オークあはき師くっ殺修行~姫騎士に怒鳴られ弟子エルフに懐かれています~

鱗青

第一按~『労宮』

 第1按『労宮』


 労宮ろうきゅう:手掌部にある経穴。

 効能:精神の行き過ぎた高揚を鎮め、手の運動・知覚を治療し、動悸や口臭にも効果あり。


🐟

「くぅっ、殺せ!貴様のような姿も、心根までも醜く恥も名誉も知らぬ怪物に!我が清らかなる乙女の肉体を弄ばれるくらいなら、いっそ殺すがよい‼︎」

 凛とした口調の啖呵が洞穴の壁に叩きつけられて、そして虚しく跳ね返る。

 その残響はわんわんと尾を引いて高く上ってゆき、鍾乳石のぶら下がった天井にわだかまる暗闇に吸い込まれていく。

 洞窟の空気に混じった粘りつくように甘ったるい香気。少し吸い込むと頭の芯がぼんやりとして五体の筋力が弱まっていくような、そんな香気が立ち込める。

 フチの欠けた土器かわらけに灯る獣脂の灯明が、闇を切り取ったようにほんのりと照らしたスペース。そこに、粗末だが頑丈なキングサイズのベッドが据えられている。

 ベッドの上には、ほぼ全裸の赤毛の美女。

「ああっ、いっそ殺せというのに!その、そのけがらわしいモノを我が肉体に突き刺す気か⁉︎」

 美女は、腕の良い彫刻家が大理石から削り出したように完璧な肢体を誇っていた。ヘソのくぼみから上はそうあるべき部分がたっぷりと盛り上がり、その下には余分な贅肉の代わりに魅力を損なわないだけの筋肉がそうあるべき形で付いている。

 薄く琥珀色をした瞳はわずかな明かりさえ反射して濃茶から蜂蜜色にチラチラと色を変え、朝露を飲んだような唇はたっぽりと桜色。化粧気はないにもかかわらず、いや、だからこそのみずみずしい肌。

 貼りつくように臀部と股間を隠す布地の他は服と呼べるものは身につけていない。枕にかじりつくようにうつ伏せになった状態で、顔を上気させながら身悶えしきりである。

 彼女が罵倒の言葉を投げつけ、唇を噛み締めて見上げた相手はすぐ近くにいた。

 闇が動き、灯明の光の下へのっそりと「彼」が姿を現した。それはまるで鍛治神の顕現のようにそびえる、筋肉に鎧われた逆三角形の巨きな影───それも頭部が海獣と同じ形のラインを描く、どっしりとした押しも押されぬ肉体があった。

 獣頭人身───否、魚頭人身。むっちりと厚みのある固肥りの頑強な男の肉体に戴くは、フカそっくりというか鮫そのものの巨大な顔面。

 人外の怪物。

 オーク、である。

 誰がそう呼び習わしたのかは不明だ。ただひとえにこの凶暴と粗野とをるつぼで混ぜ合わせたような外見の生き物は、この世界では太古からそう呼ばれてきた。

 その一頭のオークは、灯火のもとに鈍く淫猥な輝きを放つ双眸を浮かべて立っている。背中側の半身は墨を流したような暗闇にあるためでしかとは判らねど、襤褸を身にまとった身体の横にだらりと下げた片手に何かの細長い道具を握っているようだ。

 美女の玉の肌全体にじっとりと汗の粒を結ぶ、しなやかさと柔らかさを失わない程度に筋肉のついた肢体には、鎧兜よろいかぶとの刻み込んだ筋がまるで入れ墨のような文様を描いている。常日頃から、そう、眼鏡や腕時計と同じく甲冑を身につけていればこその肉の線。

