第ニ按~『商陽』①


 商陽:示指の橈側爪甲根部、角を去ること一部

 効能:刺絡などにも用いる。眼精疲労など。


 🐟

 この世界の東西に、洋梨を横たえた形状で長く広がっている大陸。

 その中央南部に位置するとある国は、およそ戦争とは無縁の中立国である。

 気候は温暖、人心は従順。狂王に悩まされもしなければ熱心な宗教家や革命家のお節介にもならない。とりたてて目立つ産物もない代わりに、他国からつけ狙われる不幸を知らずに歴史を紡ぐ。───国家としては平々凡々とした土地柄は、そこを訪れる旅人や交易商人には退屈だったけれど、国民にとっては無上の幸福であるといえた。

 何しろ峻厳な北の山脈を越えた場所では、東西の陣営が領土拡張のための不毛な消耗戦の真っ只中にあるのだから。

 そしてこの国の西北、国境でもある山脈を後ろに控えたとある町。

 その町から2マイルも離れていない小高い丘はその頂上に古びてはいるが立派な納屋がすがりつき、ザラつく痩せた砂土の上には春の宿題を忘れていた野草が、一面に慌てたように花を咲かせ始めている。

 桜色、サファイアの青、黄水晶の輝きを纏って朝露に輝く草花たち。

 一幅の田園風景画を切り取ったようなその中を、ゆっくりと上っていく背の高い人影がひとつ。

 ヴェールを被り、丈の長い白マントを羽織った痩せた妙齢の女である。育ちが良いのか、同じように白い絹の長手袋を、豆菓子を詰めた長袋を思わせるしなやかで細い両腕にはめている。

 たおやかに曲げた片方の肘に竹で編んだバスケットを提げ、そこから覗くのは酒の瓶と棒チーズ、細長く捻ったこの地方独特のライ麦パンが数本。

 彼女の目指す場所は遠目にも明らかだ───丘のてっぺんに、下方の町を睥睨へいげいするかのように総かしの木の巨きな納屋がポツンと座り込んでいる。

 それはただの木組みの納屋ではなかった。

 きちんと人手をかけて要柱まわりから側壁から鉄板で補強し、木材同士をかすがいで固め、一番大きな正面扉は鋼鉄製の鈍重なものに入れ替えてある。───無論、建てられた当初からではなく後から手を加えられた結果である。

 それは本来の用途から大きく外れ、蛮族や体格に優れた多種族の襲来にも耐えられるそれなりの拠点、ちょっとした砦とも呼べる代物であった。

 白マントの女がいよいよ数メートルの位置に到達すると、それまで正面扉の銃眼から伺っていたギラつく視線がサッと引っ込んだ。そして間をおかずに扉が開き、弩を構えた兵装の男が二人、肩を不恰好に揺らしながら姿を現わす。

「そこで止まれ。持っている物を下に置いて両手を挙げるんだ」

 やや年老いて恰幅のいい方の男が言うことに、女は素直に従った。まだ年若い狐のような顔つきの男が素早く女に近づき、その足元のバスケットと女の様子を確認する。

 どうやら武器の類になるものは無いようで、年若い方が年長の方に向かって頷き、二人は改めて左右から挟むようにして女を誰何すいかした。

「アタシ、あ、あの、麓の町からのただの遣いですわ。こちらの皆さんに差し入れをと…町長さんのご依頼で」

 か細く揺れる女の声に、年若い方が下卑た笑い声を立てる。

「差し入れなんか要るもんかね。俺様達ァな、てめぇらに余計な気遣いなんぞされるいわれはねぇんだ。欲しいもんは欲しい時にがっぽりいただきに行くだけだぜ。いつも通りに代金無しでな」

 ここでまた、若い男がけたたましく吠えるように笑う。顔つきの変化から察するに、どうやら、女の艶めかしい肢体にさっそく助平心を催しているようだ。

「そ、そうなのですか。アタシはここに来るのは初めてなので、ど、どうかお手柔らかに───」

「ヴェールを取れよ。人と話す時の礼儀だろうが」

 無慈悲な声で命じられ、女は身を固くしてたじろぐ。

 おそらく相手の合意がなされないほうが好きなのだろう、年若い男が嬉々として女のヴェールを剥ぎ取ると。

「…ほう?」

 年嵩の男は嘆息を漏らした。

 レース編みのヴェールの下から現れたのは、聖堂の女神のごとき柔和な顔だった。

 乳白色の肌にはほんのりと恥じらいの紅を差し、丸みを帯びてツンと上向いた鼻梁は愛らしく、細筆で水茎麗しくしたためたような濃い色の眉の下には豪奢な花弁のような睫毛。そしてそのさらに下には、男達の魂を吸い込んでしまいそうな青と紫の入り混じった神秘的な瞳。

