのかよく分からない立花にため息を吐く。


「ねぇ、分かってる?私今日婚約者に逃げられたばかり!」

「そうだね」

「なのにすぐ次行けないもん」

「その割にヨリ全然落ち込んでないね」

「くっ……」


 この男、相変わらず痛いところを突いてくる。確かにそうなのだ。私は今日婚約者に逃げられたばかりなのにそこまで落ち込んでいない。お金返せとか家具返せとか色々思うことはある。でも失恋の痛みはない。


「まぁ、ヨリが落ち着くまで待つけどね。俺としてはヨリが結婚しなくてラッキーだし」

「……」

「でも聞きたくないんだけどさー、その元婚約者とはセックスしたの」

「な……っ」

「ふーん。ほんとムカつくわ。落ち込んだ日向くんに添い寝くらいしてくれたらどうなの」


 理不尽にもほどがある。


「いや、あのね、立花……」

「あーもー立ち直れないー俺月曜日から仕事行けないー」

「……」

「何もしないのになー一緒に寝たほうが暖かいと思うけどなー」

「……」


 無言で見つめ合うこと数秒。非難するような立花の目に負け、私はとうとう頷いてしまった。私が立花の思い通りにならないだと?……どこが……!はぁ、とため息を吐いて歯磨きのために洗面所に向かう立花を見送った。

 ……そんなこんなで一緒に寝たのだけれど、立花は本当に何もしなかった。いや、キスはされたけど。本当に触れるだけのキスを数回しただけだった。立花の腕枕は意外と寝心地がよかった。そういえば前に立花が風邪を引いた時、一緒に寝たことがあったっけ。穏やかに寝息を立てる立花を見ながら、大変なことになったなぁと思った。


***


「歯ブラシ買ったし化粧水買ったし……」

「ヨリ、タオルとかもないの?」

「そうだ、簡単な服以外全部新居に送っちゃったんだ!私の荷物どうなったんだろう……」

「婚約者には全然電話繋がらないの」

「うん……」

「……。じゃあもういいじゃん。俺が買ってあげるからそんな奴のことはきっぱり忘れなさい」


 ポンポンと私の頭に手を置いて立花は歩き出す。

 大型のショッピングモールは休日なこともありすごい人だった。背の高い立花はスイスイと進んでいく。はぐれないように思わず立花の服の裾を掴んだ。それに気付いた立花は私の手を握り指を絡める。恋人繋ぎだ。ああ、やっぱり人がいっぱいいてよかった。真っ赤なのバレないよね。

 周りの音も聞こえなくなるくらい立花しか見えなかった。世界に二人だけになったみたいな。ただ手を繋いだだけなのに、こんなになるなんて。

 立花が不意に振り向く。そして微笑んだ。……ほんと、全部立花の思う通りになっているような気がして腹が立つ。頭の中、立花でいっぱいだ。

 結局立花は私の服や生活に必要なものを全部買ってくれた。このまま甘えているのは嫌だな。


「あー、すぐ働けるとこ見つからないかなー」


 お昼ご飯に入ったカフェで項垂れる。こういうのも全部立花がお金を払ってくれるのだ。申し訳なくて立花の言うことを全部聞かなきゃと思ってしまう。


「はっ……!まさかこれが目的……?!」

「ん?」

「お金で私を買う、みたいな……!」

「ねぇ、失礼じゃない?俺を変態親父みたいに言わないでほしい」

「あ、そ、そうだよね。ごめん……」

「まぁ、ヨリが簡単に逃げられないようにしようとは思ってるけどね」


 やっぱり深入りしたら危険な気がする、この男……!


「ねぇ、そんなに働きたいならさ、翔に言えば?」

「え?」

「アイツの店で働けばいいじゃん。俺も翔のところなら安心だし」


 その手があった……!


***


「いいよー。ヨリちゃんが事務もしてくれたら悠介喜ぶ」

「ありがとう!助かる!」


 事務的なことが全くできない、いや、無頓着な牧瀬の代わりに一条が事務仕事をしているらしい。本業も忙しいのに大変だな。

 私は前に勤めていた会社で財務なんかもしていたことがある。力になれるかもしれないと言えば、牧瀬は随分簡単に承諾してくれた。


「日向に甘えればいいのに。まじめだね」

「うん、怖いんだよね。いつか『体で払え』って本気で言われそうで……」

「あはは、確かに言いそう。でも日向はヨリちゃんが嫌がることはしないでしょ?」


 そう言った牧瀬に、思わず頷いてしまう。でも、本当にそうなのだ。私が嫌がることは絶対にしない。きっと底なしに優しいんだ。


「ヨリちゃんだけだよ」

「え?」

「日向がそんなに優しくするのはヨリちゃんだけ」


 牧瀬はそう言ってとっても美しく微笑んだ。どうして私の考えていることが分かったんだろう。牧瀬も立花と同じくらい怖い。

 牧瀬のお店はとんでもなく忙しかった。お店自体そんなに広くないからバイト3人でホールは何とか回せるけれど、とにかく牧瀬目当ての女性客が多い。呼ばれたと思えば『翔さん呼んでください』だとか『この連絡先翔さんに渡しといてください』だとか。忙しいんだからそんなことで呼ぶな……!と何度か口の端が引きつった。