 それが裸身に近い姿にある種サディスティックな色気を与え、並みの男子ならばたちまち正気を失わせられるほどの迫力を醸し出している。

「貴様、この私がトラ・アヴルパ伯国第十二代騎士団長エリーザベト=ツガルと識った上での狼藉か!」

 そう、彼女は世間でいうところの騎士である。

 それも、外見の華やかさと内面の清廉さを追求した女ばかりの騎士団をまとめる歴とした姫騎士なのである。

 先程の科白を言った張本人である彼女がさらに何かを言い募ろうとした時だった。

 それまで黙り込んでいたオークが、顔の下半分を占領する頬広く裂けた口を開いたのは。

「ぐっへへへぇ。威勢がいいじゃねぇか。それじゃあ、お前さんのお望み通りにしてやるぜ…」

 どこかたどたどしい発音で発せられた言葉とともに、オークの巨きな影が姫騎士に覆いかぶさる。片手に例の、細長い道具を捧げ持ち、もう片方の手で姫騎士の肩のあたりを押さえた。

 そして。

「あっ⁉︎いいっ⁉︎あンッ───アァァァァァンッ♡」

 ベッドから美女が上げたのは、切なく甘く、聴く者の理性をとろかすような喘ぎ声。

 それがオークの支配しているこの洞窟に響き、湿った壁土を這い空気に乗って拡散していき。

「アァッ───♡」

 ひときわ高く美女の背中がしなり、声が放たれた瞬間。

「じゃっかましいわい!この脳みそ筋肉娘ェ‼︎」

 総ての反響をかき消す一喝。それでハタと我に返ったのか、エリーザベトは普段のおっとりとした鼻声で問う。

「えっ?私は、そんな大きな声を出していたのか?」

「出していたのか?じゃねェわい!人が芝居に付き合ってやりゃ調子付きおって、施術中にうるさく喚くなって何度言ったら分かんじゃ!アァン⁉︎」

「す、すまん。いま騎士団内で捕虜となった姫騎士がいたぶられる書物が流行っておるのでな…私も音読会に参加したことがあるが、面白い物語だぞあれは」

「知・る・か・い!それとガタガタ動くな!ワシがやっとんのはイタズラなんかじゃあなくれっきとした治療なんじゃ‼︎」

 言いながらも、オークは姫騎士の右肩、僧帽筋の厚いあたりに突き刺した道具───細長く加工された金属の筒から射出されたこれまた金属製の針───で、凝り固まった筋繊維を刺激する。繊細な手つきをもって針を駆使する様子は手馴れたもので、ある種の威風すら感じさせる。

 姫騎士はまたしても嬌声をあげる───いや、それは嬌声というよりは感極まったときに出る歓声に近い、絞り出すような反応だった。

「あ♡ああ♡これが…例の『ハリ』か。あまりに痛気持いたきもち良いものだったのでな、つい大声、で───はあわぁふぅんッ♡」

「じゃーかーら!それを引っ込めとけっつっとんじゃ!ったく、歴戦の勇士の名が泣くぞい。ちっとは大人しゅうしとられんのかい…」

 ブツクサとこぼしながらも、オークは右肩の肉のコリを直接突き刺した鍼先でほぐしていく。ひとしきりそうしたあと、もう片方の肩にも同じようにし、少々長めのため息をついて今度は腰へ手を伸ばす。

「…あー、こっちも酷いのう。うん。ひどいコリじゃ。男遊び覚えたての年増みたいにコリッコリじゃぁねえかい」

 いつのまにか右手に構えた金属の筒と、そこから僅かに頭を出している鍼。流れるような手さばき指さばき。骨盤近くの脊椎沿いにOKサインのように構えた左手の隙間にそれをあてがい、鍼の頭を叩く。筒の中に収められていた鍼が、あやまたずに凝りの元凶へとピンポイントに入っていく。