 絶世の美女───と評するには若干の緩さがある。どちらかというと、救護院の教師か病院の看護人といった趣きのある美形。

「てめぇ、あの町の人間か?こんな別嬪さんがまだ残っていやがったのかァ…」

「まぁ、そんな風におっしゃるだなんて…アタシ程度の者ならいくらでもおりますでしょう?」

 困った様子でバスケットを取り上げようとした女の手首を、年若い男がムンズとつかまえた。すかさず女は振りほどこうとするが、それがかなわぬのは見て明らかだ。

「さしずめ町長のジジイが隠してたとびっきりの愛人…ってとこかい。ちょうど俺様達もヒマしてたところだ。ちっとばかし遊んでやるから中に入れ」

「あら、よろしいので?」

「よろしいともさァ。もっとも、ウチの親分のお道具にその華奢な身体が耐えられるかどうかは知らんがな」

 ヒャッハ!と年若い男がジャンプする。口元からよだれを流し、すでに獣慾のおこぼれを頂戴する気満々で自分のベルトに片手をかけている。

 ───ここに至って慌てる様子のない女のちぐはぐさに、二人の流浪兵が違和感を覚えるには、相手はあまりにも非力でか弱く映っていた。

「安心しな、死ぬような目にはあわさねぇからよ。ゲヘヘッ、とはいえ町長のところに戻る頃には…股の大事なところの蝶番ちょうつがいが外れてるかも知らんがな」

「まぁ、頼もしい。アタシもちょうど骨のある殿方に飢えていたところですのよ」

 意外な女の返答に、ニンマリと腫れぼったい唇を歪めた年長の男である。

 ───が。それはすぐに驚愕の表情に塗り替えられた。

 女の手を取って離さない年若い男が、急に背中を激しく痙攣させたかと思うと、悲鳴と共にのけぞった。

 男は文字通り頭髪を逆立て、羽を毟られる鶏のように高い叫びを上げると。

 ポン!と。おどけた炸裂音を後頭部から発し、逆立てた髪の先から勢いよく

「…な───何だ⁉︎」

 年嵩の男の眼前で、人間が立ったまま燃えていく。肉が爆ぜ、脂肪がブツブツと泡を生み、叫びの形に開いたままの顎は骨となり、蝋燭にかざされた一本のマッチよろしく醜い人体発火を呈して───

 ゴソリ。

 一瞬の出来事だった。乾いた灰が、不思議と焦げ跡すらついていない衣服と弩を巻き込んで春の大気の中に崩れた。

 年嵩の男は目の前で起こったことに理解が追いつかず、一握りの灰と燃え尽きた相棒の傍に、小さな目を皿のように開いて立ち尽くす。

 女は掴まれていた手首を丁寧に払い、顎を上げて言った。

「さて、建物の中に居る皆さん。ビクビク隠れていないで出ていらっしゃいな?それとも、このアタシが怖いのかしら?アタシはこの通り、針1本持っていないのだけれど?───ここには、強奪や殺人を厭わない骨のある殿方がいらっしゃる筈でしょう?」

 納屋の正面扉が外に向かって蹴り開けられた。槍や彎曲刀、弩を手にした兵装の男が次々と雄叫びをあげて女に襲いかかる。

 女はバスケットから瓶を取り上げ、歌うように人差し指で栓をはじく。

「賑やかな猪は森のご馳走。軽く炙ってローストしてお客様の皿に♬」

 と、そこから溢れたのは液体ではなく火炎の本流。男達の先鋒が火だるまになり、焼け焦げて地面に転がる。

「足の速い鴨は兎の従兄弟。捕まえてにすれば、奥さんがたも大喜び♬」

 今度はパンを逃げ腰になった中控えの一群に投げつける。と、空中でバラリと分解したそれは無数の細く長い刃に変わり、回転して男達を追尾すると一人残さず胴と首と腰を寸断した。

