手の届く距離

「ヨリこの部屋使って」

「あ、ありがとう……」


 立花のことだから「ヨリの部屋は俺の腕の中だよ」とか言うかと思ったけれど、意外なことに寝室を貸してくれるみたいだ。立花は家で仕事をしないといけない時もあるから書斎に布団を敷くと。引きずられる形でここに来てしまったけれど、本当にいいのだろうか。


「明日休みだから一緒に買い物行こうか。必要なものいっぱいあるでしょ」

「っ、あの、ほんとごめん!なるべく早く仕事と家見つけるから……」

「いいよ別に。ていうかこのままずっとここにいてくれたらいいし。勢いのまま籍入れるのも悪くないと俺は思う」

「もう二度と勢いで結婚決めたりしない……」

「安心して。俺はヨリを絶対離さないから」


 ちゅ、と軽く唇を奪われて固まる。立花は平気な顔で「で、お風呂はここねー」なんて言っている。……やっぱり危険だこの男。


「ヨリは料理できないから、料理は俺がする」

「……、役に立てず申し訳ありません……」

「平気。その代わり他はお願いしていい?洗濯と掃除とお風呂で背中流すのとご奉仕……」

「性的な奉仕は無理だから!」


 ケラケラと笑いながら、立花はキッチンに入る。立花って料理も出来るのかな……。フンフンと鼻歌を歌いながら手際よく野菜を切っていく立花に見惚れる。うわー、腹立つくらい完璧な男だなー。


「あ、私貯金使い切っちゃったからほんとにお金ないんだけど……」

「だから言ってんじゃん。お礼は体で」

「……じゃあ出ていく」

「あー!嘘嘘嘘!いいって、俺はヨリと一緒にいられるだけで幸せだし」


 そう言って立花は微笑む。……ズルいよね、立花って。

 立花はパスタとサラダを作ってくれた。


「んー!美味しい!!」

「でしょー?いい旦那さんになりそうでしょー?」


 立花と再会して、まさか向かい合って立花の作ってくれたご飯を食べているなんて。変な感じ。急に黙った私の顔を立花が覗き込んでくる。目が合うと、優しい瞳と視線がぶつかる。


「……そうだね。いい旦那様になりそう」

「ヨリ」


 頬に温かい手が触れる。ピクッと反応した私の唇を長い指が撫でた。


「あんまり可愛いこと言うと俺の武器が暴れ回っちゃうから気を付けてね」

「……武器とは」

「あ、ちょっと待ってね、今見せてあげるから」

「結構です!」


 立ち上がってスラックスのチャックを開けようとする立花を慌てて制す。一年でパワーアップしている気がするのは私だけでしょうか。


「ヨリ先にお風呂入りなよ」

「……来ない?」

「うん、覗くだけ」

「私近くの銭湯行ってくる!」


 とても危険だと感じた私は近くにあるスーパー銭湯に行こうと立ち上がる。すると立花も立ち上がった。


「たまにはいいかも。一緒に行こうか」

「えっ、あ、そう?」

「うん。行こう」


 何故か二人でスーパー銭湯に行くことになり、私たちは一緒に家を出た。

 立花のマンションから歩いて10分ほどのところにスーパー銭湯があった。さすがにそのお金くらいは持っているけれど立花が奢ってくれた。あまりにスマートで惚れそうになった。


「好きなだけ入っておいで。ここ集合ね」


 休憩所のようなところを指差して立花が言った。頷いて女湯に向かう。そういえば温泉で襲われかけたことあったな……。まぁ、ここで襲われる可能性は0だし。今日は事件が起こりすぎたからとりあえずゆっくりしよう。

 そして数十分後、充分に銭湯を堪能した私は立花に言われた休憩所に向かった。ベンチにゆったりと腰掛けた立花が目に入る。いつも上げている前髪を下ろした立花はとんでもない色気を振り撒いていて、周りの女の子もチラチラと見ている。ああ、もうドキドキするな。これからしばらく一緒に住むのにドキドキなんてしてたら苦しいだけなのに。


「……ヨリ」


 私に気付いた立花が緩く手を振る。私は吸い寄せられるようにフラフラと立花のところに歩いて行った。


「ちゃんと髪乾かしなよ」


 立ち上がった立花が私に近寄る。目の前に来た胸板にドキンと胸が高鳴って、そっと髪に触れられると心臓が口から出そうだった。


「気持ちよかった?」

「うん、気持ちよかった」

「……ヨリ、今のもう一回言って。それだけで抜けそう」


 ……ほんと、喋ると残念だな。


「コンビニ寄っていい?」


 銭湯の帰り、立花がそう言った。もちろん頷いて立花に続いてコンビニに入る。避妊具を真剣に物色している立花の背中を殴って雑誌のところに行く。お金ないし、立花に奢ってもらうのも嫌だし大人しくしておこう。しばらくすると立花がレジを済ませて隣に来たから一緒に家に帰った。


「ただいまー」

「た、ただいま」


 いちいちドキドキする私に立花は笑う。仕方ないじゃん、立花と一緒に住むことになるなんて昨日の私は1ミリも思ってなかったんだからね。すぐに部屋に行こうとした私の背中に立花が声を掛けてきた。


「乾杯しようよ、一緒に住むんだし」

「え……」

「はい」


 立花が差し出した缶ビールを素直に受け取る。立花はソファーに座り、隣をポンポンと叩いた。


「……お邪魔します」

「遠慮しないで。今日からここはヨリの家でもあるんだし」


 立花が微笑む。乾杯、と缶ビールを合わせた。


「ヨリはさ、この一年充実してた?」


 立花は唐突にそう切り出した。優しく穏やかな笑顔から目を逸らす。今はまだ、立花に心の全部を持って行かれるのは怖い。


「……してたよ。いっぱい仕事していっぱい遊んだ。旅行も行ったし。立花は?」

「俺も充実してた。仕事して、たまに悠介たちと遊んで、仕事して、寧々の結婚式にイタリアまで行って、仕事して、仕事して、仕事して」

「仕事ばっかじゃん」

「うん。仕事ばっか。だって恋愛するつもりもなかったし」

「……」

「ヨリにまた会えたらってそればっか考えてた。充実してた」


 この一年。私は立花のことを忘れたことはなかった。もっとこうしていれば、あの時素直になっていれば。そんなことばかり考えて、後悔して。もう二度と会わないと決めても本当は会いたかった。他の人との結婚に逃げたのも、二度と叶わない想いを胸の奥底に閉じ込めたかったからだ。


「ヨリにすごく会いたかった」


 どうしても近付けない距離だった。隣にいても、壁もないのに近付いてはいけない気がしていた。でも、今は。缶ビールをテーブルに置いた立花が私の肩を抱き寄せた。立花の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。切なくて苦しいのに安心するのはどうしてだろう。トクトクと自分のじゃない心音が皮膚を伝って脳に流れ込んでくる。何故だか泣きそうになった。


「……ヨリ、俺決めたから」

「……」

「もうヨリを傷付けない。ヨリを離さない」

「……」

「俺にはヨリだけだよ」


 牧瀬の言葉が蘇る。


『うまく行くにはもう少し時間が必要なのかも』


 私たちは、上手く行く距離にようやく辿り着けたのだろうか。

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