「負けました」

 夏を越えてしまった蚊の羽音のようにか細く、そして耳障りな音だった。それは死人の声なのだろう。少年と盤を挟んでいたのは制服のブレザーを着た中学生だったが、言ったきり動かなくなった。

 少年は暫く終局図を眺めていたが、やがてこの将棋の感想戦が行われないことを察すると静かに立ち上がった。

 盤駒がずらりと並べられた空間ではまだ多くの対局が続いている。殺気をぶつけ合う人の間を縫うようにして幹事の元へ進み勝敗を報告した。

「昇級だな、おめでとう」

 幹事は言葉短く言うと、キーボードを探るようにしてノートパソコンに結果を打ち込んでいく。こうしたものを使い慣れていないのだろう、覚束ない手元で作業されるのを見てしまうと少年としては不安だ。間違えていやしないだろうかと、じっと見つめてしまう。

「どうした、まだ何か用か」

 少年の視線に気付いたらしい幹事は忙しそうに言った。

 少年は小さく首を振る。

「なら早くどきなさい、他の子が待っている」

 振り向くと、数名の男が列を作っていた。みな少年よりも年上のようだったが、少年へ向ける視線の鋭さには年長者としての余裕など欠片もない。

 少年は向けられた敵意を受け流すように会釈を残してその場を離れた。去り際、先ほどまで座っていた盤の方を向くと、未だ動かないブレザーの彼は一つの物音を立てることもなく唇を固く噛み締め、紅潮した頬には一筋の濡れた跡が見えた。降級が決まったら退会するらしいという噂は聞いていたし、あんな風に泣くのは普通の事ではないから、きっとやめるのかも知れないと、少年は何となく思った。

 少年は足を止める事無く部屋を出た。


 会館のロビーでジュースを買おうとすると、突然大きな男の影が割り込んで来た。良い気分ではなかったが言い返す事は出来ず、ほんの少し唇を尖らせて後ろに並ぶ。

 少年は会館の空気が苦手だった。知っている人間が一人もいないし、誰かが声を掛けてくれるような環境では無いからいつまで経っても馴染めない。だから今のように理不尽に割り込まれても言い返す事ができないし、そのせいで余計に会館の空気が嫌になっていく悪循環だ。

 そうして拗ねていると、割り込んで来た男が不意に振り向いた。

「何買うんだよ」

 どぎまぎする少年が事態を理解出来ていないと察したのだろうか、男は続ける。

「奢ってやるよ、昇級祝い」

「……じゃあ、それ」

 少年が自動販売機の片隅を指すと、男は手早くボタンを押した。

「この後暇だろ? ちょいと話しようぜ」

 冷えたペットボトルを少年の手に捻じ込みながら、有無を言わさぬ調子で男は言う。

 頼んだ訳では無いが奢ってもらった形であり断るのも難しい。男は自分の飲み物を適当に買うとずんずん前を歩き始めたので、少年は良く解らないままその後について行く羽目になった。

 男は会館を出ると一直線に目の前の神社まで歩いていき、手近なベンチを見つけて腰を下ろした。境内には猫の一匹すら影も見えず、周囲から一気に生き物の気配が消えたせいか、元より冷たい一月の空気が一層鋭く肌に突き刺さると少年の歯が音を立てて鳴った。

「例会日はどうしても人が多いからな、あの中じゃ落ち着かないだろ」

「でも、寒い」

「我慢しろよ、俺だってさみいんだ」

 それはアンタが無理やり誘ったせいだろう、と言いたくなったが、少年はグッと堪えて男の隣に座った。ペットボトルのキャップをひねる時に、どうせならホットココアにしておけば良かった、と少し思った。

「これで三級か?」

「うん」

「六連勝、九勝三敗と来て六連勝、通算だと何勝何敗?」

「五回負けた、勝った数は解らない」

「あー……抜け番無ければ今日で二十七戦のはずだから、二十二勝五敗ってところかね」

「良くわかるね」

「例会ってそういうもんだからな」

 少年は自分でも解らなかった情報を見事にひも解いて見せた男に驚き、男はその驚きの表情が幼い少年の感性であることに拍子抜けしたように笑った。

「どんなヤツかと思ったら、意外と普通のガキなんだな」

「ガキってなんだよ」

「悪い悪い。とんでもない化物が入ってきたって話題になってたからさ、気になって見に来たんだ」

 男は頭を掻きながら、そんな風に詫びた。

 少年は改めて男を眺めると、そこで初めて男の年齢がまだ若いことに気が付いた。態度の大きさからすっかり大人を相手にしていると思い込んでいたが、高校生くらいだろうか、大人たちよりも自分たちの側に近いように少年には感じられた。