 大気に血と脂のムッとする臭気が充満する。

 その中に端然と佇む白衣の魔法使い。その服には一点の染みも無く。

 ブスブスと脂煙を立てる焼死体に、湯気がほこほこと立ち昇るはらわたを吐き散らした斬死体。はじめに出てきた年嵩の男もその中に混じっているはずの死屍累々たる道を、女がさらに歩を進めた時。

「そこまでだ」

 納屋の扉の陰から低く唸るような重低音の一声。

 女は瞬時に飛び退る。その身体があった空間に、銀糸のごとき亀裂が入る。竹を割るのにも似た衝撃音。

「あら、物陰から飛び道具で攻撃なんて、なんとも勇ましい殿方ね」

 クスクスと挑発的な笑みをたたえた女の言葉に、別の声が応えた。

「魔術を弄する輩には暗器でも卑怯にはあたるまい」

 女の誘いに乗るのを構いもせず戸口に現れたのは、まだ中年にも至らぬ年齢の甲冑姿の青年。その両手には、金属の光沢を持つものが握られている。

「貴様、麓の町で雇われた魔法使いか。たった一人でよくもここまで戦友を殺してくれたな」

 言うが早いか青年は右腕を横に振りぬいた。空間にまたしても線が走り、空気が分断される音が響く。ただの鞭ではない。───鞭剣、幾片もの刃と鋼糸を合わせた伸縮自在の武器である。

 が、女はバスケットを持ったままヒラリとトンボを切り、スカートの裾をつまんで優雅に着地。

「その動き、それにここまでの破壊と人殺を為してなお一点の汚れもないその白服は───」

 男は遠くを見やるように目をすがめ、昔日の戦場の噂に伝え聞いていた通り名を思い出した。

「白衣の魔女パーディタ。確かそういう通り名の、凄腕の殺し屋がいたというな。金を積めば怪物狩りから人殺し、どんな荒事も請け負うという」

 女───パーディタは喉の奥から鈴を転がすような笑いを立てる。惨殺の結果を累々と積み上げてもなお、あくまで上品な佇まいに、青年は密かに背中を粟立たせた。

「始末屋と呼んで頂きたいわね。アタシがしているのは、善良な市民の皆様に平穏を取り戻すだけの至極真っ当な清掃作業ですもの」

「黙れ。貴様がいま殺したのは、ようやく死地を脱してきた吾輩の仲間達だ。それをよくも…」

 この国は中立を貫いている大国であり、現在東西の諸国連合が戦端を開いているのは北方のトラ・アヴルタ伯国とその近辺までである。彼女はそれを承知した上で踏み込んだ。

「この国には戦場はありませんものね。つまりあなた方ははるばる北の連峰を山越えして、逃げ延びてきた落ち武者の集団。それも装備のバラけかたから察するに傭兵部隊…かしら?」

「遠からずだな。貴様にたおされた仲間の無念、その血肉であがなってもらおうか」

 青年は武器を構えながらもジリジリと円を描くように間合いを図る。魔法を使う者との戦闘においては、詠唱の隙を衝くことが決め手になることを経験から熟知している様子が見てとれた。

 優秀な戦士ほど、正確に相手の力量を測れるもの。そしてそれはパーディタの方もまた同様であった。

(このまま逃げられるのが一番面倒ね。足跡をつけられて寝込みを襲われるのを警戒するのは、睡眠の妨げで美容の大敵。それにこの男、さきざきに禍根を残しそうなタイプだし───)

 戦場においては金で動くだけの傭兵も、こと仲間の生死にかけは損得勘定を度外視する。彼らには名誉よりも、同じ釜の飯を食った者同士の関係が何よりも貴重な財産なのだ。

 ───戦友をほふりし魔女、赦すまじ。

 男の瞳に宿る静かな光がそれを物語っていた。怒りと殺意。強靭な精神を持つ者だけが放つ、爬虫類の眼差し。

(ああもう、スッキリしない。めんどくさい。イチかバチかで突っ込んでいっちゃおうかしら?)