「いつもこんななの……」


 バイトの彩香ちゃんにそう聞くと、彩香ちゃんは苦笑いして「そうです」と返す。それにしても牧瀬も結婚したのに女性客が減ってないってすごいな。


「今は翔さんの不倫相手になりたいって人が多いみたいです」

「うわー」


 何て罪な男なんだ牧瀬翔。


「ヨリちゃん、これお願い」

「はい」


 いつもニコニコしているのに仕事中の牧瀬は当たり前だけど真剣な顔をしている。それにしても綺麗な顔だな……


「……翔に見惚れてるの?」

「ヒッ」


 突然耳元で囁かれ、私は引きつった声を上げた。


「ななな何して……!」

「ご飯食べに来た。頑張ってる?」


 立花はコートとスーツを脱いでカウンターに腰掛ける。相変わらずスーツ姿は立花のイケメンさを5割り増しにするから腹が立つ。ネクタイを緩め、腕時計を外し、前髪を掻き上げる。目に毒な気がして慌てて目を逸らした。


「翔ー、俺オムライス」

「あ、日向お疲れ様。ワイン飲む?」

「赤の気分」

「じゃあヨリちゃん、倉庫から……」


 牧瀬にシャトー何とかと多分ワインの名前を言われた気がするけれど、ワインは全く飲まないからちんぷんかんぷんのまま倉庫に向かう。何て言ったかな。シャトーブリアン?


「シャトーブリアンシャトーブリアンシャトーブリアンシャトーブリアン……」

「シャトー・ラトゥールね。シャトーブリアンはお肉だから」

「っ、さっきから突然背後から現れないでよ!」


 何故か後ろに立花がいた。


「うーん、これだ」


 立花が手を伸ばし、背中に立花の胸がくっつく。ドキンと心臓が高鳴って体が強張る。わざわざ体を密着させているのが分かって文句を言いたいけれど、口も開かなかった。


「ヨリ、大丈夫?」

「っ、私の仕事だから、私が取る」

「届かないでしょヨリチビだし」

「し、失礼な!立花だってチビでしょ!」

「いやいやチビじゃないでしょ」

「た、確かにチビじゃないけど!」


 小学生でもこんな喧嘩しない気がする……。でも憎まれ口を叩いていないと平気でいられなかった。


「……あ」


 突然立花が纏う空気が変わったのが分かった。この色気、ほんと勘弁してほしい……!


「緊張してるんでしょ」


 分かってるくせに……!

 立花は私の腰に手を置き、首筋にキスをした。いちいち髪を退けるからタチが悪い。素肌に直接柔らかい感触がして、ぴくんと体が跳ねた。


「い、今仕事中だから……」

「ヨリ、こっち向いて」

「っ、立花!私牧瀬に怒られ……ん」


 無理やり後ろを向かされ唇を奪われた。触れるだけのキスが徐々に深くなっていく。歯列を丁寧になぞり、逃げる舌を絡め取り。立花の胸を弱々しく押した形だけの抵抗は、もちろん意味なんてない。それどころかその手を握られ更に距離が縮まった。


「……ヨリ、今自分がどんだけエロい顔してるか分かる?」


 唇を離して、立花が至近距離で微笑む。濡れた唇が色っぽくて、真っ赤な舌がその唇を舐めた。私は慌ててぼんやりとしてしまった頭を覚醒しようとするのだけれど、もう一度唇を奪われたら無理だった。


「ヨリ、ここで抱いていい?」

「っ、ダメ、」

「それ、抱くのがダメ?それとも、ここではダメ?」

「……っ」


 このまま離さないでほしい、なんて。馬鹿みたいに火照った体が上手く動かない。縋るように立花のシャツを掴んだ手はどうしても離れない。立花のキスはどんどん降りていく。首筋に、胸元に。思わず唇を噛んだ、その時。


「シャトー・ラトゥール、これだから」


 横から声が聞こえて立花の動きが止まる。


「日向、俺が作ったオムライスもちろん温かいうちに食べるよね?」


 牧瀬の笑顔の圧力に立花は顔を引きつらせて謝っていた。私も真っ赤になって牧瀬にひたすら謝って、何とか首を免れたのだった。

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