「奨励会員なの?」

 少年が尋ねると、男はぎょっとした風に目を丸くして見返す。

「お前、俺のこと知らないで着いて来たの?」

「だって、勝手に行くから」

「知らない大人について行くなって親から教わらなかったのかよ」

「だってアンタ大人じゃないじゃん」

「うわ……そのリアクションとかマジでガキだな」

「ガキって言うなよ、失礼だぞ」

「しかもクソ生意気」

「いい加減にしろよ、用が無いなら帰るからな」

 苛立った少年が立ち去ろうとすると、青年は焦る風でも無くただ一言静かに呟いた。

「8四歩」

「何?」

「目隠し将棋」

「何でいきなり二手目なのさ」

「先手はお前、二手目は8四歩」

 いつの間にか、少年を誘う言葉からはこれまでの緩さが消えており、ベンチで足を組みながら初手を待つ青年は上位者としての風格に満ちている。

 触発されるように少年の目の色が変わった。

「その前に、名前くらい教えてよ」

 言いながらベンチに座り直すと膝の上で拳を握り、実戦さながらに呼吸を整える。

「三段、島津銀乃介だ。よろしく」

 青年――島津は目を閉じたまま言う。

「浅井響です、よろしくお願いします」

 少年――響もまた、目を閉ざして礼をした。




 気が付けば冬の短い日は夕暮れていた。

 何となしに始まった目隠し将棋は六局程続いたが結果は島津の全勝、如何ともしがたい実力差は明らかだ。

 当然と言えば当然だろう。響は勝負を始めてから知らされたのだが、現在十八歳の島津は高校卒業を間近に控えた今期の三段リーグで単独首位に立っており、プロ入りを当確視されているような男だった。

「ついでだし、このまま飯でも行くか。奢ってやるよ」

 気を遣われたのかも定かではなかったが、島津の提案を響は素直に受け入れた。虚勢を張る事も出来ないような、認めざるを得ない実力差が二人の間にはあった。

 向かったのは島津の行きつけである小さな食堂だ。響がオムライスを食べたいと言うと、メニューにはなかったが女将は気軽に応じてくれた。島津は生姜焼き定食を頼むと、店に置かれているテレビのチャンネルを手慣れた風にいじり、お笑いの番組に合わせた。

 テレビからのガヤの笑い声と厨房から届くフライパンの油の音を聞きながら、島津が何とない風に尋ねる。

「お前の師匠、六角先生だよな?」

「そうですけど、何か?」

「弟子取らないことで有名な人なのに、なんかツテあったのかなって」

「じいちゃんと関わりがあったみたい、知らないけど」

「へえ……お前のじいさん、今は何してんの?」

「去年死にました。二月四日で一周忌です」

「立春か」

「おれの誕生日なんだよね」

「誕生日に死んだの?」

「そう、おれの誕生日がじいちゃんの命日」

「そりゃまた、縁起でもねえ偶然だな」

「偶然なのかな、解らないけど」

 そうして下らない話を続けているうちに、気を利かせてくれたのだろう、オムライスと生姜焼き定食が運ばれてきたのは同時だった。

 互いに料理を口に運びながらも話は止まず、日頃の勉強方法に始まり好きな棋士や良く指す戦法について、変わり種では記録係をやらされる時の当たりと外れについてなどなど――恐らく他の奨励会員達が冗談交じりに日頃話しているだろう下らない内容だが、響にとっては奨励会に入ってから初めての心が安らぐ体験だった。