 彼女の脳裏にとあるオークの姿がチラついた。凶暴な人外の種族のくせに口やかましく、説教好きで、他人の世話を焼くお人好しな知己のことが。

(こんな時にあのお節介焼きのことを思い出すなんてね…)

 パーディタは動きを止める。昔の自分なら闇雲に突っ込んでいっただろうが、今の自分には…

(ハリーなら、自分一人のことじゃなく残されたもののことも考えてから行動しろって怒るわね)

 押してダメなら引いてみろ。

 パーディタは動きを止め、わざと髪をいじり出した。

「雇われ先との契約を破棄して、おめおめと生きているだけでは飽き足らず、戦うことを知らない平和な土地の住民から武力をかさにきて簒奪する貴方がたは、はっきり申し上げて───そう」

 人差し指を当てた唇が、プルンと揺れる。

「さしずめ手負いの野犬、といったところかしら?」

「貴様…」

 青年の全身が憤激の波に包まれる。甲冑が、ぎしりと歪むほどに。

「あら御不満?手負いの家鳥ガチョウのほうが良かった?その方が合ってるかしら?───ピーヨピヨピヨ、クワックワックワァァ♬」

 ブツリと下唇を噛み切る音。

「魔道の者め許さん!成敗してくれる‼︎」

 彼女は微笑んだ。それは、彼女に依頼をした麓の町の住民のような者が目にしたら一生悪夢に引きずってしまうくらい凄絶なものだった。


 ある程度の大きさの建物には入り口がある。そして当然のことながら、勝手口もまた存在する。

 女と甲冑の青年が対峙している隙に逃げ出そうと目論む男が三名、こそこそと納屋の裏手から這い出してきた。

「まったくリーダーはバカであります。あんな強力な魔法使いと正面切って戦うなんて。ここは逃げるが最良の選択であります」

「その通りだ。せっかく命拾いしてきたってのに、こんな田舎でくたばるなんてたまんねぇぞ」

「ったくマジによ、あの性格のせいで俺たちゃ戦線でなんども迷惑をこうむったんだ。こうなりゃ頭に血が上りやすいリーダーとはここでおさらばさ。もっと田舎に行って、そこで寒村でも襲撃して俺達だけの国を作ろうぜ」

 それぞれ似たような背丈・年恰好・顔つきの傭兵部隊の残党である。三人は同じような卑屈な忍び笑いをこぼしながら、丘の背面の森へと一目散に駆け出していく。

 と、まるでそれまでそこにあった灌木が突然動いたかのように、彼らの前に不意に現れた小さな人影が一つ。

「な、なんだテメェ?」

 それは正しいリアクション。なぜなら相手はこの殺戮の現場には似つかわしくない存在だった。

 紫の布冠ですっぽり頭を覆い、踊り子のように布地の少ない衣服を身に纏った子供。それも、小柄ながら神聖画に舞う大天使のように四囲を圧する気高さの宿った容貌である。

 黒檀よりも奥深い闇色の肌は、白昼の陽を浴びてある種の貝殻の内側のような虹の玉を剥き出しの二の腕や太腿に結び、その手足がまた完璧なバランスを保っている。

 布冠の下の顔もやはり漆黒。美しい魚の骨のような眉や、神獣の毛でこしらえた刷毛のように長い睫毛は金色に輝く。そして果実かと思うほど大きな瞳は、真冬の雪原のごとくに冷ややかな銀。

「こいつ…男か?女か?女なら攫って売り飛ばせるでありますな」

「男なら一発強姦ってから殺しちまえばいい」

「いや、これだけ上玉ならどっちでも変わるめぇよ」

 ゲヘヘヘ…と精神の階層に相応しい笑いを漏らしながら頭を付き合わせる三人の男達を、その子供はただ眺めている。何か思案しているようにも、彼らの言動を不思議がっているようにもとれる微妙な表情で。