「男遊びっ⁉︎ハリー、貴様戯言でもそんな不埒なことは───」

「冗談じゃい。ロクに男も知らんオボコ娘に、ンな甲斐性があるたぁ、ワシぁちぃとも思っとりゃせんわな」

 トントンと柔らかいものが硬いものを打つ音の後に、洞穴の暗闇をつんざいたのは先ほどの女騎士の金切り声。

「ひぁっ!ひぁぁぁぁっ!こんなっ、こんなのぉ…きゃぁっ」

 騒いではいけないと思ったのか、下唇を強く噛んで己が声を封じようとする姫騎士。

 それに対し、針を操るオークは…

「ほらほらもっと深くいくぞぉ。どうじゃ?どうじゃ…?」

 どこか乾いた、それでいねいたぶるような低い声。そこに姫騎士の短い悲鳴と甲高い罵倒が絡みつく。やがてそれはたえだえの吐息に変わり、さらに。

「ぅっ…ゃんっ…はゃっ…そんなとこ、りゃみぇぇぇぇ♡」

 結局、なんとも彩り豊かな調子に戻ってゆく。

 やがてオークは屈みこんでいた上体を起こすと首を回してゴキゴキ鳴らし、腰を伸ばして一息つく。

「やれやれ、肩に1本ずつ、起立筋に昇竜の鍼で…計14本か。キリがええのう」

 それから灯火のすぐそばの香炉に立ててある、これもまた細く練り伸ばした植物の葉による香の長さを確認する。それには一定の間隔で印が付けてあり、アロマによるリラックス効果だけではなく着火より経過した時間が判別できるようにもなっている。

「このまま置き鍼で15分。そのあとはマッサージじゃな。そろそろ湯が沸くじゃろうから、一瞬だけ座を外すぞい。わしが茶を淹れてくる間も、動くんじゃないぞ。もし一ミリでも動いたら───」

 振り返り、鮫の顔の中の獰猛な瞳から生真面目な視線をよこした。

「ペナルティじゃ。追加料金ものになるから心しておけ」


🐟

「───で?ここに来たッちゅうことは、またぞろなんかかんかあったんじゃろう?」

 ベッド脇に立つハリーからグッグッとリズミカルに首筋を押されながら、エリーザベトは額を当てた枕の下からくぐもった返事をする。

 姫騎士の身体に肩から腰から打たれていた鍼はとうに全て抜いてあり、壁際にある木製の台の上で強い酒精に満たした皿の中に几帳面に並んでいる。それは原始的だが確実な消毒法。本来ならば使い捨てにしたいところではあるが、いかんせん治療に耐えうる鍼の本数が限られた条件下では考えうる最良の処置なのだ。

「もー…なんでそんなことまで分かるのよー…オークのくせにやけに勘のいい奴…」

 からからと笑い、オークことハリーは姫騎士の頚椎沿いを入念にほぐしていく。

 頭の芯までとろけそうな快感と若干の筋肉の疼きに寝入りそうになりながら、この怪物の相も変わらぬ手練れた技に彼女は心底で平服した。

「そら分かるわい。あんたの『頚百労』のあたり、えらいこと凝っとるもんなぁ。それにな、最初の触診で『労宮』の脈がいつもと違っとったぞい」

「ローキュ…雅な響きの言葉だな…それもあれなの?…『ツボ』っていう…」

「おお、憶えとったか。そうじゃよ。ストレスなんかがあるとそこに反応が表れることがあるんじゃ」

 このオークの使う不思議な手技と知識。はじめこそ驚かされていたが、エリーザベトはそれにすっかり慣れてしまっている。

「…何かあった…といえば…まぁそういう…ことになるの…かな…」

「騎士団内のいざこざか?団長ともなれば責任重大じゃもんなぁ。その若さで、ほんにご苦労なことじゃ」

 ハリーは枕側に移動し、跪くように身を低くしてエリーザベトの右肩に左掌をあてがう。その掌の感触はあくまで優しく温かく、とても善男善女に仇なす人外のものとは思えない。

「あんたはようやっとるよ。女だてらに騎士を率いて前線に立ち、男も異形もおる敵兵士相手に獅子奮迅の働き。並大抵のことじゃなかろう。ただ、もう少し肩の力を抜いたがええじゃろなぁ」

 労りの言葉をかけながら、ハリーはエリーザベトの三倍は太い親指に捉えたコリに対して容赦のない攻撃をしかける。体重をうまく使い、圧力をかけては緩め、弱めては上げて。海の波のように一定のリズムを生んでいく。

 そうすると、若干の痛さを伴って、さきに鍼で弱められた筋繊維の中に居座る硬結はほどけていく。

 その快感───そう、これは、まごうかたなき快楽の一種───を、じんわりと感じながらエリーザベトはこのオークに全てを委ねた状況が可笑しくて微笑んだ。

「無理はするな、とは言わんよ。人にはそれぞれ立場もあるじゃろうて。…ただその中で、自分の体を大事にすることだけは怠っちゃいかん。誰かのためじゃなく、お前さん自身のためにのう」