「お前、知り合い一人もいないのか?」

 ふと、島津はそんな風に言った。そこに優しさを感じたのは気のせいでなかっただろう。だから響も妙な意地を張らずに素直に頷くことが出来たのだ。

「アマの大会とかに出たこととかは?」

「ないよ」

「奨励会入る前はどこの道場行ってたんだよ」

「ずっと家で、一人でやってた。だから本当に、知り合いなんていない」

 響の返答に、島津はひどく感心したように唸った。

「マジの独学でアレかよ……末恐ろしいな」

「困ったことなんて無いよ。知り合いがいたって将棋が強くなれる訳じゃ無い」

 強がりのつもりなど欠片もなかった。奨励会はお互いに潰し合って強くなるための場所だと思っているし、一緒に勉強して強くなれるような、同レベルの人間など同世代の会員では見た事が無い。してみれば、他人と関わる事に意味を見出せないのも自然だ。

「それ、しんどくないのか?」

 確かに、このオムライスを食べながら、奨励会や将棋の事について話を出来て、気持ちが軽くなったのも、きっと勘違いではないのだろう。

 それでも、と思う。

「将棋は、強くなることだけが本当なんだよ」

 将棋を指す上で信じられるのは唯一自分の強さだけだ。今日負けて消えて行くブレザーの彼、既に名前も朧気になってしまった存在のことなど誰も救えない。究極、将棋を指す相手は全て倒すべき敵でしかない。

「まあ、考え方自体は正論だろうけどな」

「けど、何さ」

「例えば……そうだな。最近のソフトの進歩とかを見てれば、名人がソフトに負ける時代がいずれ来るなんてのは明らかで、もしそうなっても強さこそが全てだって言い続けるのなら、いずれ棋士はどうあがいても一番になれない立場になっちまうんだぞ。お前はその時がきても、棋士は強さこそが全てだって、強くなることだけが本当だって、言い続ける自信があるのか?」

「そのときは、棋士がソフトに挑戦すればいい。棋士だろうとソフトだろうと、強い方に価値がある。勝負って、そういうことのはずでしょう。人がその意志さえなくしてしまうなら、そのときは将棋の意味も消えちゃうよ」

 言った響に島津は呆れたような苦笑を漏らしながら、

「最後に残るは名人一人ばかりなり、ってか……色々とガキなんだろうが、でも、大筋の結論としては間違ってないよ。そう思えないと駄目だよな。相手を理由にして負けて良いなんて思っちまったら、勝負なんてできやしない」

しかし確かに頷いていた。


 我儘を聞いてくれた女将に少年らしい深々とした礼をしてから店の外へ出るともう星が高かった。響はふと我に返り、焦った風に携帯電話を取り出してメールを打ち始める。

「どうした、急に」

「家帰るの遅れるから、親にメール」

「お前の家どこなの?」

「電車で二時間くらい」

「へえ、苦労してんだな」

 親からは即座に返信があり、気を付けて帰ってくるようにと、それだけだった。寄り道を叱られると思っていただけに意外だったが、怒られないならばそれに越したことは無い。

「んじゃ、駅まで行くか」

 連れ立って駅まで歩く道中もやはり下らない話をした。島津の高校生活の話であったり、同門の兄弟弟子の話であったり、プロとして活躍している棋士が修行時代に残した逸話であったり。

「六角先生って、指導付けたりしてくれてんのか?」

 そうした中でふと向けられた島津からの問いに響は首を振った。六角は書類上の師匠ではあるが将棋を指した事は一度も無い。

「よし……じゃ、これからは俺の勉強につきあえ」

「教えて貰えるなら嬉しいけど、わざわざ級位者に声かけなくたって、三段なら練習相手なんて他にもいるんじゃないの?」

 小学生らしいストレートな物言いで疑問を口にすると、島津は今日初めて口ごもった。

「まあ、ぶっちゃけ色々事情があってだな」

「色々って何だよ」

「それと、紹介しておきたいヤツがいるから今度会いに行こう。そいつも三段だ」

「俺の話聞けよ。それに、まだいいって言ってないぞ」

「お前にも絶対に損はないから。一回付き合ってくれるだけで良いんだ。この通り、頼む!」

 どちらが上位者か解らなくなるようなやりとりに押し切られる形で、響は島津の願いを聞き入れることとなった。島津が実力者である事は疑いようがなかったし、紹介したいと言っている相手も三段らしいのだから、今の響よりは数段強い。響にとって有益な提案である事は間違いない。