「いずれにしろ、こんなとっからは逃げたがいい。コイツを輪姦まわすにしろここじゃあ危ねぇ」

「そうだな、とりあえずあの魔女とリーダーがやりあってるうちに距離を稼がねえと」

「んじゃ、とりあえずコイツはふんじばって連れてくでありますか」

 男のうちの一人が懐から頑丈な細縄を取り出した。と、子供が不意に口を開く。

「マァス。ワタツィ、オ?」

 ギョッとする三人組。声の具合がなんとも歪で、音程も高低がギクシャクとしている科白。子供はキョトンとしながらも続けた。

「ワカラナイ。マァス、ナンノコト、ダ?」

「な、なんだコイツ気味が悪ぃ喋りかたしやがって」

「いや待つであります。そうか───これと似た話し方を聞いたであります。このガキ、恐らく耳塞がりでありますな」

 残りの二人が、ああ、と頷いた。

 耳塞がり。つまり、聴覚に変調をきたした者。発声器官も能力も備わっているが、聴き取りに関しては不自由な者。

「それなら納得だ。───おいガキ、俺ぁな、テメェを輪姦すって言ったんだ」

「マァス。ソレハ、ナンダ?」

「こういうことだ!」

 言うなり男は子供に飛びかかった。乱暴に地面に押し倒すが早いか、腰から足の付け根を隠した布の下に手を入れ、落胆の悪態を吐く。

「男だ!コイツ!こりゃあついてねえぜ!」

「おいおい、男なら筈でありますぞ?」

「まぜっ返すなよ。ほんじゃあ、そのままソイツをこの縄で縛り上げろ。っちまうにしろここじゃあマズいだろ。暴れないようにしっかり手脚を極めとけよ?」

 放り投げられた縄は、しかしキャッチされることなく子供を押し倒している男の頭に乗ってしまっただけ。

「ん?おい、どした?」

「ふざけてないでさっさとやるであります。チンタラしていたらリーダーを殺ったあの魔女か、魔女を殺ったリーダーが敵前逃亡の処罰に追っかけてくるでありますぞ」

 仲間にけしかけられても、けれど男は動かない。しびれを切らした腕が伸びてきたとき───

「ケロ」

 と、男は鳴いた。

 仲間は今度こそ面食らった。ふざけているのか?という彼らの疑問はすぐに、男の肌が緑と灰色のまだらに変じている事実によって否定される。

「ケロ。ケロゲロゲロゲロゲロゲロゲログェェェロォォォ」

 仲間の目の前で、男の頭がぐしゃりと潰れた。痙攣けいれんしながらる背中が小さくなってゆく。腕がバキバキと音を立てて奇妙な方角へねじれ、グネグネと全身が操り人形のよろしくうねりながら見えざる手によって造り変えられていくようで───

