第5話

 それからというもの、レオナは酷い有様だった。

 レオナの家で再び暮らし始めたが、レオナは自室にこもってばかりで、ろくに食事もしなかった。たまに部屋から出てくると、体力が尽きるまで悲鳴を上げながらそこら中にあるものを放り投げた。部屋は割れたコップやガラスでぐちゃぐちゃになっていた。

 どうやら、自分が常に監視されていたショックに加えて、わたしを流産させ、また、特権階級から引きずり降ろしてしまったことに強い負い目を感じているようで、わたしが気にしていないと言っても聞かなかった。

 レオナをそんな状態にしてしまったことで、わたしも、自分の行動が間違っていたのではないかと後悔の念が芽生え始めた。

 レオナのお腹の中でコドモがだんだんと大きくなっていくのとは裏腹に、レオナの精神はじくじくと蝕まれていった。精神が安定しないのは、妊娠も影響しているのかもしれない。

 これからのことなんて全く考えられなかった。いや、考えること自体はできる。例えば父を殺すこととか。復讐だ。でも、父は憎いが、奴を殺したってこの状況は何も変わりはしない。少しはスッキリするかもしれないが、どうせまた別のトップが現れるだけだ。

 この状況を打開するには、もっと大きな何かが必要。

 でも、もう二人ともどん詰まりだった。

 だから、もう何も考えない——

 このまま二人で、ゆっくりと腐っていく——

「……どうして」

 レオナの部屋から声が聞こえる。

「どうして、新たなコドモが生み出されずに済むようになって、今生きてる人たちはようやく幸せに暮らせるようになったのに、わたしたちだけが生み出され、苦しまなければならないの」

 レオナが部屋の向こうから叫ぶ。

「わたしの人生、何にもなかった。ただ生み出されて、いいように使われて、おしまい。こんな人生に、意味があったと思う?」

 レオナの声を聴いて、胸が締め付けられた。こんなに惨めなことを言わせてしまったことを、強く後悔した。

 だから、わたしだけでもレオナを肯定しなければならない。

「きっと、わたしたちが出会ったことには意味があったよ」

 それは気休めではなく、わたしの本心だった。わたしたちの心が通い合った一瞬に、きっと生きてきた意味があった。何もかもが歪んだ世界で、唯一信じられるそれだけが救いだった。

 でも、この気持ちさえも、レオナには届かない。

「知らない。そんなの。そもそも、リンと出会わなければ、なんにも知らないままでいられたのに」

 きっと、それもレオナの本心だった。レオナとわたしを隔てるのは扉一枚だったが、そこには途轍もなく大きな隔たりがあった。

「——でも、レオナがわたしの全部なの。だから……もう一度、二人でやり直そうよ」

「だったら」レオナが扉を開けた。扉の前に座り込んでいたわたしを見下ろして、

「わたしと一緒に死んでよ」

 レオナがやつれた姿でそう言った時、わたしに焦点は合っていなかった。口元は笑っていたが、もう万事がどうでもいい、といった風だった。

 わたしにとってレオナは特別だった。でも、レオナにとってわたしは何でも無かったんだと思う。

 でも、それでもよかった。一緒にいられるだけで幸せだったから。

 もしかしたら、レオナはわたしにこの惨めな気持ちをを否定してほしいのかもしれない。

 だけど、わたしには、それを跳ね除けるつもりはなかった。レオナを愛しているからこそ、彼女をここまで追い詰めてしまった以上、最期も一緒に逝くのが、せめてもの責任であり、わたしなりの愛のかたちでもあると思ったのだ。

 レオナを抱きしめる。

 冷たい。

 伝わる温かさも、気持ちも、わたしからレオナに対して、一方通行だった。



 目が覚めると、なにかごつごつとした感触が背中や臀部に当たっていた。そこを発端として、だんだんと手や足の感覚が戻ってくる。

「どうしてわたしはここに……」

 覚えているのは、二人でオーバードーズして家を出たこと。家を出たのは、「人の死」を世間に見せつけて混乱させてやろうと、わたしなりに考えたからだった。

 だんだんと目に光が灯る。かすれた風景に色が付き始める。

 べちゃぁ。

 這いつくばって移動すると、手にねばついたものが付着した。気持ち悪い。だんだん焦点が合ってきた目で自分の手を見ると、赤黒い液体がてらてらと光っていた。

 手に触れていたのは、息絶えたレオナから流れ出す赤黒い血。

 レオナは殺されていた。おそらく意識がない無防備な状態のまま。オーバードーズによる死にしては出血が多すぎる。

 レオナが襲われて、わたしが無傷だった理由——それは一つしか考えられなかった。

 レオナが妊娠していたから。

 恐らく暴漢は、正義の名のもとにレオナを襲ったのだろう。こいつは罪人だから何をしてもいい、と。

 わたしは吠えた。

 道路を真っ赤にするまで、拳を何度も地面に打ち付けた。

 そうして、痛みによって自分が生き残っていることを実感すると、自分の道化さに笑いがこみ上げてきた。

 身に余る幸福を望んだがゆえに、愛する人を身勝手な行動で追い込み、失った上、共に死ぬこともできず、挙げ句無残な姿に貶めてしまった。これを笑わずになんとすればいいのだろう。

 レオナだったものの頬をなでる。今にも息を吹き返しそうに見えたが、身体はやはり冷たく、脈がなかった。

 自分の意識がはっきりしてくるにつれ、自分だけが生き残ってしまったという事実がありありと感じられた。

——死のう

——早くレオナのところに行かないと

 そう思ってレオナをもう一度見る。

 レオナの口は笑っていた。薬のおかげで、とんでもない快楽の中で死んでいったのかもしれない。それはもしかすると、この地獄のような世界で、唯一天国のような瞬間だったのかもしれない。


 ここで、閃きがあった。


 この地獄のような鳥籠の開け方。


 思わず笑みがこぼれる。歓びが身体の芯から溢れ出す。

 レオナだったものを抱きしめ、キスをする。こんなにも冷たいレオナが、わたしに勇気をくれる。

 そうだ、せっかく拾った命なんだ。レオナのために使わなければ損だ。

 自分にしかできないことがあるとわかれば、やることは一つだった。

 計画なんて必要ない。この摩擦で擦り切れそうな世界は、一滴の油を垂らしてあげれば、たちまち燃え上がる。

 わたしはレオナの遺体を担いで家の中まで運ぶと、細胞の培養を始めた。

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