 知ったような口ぶりだが、その声音は深く柔らかい。確かな経験に裏付けられたアドバイスは押し付けがましい所のない真摯な雰囲気を醸している。

「まったく…ハリー、貴様は…私が知るうちの誰よりも人間臭い…生意気ぃ…」

 いつのまにやらエリーザベトの口調も砕けたものになる。ハリーもまたフッと野卑な口許に柔和な笑みを浮かべた。

「戦況がね…思わしくないの…近いうちに大きな攻勢があるかもしれない…」

「それはどちらからなんじゃ?お前さんがたか、それとも…」

「…双方からかな。多分」

 トラ・アヴルパ伯国はこの大陸西方にある国々の中でも小国にあたる。小国のならいとして他の国々と連合を組んでいるのだが、その国王である伯爵家はエリーザベト一人を残して全員戦線の奥へと避難してしまっているのだ。

 そして、彼女らが戦っている相手はこれもまた東方の連合国で、些細ないざこざから端を発した領土争奪戦は長期化の一途をたどって現在に至る。

「私たちの軍隊にはもうまともな戦力がほとんど残っていないの…そして相手方の西方諸侯連合にも飢饉があって…軍糧が乏しい…このままだとうやむやに戦争が立ち消えてしまうからきっと…」

「───なるほどのぅ」

 ハリーはため息をつかなかった。それは患者の前ではしてはならないことだと心に決めているから。

 いつだって、戦争というものは最後の手段。そしてその結末は馬鹿馬鹿しいか派手かのどちらかしかない。一方的な完全な勝利などあり得ないが、それを求めてしまうのが人間のサガなのだろう。

(───文化の栄えは諍いをもたらす。その火が一端広まってしまうとなかなか収まらない。それはどこの世界でも変わらん、ちゅうわけじゃな…)

 胸の裡でひとりごち、ハリーはその想いをしまい込む。その代わりに。

「…勝てるか」

 一番聞きたいことを直截ちょくさいに尋ねた。その彼に、彼女は。

「…それが分かっていたら…ここに…」

 その後の言葉は聞き取れなかった。

 ハリーはベッドの側方へ移動する。今度は背骨の両脇にある起立筋群を、経穴の並びに沿って骨盤へと下りるように押していく。

「───ニンゲンの社会の出来事は、この治療院には持ち込まんのがワシのポリシーじゃが…」

「はは…ぽりしー?…その変な言葉の…意味は?…」

「黙って聞け。───もし、ここに落ち延びてくるような事があれば、ワシは全力でお前さんを匿うぞい」

 きれをこよりにした灯芯に吸い上げられた獣脂が、か細い炎の中でパチリと爆ぜた。

 返事はない。そもそもそれを期待してなどいない。騎士とはそういうものだから。

 それからしばらくの間、ものも言わずにハリーはマッサージを続けて。

 やがてそれ以上の言葉を交わすことなく施術が終了する。

 かと、思われたが。

「あーっ!お師匠様!またニンゲンの患者を断りもなく入れたんですかぁッ⁉︎」

 つむじのてっぺんから出したような甲高い声が、ベッドに腰掛けて甲冑の身支度をしているエリーザベトとそれを手伝うハリーの鼓膜を突き抜けた。

「ちょーっと町までお使いに出ただけなのにこれですもん!やっぱりこの私がついていないとダメですね、お師匠様‼︎」

 その甲高い声が、短く鋭く複雑な発音の単語を発すると。

 暗かった洞窟に、一瞬で照明がつく。いや、まるで真昼の太陽の光を呼び入れたかのように明るくなったのは、天井の鍾乳石たちが急に煌めく光を放ち始めたからだ。

 遠くまで見渡せるようになった洞窟の、ちょうど出入り口くらいのところに声の元となった麻布や獣皮の袋の集合体の怪物がいた。

 だが明るい光に目を細めた二人がよく見れば、それは体の前にも後ろにも大量の布袋を提げたフード付きマントの少女の姿。

「お師匠様は本当に用心というものが分かってらっしゃらない‼︎ニンゲンなんてものは野蛮で、厚かましくて、がめつい生き物なんですからねっ‼︎ちょーっと甘い顔するとつけあがって、無茶なことを要求されたりしてませんかッ⁉︎」