 もはや男は消えていた。

 否、押し倒されていた子供の胸の上で飛び跳ねる一匹のガマガエルが、かつて男であった者がそこにいた。

「こッ、コイツも魔法を使いやがるでありますかっ」

 子供がすくり、と起き上がる。首を立てた拍子に布冠がずれて、右のこめかみから長く尖った耳がこぼれ出た。

「───ウソだろ、エルフ⁉︎」

 弱者に対しては情け容赦のない傭兵崩れの野盗二人が逃げ腰になる。

 子供は布冠から取り出していた物を前に構えた。それは、貴族が手にするしゃくに似た短い金属棒。凝った彫り物付きの持ち手の先に、太い紐を幾本も束ねた道具。

 典雅な鞭、あるいは可愛らしい埃払いと呼ぶべき代物。

 たとえ刑場の刑吏が腕も折れよと打擲ちょうちゃくしたとて、さほど痛みも生じないであろう道具を構えて、子供が跳んだ。

 男の仲間の残り二人が踵を返すよりも早く、棒の先についた紐束が二人を打つ。

 と、一呼吸ふた呼吸とする内に二人はベコベコと耳障りな骨肉こつにくきしみを奏でながら縮こまっていった。


「あら!あらあらあら?可ぁ愛いいー!」

 男達が自分を縛りつけようとした紐を使い、その辺で拾った木の棒切れに適当に括り付けた三匹のカエルをぶら下げて、納屋の入り口に現れた美少年である。

 その様子を見るや、白衣の魔女パーディタは手を叩いて褒めちぎった。

「よくやったわーシェルト!転化てんかの術は初めてじゃない?それでこんなにうまくいくなんて!やっぱりアタシの愛弟子ね!」

 抱き寄せられ、たわわな胸に窒息させられそうになりながら頭を撫で回されるエルフの少年、シェルトは頬を膨らませる。丸っこくなった頬はまさに黒真珠である。

「んー?なぁにその顔。どうしたの?不満なことでもある?」

 シェルトが自由なほうの指で空中を引っ掻くと、なぞられた形のままに青く文字が浮き上がる。この世界のアルファベットである。

『お姉様ばっかり火の術を使って、ずるいです。僕だって火とか爆発とかやってみたい』

「んー、それはそうよね。でも…」

 笑みを崩さず、白衣の魔女は弟子の布冠のズレを直してやる。その手つきも眼差しも、弟子に対しての師匠というより我が子に対する母のそれに近い。

「使えることとコントロールできることは、これもまたちょっと違うのよ。可愛いあなたが焼け棒杭ぼっくいになるところなんか、アタシ見たくないの」

『失敗なんかしません。お姉様が教えてくれたことは全部、ちゃんとします』

「そう?それなら───」

 パーディタの白手袋の指が、シェルトの膨れた頬を左右に引っ張った。

「ちゃんとおくちでおしゃべりしなさい!約束だったでしょう⁉︎」

 ふみゅえええ、と情けない声を上げてたじろぐシェルト。その横にくすぶっていた光の文字が、空気に溶けていく。

「常日頃から喉と舌を用いて発音と発声をしていくこと。それはあなたには無意味に思えても、将来にきっと役に立つわ。だから面倒くさがらないで、私に対しても他の人に対してもお口で話をすること。分かった?それさえもできなければ、とても火の術は教えられないから」

「ワ、ワヒャ…ワカリ、マシタ」

「んん、とってもいい返事ね」

 ふわりと手を離し、パーディタは微笑む。野盗達に見せたものとは違う、真実慈愛溢れた微笑みである。

「それにあなたの声は綺麗なんだから。せっかくの自分の美点をひけらかさないなんて、アタクシの弟子として失格よ?」

「オネエサマ、ワ、ゼンイン、カタッケラレタ、ノデスネ?」

 ヒリヒリとする頬をなぜながら、シェルトは周囲を見渡す。そこには生のものから火の通ったものまで、様々に料理された野盗達の残骸が落ちているのみである。

 パーディタはかぶりを振り、陶器の小瓶をバスケットから出して見せた。

「この中に一人だけ生かしておいたわ。連中の頭領をね」

「エ?ナゼ、デスカ?」

「この世の地獄を見せるためによ」

 人にはそれぞれ発音に特徴があり、発音方法は共通でも唇を読む難しさは並大抵ではない。

 しかしシェルトにとって寝食を共にして久しい師であるパーディタの台詞ならば、ほぼ読み間違うことなく唇と舌の動きを追うことができた。

 それでもなおその意味が分からない。賊などさっさと殺してしまったほうが地獄に早く送れるのではないのか?

 首を傾げている弟子にそれ以上の説明はせず、人間一人を封じ込めた小瓶をしまうと魔女は真白の服の裾を翻して踵を返した。

「さて、麓の町に戻りましょう。野盗退治の依頼の後金を頂かなくてはね」


 🐟

「よくぞ私らを苦しめていた野盗を退治してくだすった。あの納屋も町の財産でして、元の通り家畜の飼料や穀物の倉として活用できるよう残してもらえて大助かりです」

 町長は年若くして遠く離れた城館住まいの領主から麓町の管理を任されてきたという、平べったい赤ら顔の中年の小男だった。

 普段は宿屋を営んで生計を立てている町長の前で、パーディタはテーブルの上に何も言わずに陶器の小瓶を出す。

「それは?」

「野盗の頭領を封じてあります」

「なんですとっ⁉︎」

 慌てふためく町長に、ひらひらと手を振り無抵抗になる呪をかけてあるから安心だと笑いかける。

「強力な呪いをかけて完全に力は削いでありますからご安心なさって。角を無くした去勢羊よりも安全ですわ。遠方にいらっしゃる領主様に突き出すもよし、存分に鬱憤うっぷんを晴らすもよし。あなた方のお好きになさってね」

「そ、そうなのですか…」

 さらに彼女はバスケットからたっぷりと液体で満たされた青い瓶を取り出して、町長に手渡した。

「それからこれを町の皆さん全員が飲んでください。丘の上には盗賊達の霊魂もしばらくは彷徨っています。この霊妙なる水薬を飲むことによって、これから先悪しき霊魂に取り憑かれることを防げましょう」

