名人
尾和次郎
序
少年の祖父は隻腕であった。右肩から先が欠落した背姿はその歪さ故に幼心を妖しげな魅力で惹きつけて離さず、自然と少年は祖父の背を追って一日を過ごすようになったが、それは消えた腕に誘われているかのようでもあった。
黴びた書物の匂いに満たされた薄暗い蔵で祖父は一人盤に向かい、少年に一瞥もくれる事はなかったが、少年にとってそれはむしろ幸福であった。少年は祖父を慕っていたのではなく隻腕の老人が盤に向かう玲瓏とした図をこそ愛していたのである。
宗桂算砂の一戦より積み重なった四百年の棋譜の山、看寿から現代の物に至るあらゆる詰将棋、難解な定跡を研究した祖父の書き物――蔵には将棋の全てが詰まっていた。その蔵において八十一の枡目は世界そのものであり棋理こそが絶対の法としてあらゆるものに優先された。必然として少年は挨拶の作法より先に必至を見切る術を学び箸の持ち方よりも先に寄せの手順を身につけた。
少年が祖父を超えたのは、つい一年前のことだ。
少年にとって最初の一局は祖父の絶局となった。その手が完全に詰んだとき、祖父は盤の前で冷たくなっていた。
やがて到着した救急車の赤灯が薄暗い蔵の壁を駆け巡る中、少年は残された盤に向いたまま微動だにせず、対局中から既に死んでいたであろう、そして殺したのは他ならぬ自分であろう、悔いも焦りも無い冷静のうちにその二つを思った。
睦月は梅咲く立春の雪、白い日。
少年は、勝負の真髄を、盤上に漂う神の影を、消え行く命に垣間見た。
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