第1話

 ここじゃない何処かに行きたい。


 そう願うようになったのは一体いつからだろうか。

 わたしは、物心ついたころから恋愛に憧れていた。

 映画やドラマ、マンガで見る恋愛は、どれもロマンチックで、きらめいていた。それらが同性愛を推奨するためのプロパガンダだということは理解していたが、それでも、人々の一生という儚さが生む、人生という物語の花火を美しく感じた。

 だが現実は違う。人々は永遠の若さを手に入れた結果、異性を二分間憎悪し、ただ快楽の赴くままに同性の他人と出会い、セックスを繰り返す。そこに愛や物語はなく、ただ他人を用いた自慰だけが蔓延していた。

 そんな奴らと仮初めの恋愛なんてできない。頼まれても願い下げだ。この身体を、ただ他人の欲望のはけ口として使わせるなんて。

「リンさん、今日の勉強のお時間です」

 自室で本を読んでいたら、ドア越しに家庭教師の声が響いてきた。そうだった、今日は勉強を教わる日だった。鍵を開け、彼を部屋に入れる。

「今日は数学だったかしら、ケイタ」

「いえ、生物です」

 やたら格式張った振る舞いをしてカバンを床に置き、即座に答える。外は雨だったらしく、湿気った臭いが部屋に漂う。

「生物なら、ケイタの得意分野ね」

 ケイタはわたしの家庭教師だ。彼の父親は研究者らしく、ケイタも同じく研究者を目指している。わたしたちは当人の父親同士が知り合いということもあり、幼い頃から顔を合わせていた。最近はわたしの父がケイタに頼み込む形でわたしの家庭教師をしてもらっている。この世界で父に頼み事をされて断れる人物はそうそういない。

 わたしの父は不老不死技術の研究者だ。

 ベニクラゲというクラゲがいる。

 このクラゲは、不思議な事に自然な状態で不老不死らしい。普通の生物はテロメアの減少によって寿命を迎えるが、このクラゲはそのテロメアを修復する能力を持っている。もちろんクラゲなので他の生物に食べられたりはするので死の危険はそこら中にあるのだが、中には何億年も生きるクラゲもいるらしい。

 父はこのベニクラゲを研究した結果、細胞分裂によるテロメアの減少を止める理論を提唱した。学会では永らく爪弾き者にされていたが、突然単著で不老不死技術の元となる理論を発表し、それが認められたことで、掌を返したように崇められる存在となった。開発にあたっては、シリコンバレーで成功を収め、後にニュージーランドに移住した起業家に莫大な資金を援助されたらしい。

 そんな不老不死技術の開発により、日本は高度経済成長期以来の進歩を見せた。それまで日本は少子高齢化社会で、どの国からも「もう終わった国」だと思われていた。実際そう思って海外逃亡する日本人も多かった。

 しかし、不老不死技術により、老いた人間でも若返って生産活動ができたり、技術を海外に輸出できるようになったことで、日本は活気を取り戻した。

 だが、そこに一つ大きな問題が起きた。

 それは、当たり前過ぎてみんな考えないようにしていた問題。


 人口が増えすぎたのだ。


 さっき挙げたベニクラゲは、食物連鎖に置いて下位の存在だ。当然上位の捕食者に食べられることによって個体数は減少する。


——でも、ヒトなら。


 ヒトを食べる動物は多少いるかも知れないが、一応ヒトは食物連鎖のトップと言っていい存在だ。ヒトの個体数が減少するのは、殺人や自殺や事故が原因——つまり人間を殺すのは、常に人間だ。他人に殺されるか、自分に殺されるか。

 人間が人間を殺す一番派手で盛大なシチュエーションは、やはり戦争だろう。

 でも、日本が戦争の標的になることもなかった。

 せっかく不老不死技術が開発されたのに、兵士に死にに行けと命令できるような国のトップは存在しなかった。それに、どの国も日本にすり寄って、技術を提供してもらうことを望んだ。簡単なゲーム理論だ。敵対するより、協力した方が合理的。

 そんな平和な美しい国日本では、どんどんヒトが増え続け、ロジスティック方程式による人口数理モデルにおける環境収容力が存在しないんじゃないかという具合に、ヒトの数は指数的に増えていった。