 しかしだからこそ、ここまで必死になって頼み込む島津の態度が不気味だった。




 一週間後の日曜日、響は一人でその家を訪ねていた。

 広い敷地を囲う古い塀、平屋の日本家屋。島津が紹介したいという人物が住んでいる家らしいのだが、島津本人は高校の卒業コンパで来られないという連絡があり、住所だけがメールで送りつけられたのである。話は通してあるらしいがあまりにも適当過ぎる。

 妙な先輩に目を付けられたものだとため息を吐きながらチャイムを鳴らして暫く待つと、戸を開けて現れたのは島津と同い年ほどの細い女だった。

「ギンから話は聞いているわ、おあがりなさい」

 必要以上の言葉を口にせず招き入れるその女は、既に臨戦態勢なのだろう、張り詰めた空気を醸し出している。普段から和服党らしく睦月の空の灰白色に鮮やかな梅を合わせた小紋の着こなしが素晴らしくなじんでおり、うす黒く染まった木板の渡り廊下を擦る足袋の白い音は凛とした自然な美しさを引き立てている。

 だが、響にとって既に棋力に関わらないものに興味はなかった。

 通された和室には当然のように盤が設けられている。

「平手で良いのよね?」

 奥の席に着きながら、一応の確認というような態度で女は言う。

「よろしくおねがいします」

 響も多くは語らず、頭を下げて席に着いた。静謐な畳の上で並べる四十の駒は古庭の隅に溶けた添水に似て透明に響く。

「立花千代です……では、よろしくおねがいします」

 先手は響。


 島津と互角、或いはそれ以上かとも思えるような棋力。またしても相手にならなかった。

 島津のそれを相手に向かって直進し力尽くに殴り倒す豪腕とするならば、千代はさながら四方八方から手を尽くし泥沼の底に引きずり込む幻惑の搦め手。格上の人間と指した経験の少ない響にしてみれば、自分の土台を根から揺さぶられる初体験の将棋だった。

「お茶にしましょうか」

 ふと千代は言い立ち上がると、着いてくるようにと響の前を行った。未だ人柄は掴みかねるが、一つ確かなことは千代は強かった。そして響にはそれだけで十分だった。

 先の対局室よりも幾分広い客間、蛍光灯は備えておらず開け放った襖向こうの硝子戸から入り込む仄暗い陽の光のみ。しかし庭の池はよく見えた。そこに棲む金魚の動きと波の揺れまでも。

 煎茶と茶請けの菓子を出しながら千代は言う。

「欧羅巴の美は、強い光を当てるんですって。たとえば、蛍光灯……日本の場合は行燈の薄暗さだから、逆に強い光を遠ざけるの。源氏物語、知らないかしら、きっとそのうちに学校で教わると思うけれど……ほとんどの話に共通して、相手の、好きな人の顔は暗くてはっきりとは見えないの」

 しかし菓子に関しては洋菓子だった。響はあんこが苦手なので助かったと思った。小豆の味が苦手なのだ。

「島津さんに声をかけられて困ったけど、来て良かった」

「どうして?」

「立花さんは普通の人だったから」

「三段はみんなギンみたいなヤツだと思っちゃったかな? 安心しなさい、アレは例外」

 手元に口を当てながら上品に笑う。泥臭く粘り強い棋風とは真逆の品の良さ。棋風と人格はあまり関係がないのかも知れない。

「三段リーグで二位争いをしているって、島津さんから聞きました」

「圏内ではあるけど五番手よ。ギンが頭一つ抜けて一位、その下に単独で一人いて、私とあと二人が横並び、順位的には私が一番下……もう五期目だし、いい加減通りたいけどね」

