先生の香り

 冬休みが終わるととうとうセンター試験が間近に迫る。不安があるのは当然だけれど、もうすぐ受験から解放されるという楽しみもあった。受験が終わったらこの一年我慢していたことをひたすらやろうと思う。ゲームとかゲームとかゲームとか。

 山下のことが好きだった女子たちは、何故かそれから私に話しかけてくるようになった。ただ、山下に近付きたいから私に寄ってくるのかと思いきや


「私彼氏できた」


 なんて嬉しそうに言ってくるからよく分からなかった。そのことを先生に話したら、


「そういうの友達って言うんじゃねーの?」


 と言われて目からウロコ。厳密には私が全く気を許していないから友達未満、多分向こうが私と友達になりたいんだろうということだった。先生はすごい。私が知らないことを沢山知っている。

 ここ一ヶ月ぐらいが、私の三年間の高校生活の中で一番穏やかだったように感じる。陰口を言われることもない、変な噂を立てられることもない、先生を想って切なくて泣くこともない。やっぱり高校生活に必要だったのは心乱される恋ではなく、友達だったのではないか?そう思ったけれど、先生に出会わなければ私はきっと三年間孤立したままだったから。私の人生に先生との出会いは必要だったのだ。そこまで思える人に出会えて私はきっと幸せだ。例え叶わなくても、私は一生先生を忘れないだろう。

 大人になってから高校生活を思い出した時。今の私は先生に負けないくらい充実していたと胸を張って言える気がする。

 山下は相変わらずモテているようで、卒業を前に後輩の女の子によく呼び出されていた。

 先生と会えるのも、後一ヶ月と少し。後悔しないために出来ることは何か。勉強の合間に考えるのが日課になっていた。


「というわけで先生、キスしてください」

「……はぁ?」


 そりゃそんな反応になりますよね。突然数学科準備室に現れてそう言った私に、先生は盛大に顔を顰めた。


「どうしてそんな結論に達したのか分かるように話せ」

「うーん、先生と会えるの後少しでしょ?卒業したら私は強制的に先生を諦めるしかないの。それで後悔しないために何をするべきかって考えたら、キスしてもらえたら諦めつくんじゃないかって」


 告白して、振られて、納得した。でもやっぱり先生への気持ちは消えなくて。会えなくなったら忘れるのだろう。こんなに好きなこともいつか過去になって、もしかしたらもっともっと好きな人に出会えるかも知れない。ただの思い出だ。ああ、そう言えば私高校生の時先生のことが好きで最後にキスしてもらったなって。その時好きな人に話すかも知れない。淡い思い出として。


「お前やっぱ馬鹿だろ」

「受験を控えた生徒に対してそれは暴言です!」

「勉強とかそういう意味じゃなくて、もう根本的に馬鹿」


 呆れたようにため息を吐く先生の横顔は悔しいくらいにカッコいい。胸がきゅうんとなって苦しい。


「……すき」

「……」

「あいしてる」


 どんなに甘い言葉を言っても、先生は振り向いてくれない。それが悔しくて切なくて苦しいって、先生は知ってる?モテてきただろうから、知らないだろうな。私が先生より唯一知っていることだ。


「……お前さ」

「なに」

「……ほんとムカつくな」

「は?」

「してやるよ」

「何を?」

「だから、キスだろうが」


 え、と思った瞬間腕を掴まれる。立ち上がった先生に引き寄せられて、腰を抱かれた。初めて間近に見る顔。初めて直接触れる体温。スッと頬に当てられた手と瞳に、熱がこもっている。


「……したことあんのか」

「あ、あるに決まってんじゃん!」

「ふーん。目閉じろ」


 心臓がバクバクと暴れて息が出来ない。先生の長い指が唇を撫でる。目、なんて、閉じられない。先生、睫毛長い。動けない。お昼ご飯何食べたっけ。ニンニクでも食べて臭ってたらどうしよう。わ、先生、いい香り。

 ゆっくりと近付いてくる綺麗な顔。無意識の内に握っていた先生のシャツが皺になる。先生、彼女いるんじゃないの?そもそも、先生は先生で私は生徒だ。


「だ、誰かに見られるかも……!」

「鍵しまってる」

「で、でも、もしかしたら監視カメラとか……」

「……テメェ、ここまで来てお預けとか言いやがったら犯すぞ」

「お、おか?!」


 先生、それ教師が言っちゃ絶対にダメなやつ!!頭の中がパニックになる。うわわ、もう触っちゃう。キスしちゃう……!私はぎゅうっと目を瞑った。

 次の瞬間。ふにっと何かが触れる。それは先生の唇……じゃない?! 目を開けたら、先生の指が私の唇に押し当てられていた。安心と、残念な気持ちがごちゃまぜになって襲いかかる。ハァハァと何故か肩で息をする私に、先生は言った。


「……お前は知らねぇだろ」

「え?」

「どんだけ好きでも好きって言えない気持ち」

「……?」

「やっぱり俺のほうが色々知ってる」


 ふっと笑った先生は、私の体を解放した。その場に崩れ落ちそうになって、何とか持ち直す。先生はもう既にソファーに座って漫画を読んでいて、大人の余裕を見せつけられて悔しい。


「きょ、今日はもう帰るね」

「おー」


 急いで部屋を出た私の手は震えていた。

 私が部屋を出た後。


「……やっぱり馬鹿」


 先生がそう呟いて腕を目の上に乗せていたなんて、もちろん私は知らない。

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