 町長が顎をやると、隣にいた彼の息子らしき青年がテーブルに金貨の詰まった革袋を置いた。パーディタはシェルトにその枚数を確認させ、その間に頭領にかけてある呪縛の内容を事細かに伝える。

 師匠の説明を唇から聴き流し、黙々と金貨を手のひらに乗せて数えていたシェルトだが、話が進むほどに町長と青年の瞳にギラギラと獣じみた光が宿っていくのも感じていた 。

「───では、あたくしはこれで。今回は偶然通りかかったからあたくし達が対処いたしましたが、できれば領主様に衛士の派遣を訴えることを勧めますわ。また同じような連中が北方の戦場から流れてくることがないとは言えませんもの」

「お気遣い、重ねて御礼申し上げます。魔女様の言う通りに致しましょう」

 町民らの無言の見送りを受けて町を囲う木塀を出たところで、シェルトは口を開く。

「アノ、ビンワ、タシカ、ドクデハアリマセン、デスタカ?」

「そうよ。あなたにはそう話したわね」

「───タシカ、オネエサマニ、サカラウト、ハツドウスル、マドクデシタ、ヨネ?」

 魔毒───呪いのかかった薬。

 白衣の魔女は首肯する。

「アノ、ニンゲンタチハ、オネエサマニ、カンシャシテイタ。ソレナノニ、ナゼデス、カ?」

 まだ胸にも届いていない弟子の頭に手をやり、パーディタは昔語りをするようにゆったりと言う。

「あれは保険よ。世間一般にはもてはやされるどころか、敬して遠ざけられている魔女だもの、アタクシ達は。もし彼等が支払った金貨が惜しくなって後から追って来て始末しようとしたり、そうでなくとも二心ふたごころを抱いたその時には…」

「ソノトキ、ニワ?」

 しばし逡巡し、クスリと微笑んだ。

「やめておきましょう。あなたが知るにはまだ早いと思うから」

 シェルトは口ごもる。エルフである自分は見目は幼いとはいえ、ニンゲンたちの基準とする年齢でいえば充分な大人なのだ。

 しかし彼女はパーディタのそういう気遣いが、単なる世間知からではないものだと本能で悟っていた。なので、彼女が教えるべき時だと判断してくれる時期になるまで待とうと思う。待つことは、苦ではないから。

 それにしても。

「…ドオシテ、アノ、ニンゲンオ、カレラニノコシタ、ノデスカ」

「あのニンゲンって、野盗の頭領のこと?」

 コクンと頷く弟子に、パーディタの面差しはいっそう柔らかくなる。

「復讐の権利を町の人たちから奪わないためね。辛いこともたくさんあったあの人達は、これからもその悲しみの記憶を抱いて生きていかなくちゃならないでしょう。せめて罪人に罰を与え、溜飲を下げる機会をあげなくちゃかわいそうじゃない」

「ソウデス、カ…」

 時々、シェルトは分からなくなる。この、自分には厳しく優しい師匠は、ときに慈愛を振り撒く天の聖霊のようにも思え、ときに地獄を統べる女神のように氷結した心の持ち主のように思えて。

 行動の振れ幅の極があまりにも大きいのだろうか。それとも世界のどこかにあるという燃える氷、凍てつく炎とでもいうべきものが彼女の芯にあるのだろうか。

(…それもどうでもいいことなのかもしれない…お姉様もまた僕と同じく長い命を得た存在なんだから…)

 魔女というものは寿命の枠を超えている。それはほぼ不老不死、食事をせずともこの世界に有るエネルギーから直接生命を養う糧を得ているのだという。

 ずっと以前から育っている疑問の芽を、しばらくは放置してしまうことにして、シェルトはまた別の質問を投げる。師匠という他人───そう、パーディタを師と仰いで初めて得た他人との会話というもののを、彼はまだ楽しみはじめたところなのだ。

「ソレニシテモ、オネエサマワ、ボクノ…キ…キォーイク…ニ…ア、アホコ、デワ?」

「なぁに?過保護だって言うの?」

 なだらかな麦畑が途切れ、細い街道筋に入る。この道は遠くの都までずっと続いているが、二人はこの道を歩いて町に来たわけではない。別の移動手段で広大なこの国を漫遊している最中に、ほんの偶然であの場所の住民達に出会ったのだ。

