第3話
わたしは母親を憎んでいた。
母は娼婦だった。
饐えたニオイの充満する新宿二丁目にあって、そこに特別さなんてなんにもない。あるのは、もう表の世界には戻れないという諦観と、ただ老いて行く身体だけ。不老不死が実現し、この世の楽園と化していたかのように見えた日本にも、その利益を享受できない層の人間は確かに存在していた。
昔から人間は変わらない。支配者は被差別階級を生み出し、排除し、君たちの方が正しいのだ、と大衆を誘導する。今の御時世では、不老不死になっていない人間をこの世の害と決めつけ、差別心を煽っている。
そんな、行き場のない中で生きる母親の姿を見てわたしは育った。
父親が誰なのかは知らなかったし、知りたくもなかった。さしずめ毎週金曜日に来ていた男といったあたりだろう。母は女王と言えるほど稼いではいなかったし、影響力も無かったけど。
わたしの存在がバレたら母親は即刻逮捕だから、わたしは監禁されていた。内側から開けれれないドアと窓から見えるのは、歓楽街を行き交う行き場のない快楽と絶望だけだった。母親は昼夜働いていたが、わたしが物心つく頃には、老いたその身体と容姿では大して稼ぐこともできなくなっていた。
家にいるときの母親はわたしを構いもせず、本をよく読んでいた。逃げ場のない現実を紛らわすように。当然わたしも同じように本を読み漁った。すばらしい新世界の外で暮らす、野人のジョンのように。
わたしを生かしておいたのが少しばかりの愛情ゆえか、それとも自らの身代わりとして将来働かせようという打算からなのか、今となってはわからない。母親の考えを知る前に、彼女はわたしの前からいなくなってしまったから。
窓の外を通りがかった人がわたしの存在に気づき、当局に通報したのだ。
母親は捕まり、わたしは逃げ出した。不思議と追手は来なかった。産んでしまった人を罰する法はあっても、産まれてしまった人を罰する法は無いのかもしれない。
それ以来、人目をかいくぐるようにして生きてきた。元から何者でもないわたしの身分は、ここで自由に生きていくのに都合が良かった。
男相手に商売をするのもその術の一つ。というより、それ以外の方法をわたしは知らなかった。
母親も、この生き方以外知らなかったのだろう。出生禁止法が制定された後でも、母のように生き方を変えられない人は多かったはずだ。
所詮法は法だ。人の生き方なんて縛れやしない。
客の男を相手するのは好きではなかったが、割り切れる。女としての自分を存分に利用してやる、心まではあんたらのものじゃない、と思えるから。それが強がりだったとしても。
でも、女は嫌いだった。
わたしを勝手に生み出し、勝手にいなくなった母。その母のことも嫌いだったが、今の女たち——女の部分を捨て、ただ快楽を貪って生きる女——はもっと嫌いだった。
生理の辛さから逃れるために、生殖機能を捨てた女は多い。去勢することで、男女ともに国から様々な援助も出る。
だったら、このわたしはいったい何だっていうんだ。こんなにつらい目にあって生きてきたというのに。わたしには戸籍や身分なんて無いのだから、去勢したって援助申請なんてできやしない。いくらこの国が嫌でも、パスポートなんて無いから海外逃亡するのだって容易ではない。
だからこそ、このわたしの子宮は、社会に対する反逆心の結晶だ。動物としての人間を自らの意志で捨て「生存」に支配された奴らに、一発かましてやるんだ。あんたらが持っているそれは、ただのセックスグッズですか、ってね。
だから、そんな奴らの相手をするくらいなら、死んだほうがマシ。
でもそんなことを言ってみても、端から見たら自分がその女たちと何も変わらない、ということは自覚している。今はもう表立って男と付き合うなんて無理だし、コドモを産んだとしたって、戸籍がないわたしのコドモがどんな生き方をしていかねばならないか、想像できないほどバカではない。それにわたしと同じような目に合わせるなんて可哀想だ。
結局、わたしも彼女らと同じだ。自分には何もする力が無い。結局、社会に迎合して生きていくしか無いのだ。社会は社会でも、裏社会のどん底だ。
昔は運命を呪ったこともあった。でも今は、そんなことをしても他人に漬け込まれ、いいように使われるだけだということは身に染みてわかっている。
そんなわたしにとって唯一の希望が、わたしには寿命がある、ということだった。
何も持っていないからこそ、失うものもない。
それはまさに、天国から垂らされた一本の蜘蛛の糸だった。
その日も男と待ち合わせをしていた。IPアドレスがバレないダークウェブを通して知り合った男だ。そいつと話してみると、実は今どき研究者なんてものを目指している堅い人物だった。そんなご立派な人がなぜこんな違法なマネをしてまで女と会うのかはわからなかったが、せっかく捕まえた客を逃す訳にはいかない。
どんな男にもまだ性欲が残っているという事実に感謝しつつも、それは男性にとって、とても残酷なのではないだろうかとも思えた。
合流すると、わたしは辺りを見回した。男は素人だろうから追手がいても気づかないだろう。前にこうした逢引を繰り返していた男と待ち合わせたときは、相手が証拠隠滅を気にしない男だったため、捕まりかけたこともある。
すると電柱の後ろに、こちらをじっと見つめている少女を見つけた。あれで姿を隠しているつもりなのだろうか。警戒心が無さすぎるから当局の人間ではないだろう。年はわたしと同じくらいだろうか。あんな少女がここにいていいはずがない。さっさと追い払おう。
ここまで考えて、疑問が湧いた。
『年はわたしと同じくらい』だって?
そんなこと、こんな牢獄のような世界で、あるはずがない。だって、出産は大罪だ。犯したものの行く末がどうなるかは、わたしが身を持って知っている。だから、彼女が産まれたのは出生禁止法制定以前でなければならない。だが、あの少女のいかにも育ちが良い上品な身なりからして、わたしと同じような境遇であるはずもない。
ではなぜ、そう思ったのか。
思考しながら彼女の目をじっと見つめ、歩き出す。
彼女の目は、わたしと同じような、社会への怒りと諦念を湛えているように見えた。
ここまで来て、彼女のことを無視することはできなかったし、こんな薄汚い世界にあっていい人とも思えなかった。
だから、ここから去ったほうがいいと警告しよう。それに、まだわたしが女であることがバレていると決まったわけではない。それでもつっかかってくるなら、それまでだ。
「こんなところで何してるんだい、お嬢さん」
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