第2話

 勉強が終わり、こっそりケイタの後をつけると、その待ち合わせ場所は新宿二丁目のとあるバーの店先だった。新宿二丁目といえば昔から大歓楽街だったそうだが、雨だというのに、ハロウィンパーティーでもしているかのような賑わいだ。聖書に描かれているソドムという街も、こんな感じだったのだろう。さながらソドムと化した新宿は、傷口のような美しさを陰惨に孕んで、アパシーな雨露を染み込ませて鈍く光り、喧騒にたゆたっていた。

 そんな新宿を眺めていると、自分の生きる意味も、周りの人の姿や声も、何もかも失われていくようだった。

 辺りはサタニックな歓喜を迸らせて騒ぎ、クラゲのようにフワフワ浮遊する人々で溢れていたが、彼らの笑顔が、人生を謳歌しているが故の自然な発露なのか、それとも、虚しさを享楽で誤魔化そうとする上辺だけのものなのか、わたしには見分けがつかなかった。

 わたしは、すべてを持っているが故に何一つ持っていない。

 すべてを与えられてきたが故に、何一つ手に入れたものがない。

 この街の人々のようを心の底から嘲笑する自分と、彼らのようになれたら——そう思う自分とが共存していた。

 無常な気持ちを雨音でやり過ごし、ケイタに見つからないように隠れていると、行き交う女から何度か声をかけられた。

 自慢ではないがわたしは顔がいい。鏡を見ると自分の肌の整い具合、通った鼻筋、大きな目などにうっとりする。

 それに、わたしは絶対的な武器を持っている。ここを行き交う人々のツギハギの若さではない、天然モノの若さだ。それに、恐らく彼女らの大抵は、生殖能力を捨てている。目ざとい彼女らは、わたしに備わった機能を本能的に嗅ぎ当てているのかもしれない。逆にわたしにとっては、その女たちは誰もが同じに見えた。どれもが、テクノロジーという化粧で身を飾り立てた女だ。

 何人目かのナンパ相手を適当にやり過ごしていると、ケイタの元に一人の人物が現れた。パンクっぽい黒づくめの格好で、長髪を隠すかのようにニット帽を被っている。身長はケイタと同じくらいで、やはり男か女か見分けがつかない。

 その人からは、危険な香り——出会ってしまったら、これまでの世界が根底から崩れ去ってしまう——そんな匂いが漂ってきていた。

 恐らくあいつがレオナだろう。

 凝視していると、レオナと思われる人物と目が合った。まずい、気づかれた。こちらの視線に気がつくあたり、やはり普通の人間ではない。心臓と首筋が冷気に包まれたかのように締め付けられる。

 奴はわたしの目をじっと見つめたまま歩いてくる。

 長い睫毛に目が吸い込まれる。蛇睨みにあったようにじっとして怯えていると、奴は腰をかがめ、

「こんなところで何してるんだい、お嬢さん」

 と、目を細めて親しげに話しかけてきた。息が首に絡みついて離れない。その語気には、ここは危ないところだから出て行けといった注意がほのめかされていた。

 口調は男に見せかけようとしていたのだろうが、こうして目の当たりにしてわたしは直感した。

 こいつは女だ。それも「わたしと同じタイプ」の。

 一転して武器を手に入れた私は、攻勢に出ることにした。ヤツに向かって一歩踏み出し、

「あなたがレオナね。男のフリして、ケイタと何をするつもりだったの」

 レオナは自分の名前と性別が初対面相手に看破されたことに驚いたのか、目を一度大きく見開くと、ケイタを呼び出し、首を傾げながら、このコ何者? と問いかけた。やはり直感は当たっていたのだ。気まずそうにしていたケイタはそわそわしながらやってくると、わたしとも彼女ともない方向を見て、家庭教師で担当している生徒だ、という意味の言葉を答えた。

「こんな時間にここで女性と出会っているなんてことがもし父にバレたら、なんて言われるでしょうね。ケイタ」

 ケイタには失望した。生殖能力を持った者が異性と交際することは重罪だ。まさかこんな危険な行為をケイタがしているなんて。彼のことを「同類」だと思った直感は違っていたらしい。

 ケイタは後ずさりをすると、居ても立ってもいられなくなったのか、そのまま逃げ去ってしまった。——まさかここまで根性無しだとは思っていなかったので、二重に失望した。

 残されたわたしとレオナは、膜が張ったような気まずい空気を共有しながら、話題を探った。

「ケイタって、あなたの客だった?」

 レオナは煙草をポケットから取り出すと火を点けた。

「えぇ、あなたのせいで逃げられちゃったけど」

 思わず眉をひそめる。この女は自分の職業をバカ正直に答えた。届け出をしていない者が異性相手の客商売をしていたら、見つかったら即、豚箱行きだ。そしてこいつは恐らく、そんな手続きはしていない。

「やけに正直ね。わたしが通報するとは思わないの」

「アンタは通報しないよ」

 確信めいた言葉をレオナはわたしにぶつけると、一度大きく息を吐いた。気怠げな甘く重い空気が辺りに満ち、多幸感に包まれる。これは普通の煙草じゃない。いったい何を吸っているんだろう。

 どうして、と尋ねようとしたところに、レオナが振り向きざまにわたしの首筋に手を伸ばす。レオナの冷たい手が首に触れると、意識までつかまれたかのように身体が硬直する。耳元にレオナの息がかかる。背筋が震える。

「だってアンタ、わたしと同類だもの」

 耳元で囁かれたその言葉は、わたしの中をかき回し、体温を上昇させる。

 わたしがレオナを直感的に女だと看破したように、この女もわたしの特殊性に気がついていた。

「あんたのその目、好きだよ」

 レオナはそう言うと、首筋にあてていた手をわたしの身体を撫でるように移動させ、手に絡ませてきた。レオナの息がくすぐったい。その間わたしは何もできず、されるがままだった。

 わたしはレオナの手を握り返すと、レオナの胸に顔を埋めた。煙の匂いに混じったレオナの香りがわたしを満たす。その匂いは、これまでにあった女の誰よりも母性に溢れていて、まるで底なし沼のようにわたしを包み込んだ。

 自分でも、初対面の相手にここまで気を許せるとは思っていなかった。もう完全にレオナにアテられてしまっていた。抜け出せるはずがなかった。

「アンタじゃなくて、リンって呼んで」

 胸に顔を押し付けたまま呟くと、レオナはわたしの頭をそっと抱き、リン、と囁いた。

 その瞬間だけは、まわりの世界から二人だけが切り取られたように、時間が止まっていた。

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