「島津さんは何回目なんですか?」

「あいつは一回目。それでいきなりトップ独走だもん、ほんと嫌になる……なーんて私が言ってたこと、本人には言わないでね」

 盤前に座っていたときとは打って変わって年相応のかわいらしさが見え隠れする千代に、響は生まれて初めての感覚を味わっていた。むねがばくばくする。

「それにしても」

 と、千代は話題を切り出した。

「君、ほんっとに情報疎いのね。三段リーグの話なんて多かれ少なかれ耳に入るでしょ?」

「将棋の知り合い、いないから」

「ああ、ギンもそんなこと言ってたっけ……ってことは、ホントに一切独学でここまでやってきたの? 親御さんとか、少しは詳しいんでしょう?」

「親は将棋のこと博打だと思ってるもん。奨励会のことはちゃんとしたところだって説明したから、怒られはしないけど、あんまり奨めてくれない」

 千代は呆れたような息を吐き、

「才能か」

そう漏らすばかりだった。

「じいちゃんが」

「え?」

「じいちゃんが、真剣師だった」

「ああ……それで将棋が博打。じゃあおじいさんに教わったの?」

 響は首を振る。

「棋譜の読み方は教えてくれたけど、あとは一局指しただけ」

「一局だけって、どうして?」

「その一局で死んだから」

 響はそれを何か特別のこととして語っていないと千代には理解できたが、しかしだからこそ言葉を失った。

 けだしこの世に狂気などというものが存在するならば、それは冷静の内にしか存在し得ない。自らの内に潜む異質は、他者に映し出すことでしかその存在を確認できない。千代は、島津は、全ての棋士たちは、この後響が続ける言葉を知っている。

「だからぼくは、ああいう将棋をまた指したいんだ」

 千代の抱いた恐怖は、響にではなく、その言葉を否定できない自らの内に対するものだ。


 響がカステラを口に運ぼうと口を開いたとき、ふと女の子の幼い声が届いた。

 それを聞いた千代は微笑みながら、

「紹介しておきたい子がいるの、私の妹なんだけどね」

と、その少女を出迎えに立った。

 連れてこられたのは千代の背に隠れようとしているが赤いランドセルがはみ出している、響よりも明らかに年下の少女だった。

「ほら、昨日から言っといたでしょ、ちゃんと挨拶しなさい。あんたもう来年から五年生なんだから、少しはなんとかしないと、また年下の子に馬鹿にされるよ」

 なかなか前に出ようとしない少女を千代が力尽くに引っ張り出すと、スカートの裾をぎゅっと握りしめたまま下を向いた、顔の赤い少女だった。それを見た響はすっかり余裕が出て、これはこちらから挨拶するべきだろうと、年長者の余裕を見せつけんばかりだ。

「はじめまして、浅井響です。来年から小学校六年生です、よろしくおねがいします」

 大変良くできました、のハンコが押されそうな自己紹介で先手を打つ。これには千代という大人の女へのアピールのつもりも多分にあった。まず第一に将棋が強く、その上美人で大人とくれば、小学生の響にとってこれほどあこがれる存在はない。

「ほら、将棋の友達作るんでしょ。ちゃんと挨拶しないと駄目じゃないの」

「だって」

 かすかに漏れたそれを聞いて、うさぎのような声だと、響はなんとなく思った。うさぎの鳴き声がどんなだか、ほんとうは知らないけれど。

「だってじゃない。ちゃんとしないと今日のおやつあげないよ」

 千代の殺し文句ようやく屈したか、少女は、口ごもりながらどうにか口を開いた。

「……いの」

 蚊の羽音よりも小さい呟きだった。

「いの?」

「ちがう……の」

「もう少しはっきり言ってよ」

 響の問い返し方が幾分乱暴だったことは事実だろう。しかしあくまでも常識の範囲内のことで、何も脅しをかけたわけではないのだが、この少女、少々緊張の度合が大き過ぎたらしく、たったこれだけの事に対して肩をしゃくり上げ始め、声を震わせ、そして、涙をまき散らして千代にすがりつきながら泣き始めたのである。

「ちょっと、あんた何で泣いてんのよ。ったく……ごめんね浅井君。この子、一事が万事こんな感じで、将棋に関しては本当にずば抜けてるんだけど、とにかく友達いないのよ」

 慌てたように少女の背中をさすってやりながら、千代は言う。

「何となく、わかるような気がします」

 友達云々以前にまともに挨拶が出来ないのだからどうしようもないだろう。響は呆気に取られながら、ふと島津の胡散臭い態度を思い出していた。要するに、今回の一件はこの少女に友人を作ってやらんが為の茶番だったのである。

 その時、少女が一際大きな声で響に投げつけるように言った。

「しの! だぢばなじのぉ! なまえぇ!」

 立花慈乃それが少女の名。

 この日少年は本物の天才と出会った。後で振り返れば確実に笑ってしまう出会いだった。

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