さよならの色

「不安で眠れないのも、勉強で寝不足なのも後少し。大橋、よく頑張ったな」


 センター試験が終わり、一応志望校の合格ラインを満たしたことを報告したら川井先生がそう言ってくれた。ズルいなぁ、泣きそうになる。苦しかった受験勉強も、後少し。これもきっといつか思い出になる。そう思うと気分は晴れやかだ。

 センター試験が終わった、つまり、もう数学は必要ない。私が志望したのは結局、教育学部だ。決して先生に影響されたわけじゃない。ただ、私みたいに学校生活に馴染めない子がいたら少しでも手助けをしたいと思っただけ。……あ、結局先生に影響されてるか。

 二次試験まで後少し。二次試験が終われば、すぐに卒業式だ。先生にも、さよならしなくちゃいけない。


「……好きです」


 図書室に行くために中庭を歩いていると、そんな声が聞こえた。もうすぐ卒業だから、やっぱり気持ちだけでも伝えておこうという人はいるよね。何となく告白されている人を見て、あんぐりと口を開けてしまった。……先生だ。


「……悪い。生徒をそんな目で見られない」


 ……分かってた。分かってたけど、やっぱり痛い。当然だ。先生は責任ある立場で、理性もある大人。生徒の気持ちに応えるなんてこと、絶対にしない。分かっているけど、自分が言われたみたいで心臓がギュッと締め付けられる。

 思い出には、きっとなるのだろう。その時私の中で先生のことはどんな色になっているのか。きっとオレンジにピンクが混ざった温かい色、でも胸を締め付けられるような切なさも残る。こんなに好きになったこと、苦しいくらいに一生残る。


「……何してんのお前」


 壁にもたれて座り込んでいたら、ちょうど前を通った先生が怪訝そうに私の顔を覗き込んでいた。先生の顔、見られるのも後少しだ。最近はそんなことばかり考えて。


「……何でもない。図書室行く途中にしんどくなっただけ」

「はぁ?無理しすぎなんじゃねーの。センターも終わったしちょっと休めよ」

「うん、二次試験が終わったらね」


 先生は、これからの人生をどう生きるんだろう。簡単に見える。きっと教師を続けて、私みたいな生徒に山ほど出会って、これからも何人もの生徒に想いを寄せられて、でもそんなの関係なく。あの綺麗な彼女と結婚するんだ。これから先、あの人を幸せにするために生きていくんだ。


「……先生」

「あ?」

「彼女ってどんな人?」


 こんな、自分の胸を抉るためだけの質問。やっぱり私、ヤケになってるのかな。


「何、どした。センターダメだった?」


 先生は私の質問に答えず、心配そうに私を見てくる。違う、私が聞きたいのはそんなことじゃない。私が聞きたいのは……


「……諦めたいの」


 先生を諦めるための、理由。先生が彼女のことをどれだけ好きか確認したら、諦めざるを得ないじゃない?先生が目を細める。黒縁メガネの奥の目が、少しだけ切なく歪む。


「先生を好きでいることが、苦しい」


 諦めなきゃいけない理由しかない。これ以上好きでいても、私を成長させてくれる恋だったなんて思えない。私はただ、先生の特別になりたかった。絶対に叶わない、幸せな夢を。私は馬鹿みたいに見てたんだ。


「……困らせてごめんなさい。センターは大丈夫だったよ」

「……大橋」

「さ、二次試験まで後少し、頑張りますか」

「大橋」

「先生のおかげで数学できた。本当にありがとう」

「大橋って」

「今まで本当に、ありがとう」


 さよなら、と。目を見て言う自信がなかったから、深く頭を下げた。先生のおかげで数学ができたし、大切なことも沢山教えてもらった。切なくて苦しい恋を、私は今日無理やり終わらせる。登校日も少ない。先生には会いに行かなければ、きっと会わないから。


「……デート、するんだろ」

「え?」

「受かったらデートする約束だろ。どこ行きたいか考えとけ」

「え、い、いいよ、彼女に怒られるでしょ?」

「ああ?俺は約束破んのが一番嫌いなんだよ」

「あ、もう気にしないでよ。約束ってほどの約束じゃないし、私受験終わったらゲームして家から出ない予定だし……」

「いいから考えとけっつってんだよ馬鹿が」


 口わる!何故か少し怒ったような顔で、先生は去っていった。煙草の匂いがふわりと香る。……校内禁煙なのに。不良教師だなぁ、と苦笑いしながら。春には咲くだろう桜の木を見上げた。……あの花が咲く頃、私はもうここにはいない。

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