きみがたいせつ

 暖かくなった道を、噛み締めるように歩く。制服を着てここに来るのは今日が最後だ。……厳密に言うと進路が決まったら報告に来ないといけないから最後じゃないけど。

 卒業式。私は今日、高校からも先生からも卒業する。一年前の私ならここを卒業することを寂しいとも何とも思わなかっただろう。でもこの一年で、離れがたい思い出が出来てしまったから。少しだけ苦しい。

 式は長いだけで何の感動もなかった。ついこの前二次試験を終えた私はひたすら家でゲームばかりしていた。受験勉強を終えたばかりの私を労ってくれているのか、ダラダラしていても親も何も言わない。

 滑り止めの私立は受かってるから、後期は受けない。つまり、私の受験生活は無事幕を閉じたのだ。

 ゲームのせいで寝不足で、式の間何度も欠伸を噛み殺した。やっぱり探してしまう先生の姿は当然あって、いつもより少し上等なスーツに身を包んだ先生は悔しいほどにカッコよかった。式が始まる時に一瞬目が合った気がしたけど、すぐに逸らした。


「彩香ちゃん、一緒に教室戻ろう」

「うん」


 急速に距離を縮めてきた元山下のファンたちは、みんないい子ばかりだった。春休み、一緒にカラオケ行こうね、だとか進路決まったら教えてね、だとか。戸惑っている間に春休みの予定が埋まっていく。私は初めて休みを楽しみに思った。


「この後駅前のカラオケ集合なー」


 最後のHRも終わり、クラスで集まるカラオケにも強制的に参加が決まり。家に帰って着替えないとなぁと思いつつ何となく離れがたくて。みんな教室に残っていたけれど、一人、また一人と帰っていく。私もそろそろ帰ろうか、そう思って立ち上がった時、目の前に誰かが立った。


「大橋」

「……山下」

「ちょっと散歩しようぜ」

「うん」


 ボタンを引きちぎられたらしい山下の制服はカッターシャツまでボロボロだった。必死で胸を隠している山下が気持ち悪くて可笑しくて、私は声を出して笑った。何で胸を隠すんだろう。

 山下と、校内を回った。山下に告白された中庭、賭けをされていたことを知った空き教室、一緒に勉強した図書室。……そして。


「最後にちゃんと話せよ」


 一緒に通った数学科準備室。山下がどこに向かっているか分かった時から泣きそうだった。


「大橋」

「っ、」

「俺、お前のこと好きだったよ」


 涙が溢れた。


「すっげー好きだったよ。一緒にいて楽しかった、切なかった。俺、一生お前のこと忘れないよ」

「っ、うぅ、」

「俺、頑張るから。お前が俺のこと選ばなかったの後悔するくらい、いい男になる。だから、お前も頑張れよ」

「……っ」

「後悔すんなら、何もしないより頑張ったほうがいいだろ?」


 山下がドアを開ける。そして、笑った。


「クラス会、大橋遅れるって言っとくから。気が済むまで喋れ」


 山下が去って行く。私今、少し後悔してる。山下を好きになれなかったこと。いい男だ、本当に。絶対に、幸せになってほしい。


「……大橋」

「……っ」


 開いたドアから、先生の声が聞こえる。必死で涙を拭ったけれど、無理だった。先生の温かい手が、頬を滑ったから。また涙が溢れた。 先生が私の腕を引く。部屋に入った途端、後ろでドアが閉まって。先生は離れなかった。私の目の前にいた。この距離がもどかしくて、嬉しくて、苦しい。


「……卒業おめでとう」

「っ、う、」

「最後に会えてよかった」


 ……今日で最後。本当に、最後。先生の顔、ちゃんと見なきゃもったいない。私はしっかりと涙を拭って、まっすぐに先生を見た。先生は今までに見たことがないくらい優しい顔をしていて。私も笑った。先生が、いつまでも私のことを覚えていてくれますように。ただ、それだけを願った。