 さすがのハリーもやれやれとため息をつく。

「やかましいのが戻ってきたのう。頼まれたお使いはちゃんとできたのか、セツ?」

 ガミガミと叫びながら、重たい荷物を地面に引きずらないようにえっちらおっちらと近づいてくる少女に、ほぼ甲冑の着付けを終えたエリーザベトが思わず駆け寄る。

「ん?この香水の匂いは───」

 ザンバラな青白い銀髪の下で可愛らしい小鼻をヒクつかせると、少女はおでこを振り上げるようにして目深にかぶったフードを後ろにずらす。

 その下から現れたのは、目隠しのようにスッポリとまなじりを黒木の板で隠した顔だった。健康的に陽に焼けているが元々の色白が察せられるバター色の肌。尾翼の左右はお転婆なソバカスだらけだが、顔の造作は見とれてしまうほどに整っているのが板を着けていても判る。

 そしてフードの下に隠されていたものがもう二つ、露わになる。

 光の中でピョコンと立ち上がる、頭の真横に突き出した兎のように長い尖り耳。

「あーッ!あのツガルなんとかいう乱暴騎士!」

「え、あ、そうですが、私は今回は何も…とりあえずその重そうな荷物をお持ちいたしましょう、エルフ様」

 たじたじと、差し出した手のやり場に困っているエリーザベト。オークのハリーに対して取る態度とは正反対に、そこには敬虔な尊崇がある。

「触るなニンゲンッ!」

 激しく叱責し、エルフの少女はまるで瞳を覆った板さえ貫くようなまなざしをエリーザベトに向ける。

 と、ひたりと据えられた見えない視線に絡め取られたように姫騎士の動きが止まった。そのままエルフの少女が嬲るように低く何事かを小さな頬の内側で唱え始め───

ーめいセツ、このバカタレが」

「ぴゃいッ⁉︎」

 銀髪のてっぺんに落ちてきたハリーの拳骨で、少女は詠唱をやめて膝を落とす。ついでに荷物も総てボタボタと糸が切れたように地面に転がった。

「な、何をなさるんですお師匠様?」

「黙らんかい。いいか、この騎士さんはワシの、ひいてはお前にも大事な患者さんなんじゃぞ。ニンゲンが来ても丁重に応対しろ、冷遇するなとあれほど言っておったじゃろうが」

 エリーザベトはバツが悪そうにエルフの術が切れて地面に落ちてしまった大事な買い出しの品々を拾い上げ、埃を払う。

「だ、だってだって……この者は、以前にお師匠様に刃を向けた前科が」

 ここでまた、ゴツン。

「たとえそうだとしても、いまはワシらの患者さん。そんなに血の気の多いことでどうする?ワシの弟子を続けたいなら、まずそこを直さんかい」

 とくとくと説教され、少女は長耳もろともにうなだれる。

「すまんのエリーザベト。セツにはワシがよう言い含めておくから、許してくれんかい?」

「いや、許すも何も…エルフ様のおっしゃる通りだからな。私は確かに貴様に一度は刃を向けたにもかかわらずここにかよっている厚顔の輩だ。その件に関しては───詫びて済むとは思ってはいない」