「あー、分かった。おおかた先月の魔女連の集会の時に何か言われたんでしょう?あの人達からすればそうなのかもしれないけど、アタクシはアタクシのしたいようにするだけ。シェルトが気にするようなことではないわ。それとも、それがご不満?」

「スオイウ…スミマセン。ケシテ、ハンコウスル、イシ、デハ、ナイノデス。タダ、ボクダッテ、エルフデス。タダノ、ニンゲンノコドモデワ、ナイデス。イズレ、カラダモ、セイチョウ、シマス…」

「そうかもねぇ」

「オネエサマオ、イズレワ、マモレルト、オーイマス」

 パーディタは白手袋で空を掴むように高く伸びをして、清々しげに雲の流れから上空の大気の流れを読む。

「やっぱりそうよね。君も男子!オットコマエになりたいわよね」

 男前。その意味は分からずとも、シェルトは素直に頷いた。

「…ハイ」

「ん、良いお返事!」

 このもどかしい気持ちの正体を、シェルトはまだ言葉にできない。あの野党に女に間違えられ、その挙句勝手にガッカリされ、乱暴されかけたことには不思議なほど腹が立っていた。だから三人をただ殺すだけでは飽き足らず、下等なカエルに転化させたのだ。

 とりもなおさずそれはシェルトの内側に絶えず在り、彼を支えている骨組みでもあり、師匠に伝えたい矜持でもあった。

(僕は、男なんだ。容姿がどんなにニンゲンから女っぽく見られても、それは変わらない。お姉様は女なんだから、ちゃんと男の僕が守ってあげなくちゃ)

 シェルトの幼い葛藤を知ってか知らずか、ひょっとしたらまるっと全部お見通しかもしれないパーディタは、にこやかにシェルトの布冠から溢れた艶やかな後れ毛を指で梳く。

「ん〜ここのところ呪符書くのが多かったせいか肩が重いのよね〜。目の奥からなーんか凝ってる感じがとれないし…」

 シェルトはパーディタに心地よく自分の髪をなぶるままにさせておいた。

「よし!行きましょうか」

 どこへ?と小首を傾げる少年。

 応える代わりに魔女は人差し指と中指を揃えて妖花の蕾のような唇に当てると、細く鋭く指笛を吹いた。

 周囲はもう岩と背の低い草地が広がるばかりで、町は背後の彼方に胡麻の粒のように遠い。

 蒼穹に、緑と赤土の混じったような色がポトンと現れて。

 それが一つ二つと数える間に巨大な矩形になり、魔女とエルフの頭上に激突寸前で停止する。

 サンショウウオそっくりのつるんとした短い猪首に、太った七面鳥のような胴体。背中には皮膜で形作られた二枚の翼があり、象のような巨体を空中にホバリングさせている。

「おかえり、カミロー。山辺の草と湧き水は美味しかったでしょう?」

 その飛行生物は「ピキュイッ」と鳴き、懐っこく喉を鳴らして魔女の白衣におでこをすり寄せる。

 飛竜。この世界の最も貴重で最も長距離を移動できる移送手段である。

 数の少ない手荷物を鞍にしっかり結びつけながら、もう一度シェルトは師に向かいどこへ行くのかと尋ねた。カエルたちは既に飛竜のおやつとなって膨れた腹に収まっている。

「トラ・アヴルタの東の海辺、九十九つくもの森へ行くわよ。海岸線と森林地帯と山と沼地が隣接した、とっても綺麗なところ!峠越えをしなきゃならないけど、この子に乗ればここからは近いわ」

 飛竜の首につけた手綱を掴み、先にパーディタが鞍に乗り、上から弟子の細い身体を引っ張り上げて自分の前に跨がらせる。

 自分より小さな主人達が背中に乗るのを確認すると、飛竜カミローは彼らが野盗を掃討している間にたっぷりと野草と湧き水で補充したスタミナを示すように、溌剌と全身の鱗を逆立てた。───それは、「自分はすぐに飛翔できますよ」という意思表示。

「では行きましょう。まずは山脈を越えるわよ、しっかりつかまっていなさいね!」

 手綱一打ち、飛竜は樽のような両脚で大地を蹴って、天空の高み目指して羽ばたいた。

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