「……一年、早かったな」

「うん」

「お前があそこに座ってて。変な女って思った」

「……私も、先生のこと変な人って思ったよ」


 うるせー、と笑った先生が私の髪をくしゃっと撫でる。嬉しくてくすぐったくて私も笑った。


「……ほんと、生意気で。すぐ落ち込むしすぐ泣きそうになるし。でもお前、よく折れなかったよな」

「……」

「すげーよ、お前。尊敬する」

「……ありがとう」


 先生のおかげだよ。きっと先生も分かってるから、あえて言わない。私がこの苦しい一年に耐えられたのは、先生のおかげだ。


「……行きたいとこ考えたか」

「……」

「行かないってのはなしだぞ」

「……でもね、先生、」

「このまま一生お前に会えないなんて、ごめんだからな」


 驚いていると、先生の手が後頭部に回って。そのまま引き寄せられた。抱き締められてる?そう思った時、先生の低い声が耳元で聞こえた。


「……好きだ」

「……!」

「生徒だけは絶対、好きにならねぇと思ってたのにな」


 先生は、ずるい。簡単に私の涙腺を崩壊させる。先生にしがみつけば、同じ強さで抱き締めてくれる。先生の白いシャツが、濃い色に変わっていく。


「か、彼女、は?」

「とっくに別れてる」

「いつ?」

「確か、文化祭の直前」


 思い当たることがあった。山下と出掛けた日、先生を見た。切なそうな顔で彼女を見つめる。もしかして、あの日だろうか。


「っ、で、でも、私のことなんて、全然好きじゃないみたいな……」

「教師だからな。お前の重荷になりたくなかった」


 少しだけ、先生が抱き締める手に力を込める。苦しくて、でも心地いい。


「……俺には立場とか、責任とか。お前を苦しめるものしかなかった。お前に好きだって言っても、そういうの全部、お前にも背負わせることになる」

「……」

「でもな、知ってるか?教師と生徒も、今日で最後だ。明日からは、ただの男と女だから」

「先生……」

「俺、大人だし。今時の男がするようなことできない。例えばペアリングだとか同棲だとか。お前を不安にさせることばっかかもな」

「うん……」

「でも、立場と責任はある。惚れさせた責任、ちゃんと取るから」

「っ、うん」

「寂しい思いはさせても、不幸にはしない」

「……っ、うん」

「だから、俺のそばにいてくれ」


 まるで懇願するような掠れた声に、私は必死で頷いた。お互いにしがみつくみたいに抱き合って、涙は先生の服を濡らしていく。これから先、どれだけ苦しいことがあっても先生の言葉だけで、先生がそばにいてくれるだけで。何でも乗り越えていけるような気がする。やっぱり私、先生に出会えてよかった。

 先生に寄りかかって一緒にソファーに座り、長い間色々なことを話した。先生はずっと手を繋いでくれていて、それだけで安心する。今まで言えなかった分、恥ずかしいけど沢山言う、と。先生はそう言って何度も「好きだ」と繰り返した。その度に実感していく。これは夢ではない。私は叶わない夢を見ているのではない、現実だと。


「キスは明日以降にお預け、セックスはお前が二十歳になってからだな」

「え、私二十歳まで処女なの?」

「まぁ、そうだな。仕方ねぇよな」

「やだ!明日する!」

「お前は俺を犯罪者にする気か」


 長ぇよな、先生が呟く。その後、でも、とニヤリと笑った。


「楽しみは取っといたほうが楽しめるからな?」


 と。カァッと真っ赤になる私を見て、先生は楽しそうに笑った。


「……大橋」

「なに?」

「俺、最後のほう必死だっただろ。キス強請られた時とかさよなら言われた時とか」

「え、そうだったの?!」


 必死そうには見えなかった。どちらかと言えば、大人の余裕を見せつけられた感じで悔しかったのに。


「ついでに言うとお前が山下と仲良くなってくの見て焦ってた。告白された時なんか焦りすぎておかしな態度取った」

「そう、だったんだ……」

「これからもお前馬鹿だから焦らされるんだろうな。変な男に言い寄られて」

「っ、そんなこと……」

「でもこれからは、ちゃんと好きだって言える。お前が泣いてたら抱き締めてやれる。もう、離さねぇからな」

「うん……」


 ぎゅうっと先生に抱きつく。頭を撫でてくれる手が心地いい。


「……好きだ」

「うん」


 さよなら、しなくていいんだね。ずっと一緒に、いられるんだね。


「先生」

「ん?」

「今までありがとう。これからもよろしく」


 先生は、私が知らないところで私を守ってくれた。先生に出会えてよかった。先生を好きになってよかった。後悔しないように、私はこれからも先生の隣で精一杯生きていく。だから先生、ちゃんと見ててね?私の、一番近くで。


「……おう。世界で一番、幸せにしてやる」


 笑った先生に、私はこれからも何度だって恋をするのだ。

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