 殊勝にうなだれている姫騎士を、しかしハリーは豪放に笑い飛ばして荷物を受け取った。

「ワシは治療する。お前さんは対価を払う。それでええんじゃ。何をおこがましく感じることがある?」

「しかし…」

 まだ自分を睨みつけ、縄張りに侵入したよそ者を威嚇する狼のように「がるるるるる」と唸っているエルフの少女ことセツを窺うエリーザベト。

「やれやれ…おいセツ、ワシはこの荷物を倉庫にしまってくるから、手洗いとうがい、それと足をすすいでこい。ちゃんと爪の間もくまなくじゃぞ」

「───はぁい。分かりましたお師匠様…」

 ほどなくして。

 洞窟の出入り口に垂らした長暖簾がわりのゴザを跳ね上げて、勇ましい甲冑姿となったエリーザベトは杭に繋いだ白馬のあぶみに足をかけた。

「うむ、あれほど突っ張って重かった足も肩も腰も、見違えるように軽くなった…ハリーめ、恐れ入るな」

 続いて現れたハリー、そしてその後ろに隠れるようにしてついてきたセツが白馬の鞍のそばに寄る。

「いつもの事を繰り返して言うが───」

 カチン、と兜の面覆いを上げ、姫騎士は琥珀色の瞳で粗末な腰巻一つのオークを見下ろす。

「───はりきゅう按摩あんまも、続ければ続けるだけ効果が上がる治療法じゃ。じゃから頑張って通ってくるんじゃぞ!」

 騎士の出で立ちに戻ったことでいかめしくなった美貌の中に、柔和な笑みがこぼれた。

「承知した。必ず、近いうちにまた来よう!」

 握り込んだ手綱を軽くひと打ち。白馬は並足で樹木の根が複雑に絡み合う森の中を進み始める。

 ハリーは右手を高く振る。大きく、ゆったり、一期一会の再会を惜しむように。

 姫騎士は獣道の曲がり角に消える直前、振り返って叫んだ。

「───今度治療を受けるときには!貴様が喜ぶ物を携えてくるからな!」

 完全に人間の武人が見えなくなってから、セツはハリーに問いかけた。

「お師匠様、あのニンゲン、一体何を持ってくるつもりなんでしょうかね?」

 オークは逞しい胸板に腕をこまぬき、さてな、と首を傾ける。

「…私としましては、あのように血なまぐさい武人との関わりは持って欲しくありません。だってお師匠様の身に何かあったら…私は…」

「そうは言っても、じゃな。現実的にワシらはおまんまを食わんと生きてはいけんし、ワシらだけで暮らしていくには物資も足りん。この世界でやっていくには他の種族の連中とも仲良くやっていかんとしょうがなかろうて」

「でもぉ…」

 口の中でぶちゅぶちゅと不平を噛むセツを眺めるハリーの瞳。ニンゲンが恐れ、忌み嫌う怪物種オークのその眼差しはしかし、野花を愛でる詩人のように優しい。

「それに、良いこともあるぞい。ホレ」

 ハリーは視力を持たない弟子の小さな掌を開かせると、そこに片手の内に持っていたものを置いた。

「え?なんですかコレ…?」

 不意に手渡された小さな布包みに、セツは怪訝そうに嗅いだり弄ったりしてその内容を確かめて。

「───!コレは‼︎」

 まだ大きに幼い顔をほころばせる。

「そう、お前さんが前に好きだと言っとった干しなつめじゃよ。今回の治療の対価じゃと」

 戦士の集まる砦に糧食はいくらあっても足りるものではない。おそらく余裕のない中で、子供が喜ぶような菓子を調達するのは相当苦労したのだろう。値千金───確かにここいらでは金貨数枚以上の価値がある甘味である。

「やったぁーッ」

 セツは兎のようにハリーの周りをピョンピョンと跳ねまわる。弾むボールのようなその様子をひとしきり楽しんで、ハリーは弟子をそろそろ暮れはじめた夕陽の差し込む洞窟の出入り口に導く。

「ね、ね、お師匠様!お夕飯の後で、お師匠様も一緒に食べましょうねコレ!」

「ああん?ワシは、甘い物はちょっとなぁ…それより酒の方が…」

「お酒はダメです、いけません!だって酔うとお師匠様、私の知らない言葉で変な歌を唄うし、森の中で迷子になったり裸になったりしてるでしょう?」

「うっ、なぜそれを知っとる」

「あーやっぱり!最近消毒用のお酒のカメの減りが早いと思ったら!私に隠れてましたねッ⁉︎」

「はー、やかましいのう。良かろうが、大の男が酒を飲む程度は」

「それでお師匠様が帰ってこなかったら、泣くのは私なんですからね!私の目の青いうちは、絶対に飲みすぎ禁止!」

 小さく細い手を引くオークと、太く無骨な腕にしがみつくようにして歩くエルフ。ガミガミとまくし立てる弟子と辟易に目をすがめる師匠とは、先程とはすっかり立場が逆転してしまっていた。


 ~つづく

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