 しかし、長い間何も対策は打たれず、問題は先送りにされ続けた。そこには不老不死技術コンツェルンとの癒着もあったとかなかったとか。


 この国が得意とする遅すぎる意思決定の結果、ようやく苦肉の策としてある法案が提出された。

——出生禁止法

 それは、国民に与えられた限りあるリソースを有効に使うため、新たなヒトを産むことを禁止する法案だった。犯した者は、両親とも見つかり次第極刑となる重罪だ。

 もちろん反対する者は多かった。文化に対する反逆だ、とか、生物としておかしい、とか。

 でもそんな意見は、資本に対して無力だった。

 それまで人間を産み育てることが善であったのは、それがこの資本主義社会にとって都合がいい価値観だったからだ。全でなくとも善だった。その価値観が、新たな人間を産まないことが善だということに、法律によって暴力的に書き換えられた。

 法案が可決されてからというもの、文化は脆いものだった。

 不老不死を強制する国に反発する芸術家や文化人は多かった。しかし、その誰もが消息を絶ったり、謎の死を迎えた。

 結局、文化というものはどこまで行っても、人々の行動パターンでしかない。暴力的に人を縛る法は、暴力的に文化を縛った。

——それは芸術の死を意味した。

 人の死・老・病・苦がないところに芸術が存在するだろうか。

 わたしの見た限りでは、人の死を直感できなくなった人々が生み出すゲイジュツなんて、前時代の人々が生み出したものの足元にも及ばなかった。


 こうして、日本は一つの大きな鳥かごになった。いや、むしろ、日本から出ること——肉体的に、魂的に——は許されていたので、日本以外全部鳥かご、と言った方が正解かもしれない。でも、内と外なんて双対的なものだし、日本が鳥かご、と言っても間違いじゃないはずだ。

 不老不死が実現しても、不運な人は死ぬ。それは殺人鬼に襲われることだったり、現代医療でも助からないほどの大事故に合ってしまうことだったりする。だけどそんなケースはレア中のレア。よくありがちな不運のパターンは、自殺だ。銃が規制されている日本でポピュラーなのは、今も昔も変わらず首吊り。

 この栄光に輝く世界で死を選ぶなんて、一般人からすればバグ以外の何物でもないし、実際、生者に対する冒涜だとしてハエのように忌み嫌われる。どうしようもなく救いようのない行動。

 そうしてこの世界にぽっかり空いた穴を埋めるように、わたしたち特権階級のコドモが生まれてきた。


 これが、わたしが生まれるまでの歴史。


 そんな鳥かごのような世界の中で、わたしは唯一、扉を開くことが許されていた——それはつまり、特例で出産が許可されていたのだ。偉大な父のもとに生まれたわたしは、特別扱いを受けていた。

 でも、特権階級のコドモと言っても、徹底的に管理されることを思えば一般人以上に鳥かごの中の鳥だった。

 それがこの、ケイタとわたしの、家庭教師と生徒という関係に如実に現れている。

 父はケイタとわたしを結婚させるつもりなのだ。父も孫の顔は見たいらしく、こうしてケイタに家庭教師をさせることで二人の仲を近づけさせようという魂胆なのだろう。

 だが、わたしは男性との恋愛にあまり興味がない。いや、興味がないというよりかは、ピンとこない。それが生得的なものなのか、昔からガールズラブもののサブカルチャーに親しんできたからなのかはわからない。

 この事実を父は知らない。

 ケイタのことは一般的な意味で言えば好きだ。少なくとも嫌いではない。でも、昔からよく一緒にいるせいで、彼のことを特別な相手だとは、どうしても思えない。

 ケイタの方はというと、恐らくわたしと結婚したがっていると思う。父の義理息子ともなれば、世界の半分を手に入れたようなものだ。ケイタが父に気に入られようという下心を持っているのが、父と話す時などの素振りからわからないほど、わたしの目は節穴ではない。ただ、父との関係を良くしようという人間はあまりにも多く見てきたので、そういう人間に対して殊更下衆い奴らだな、みたいな感情を持つこともない。わたしだって彼らの立場だったら父と仲良くしておいても損ではないな、くらいには思うだろう。わたしから見ると、ケイタもわたし個人に対しては特別な好意を持っているようには見えなかった。そもそも彼が女性に興味があるのかも謎だ。わたしと「同類」かもしれない。

 こうした微妙な関係の中でわたしはケイタから勉強を教わっているのだが、勉強自体が嫌いなわけではない。勉強はこの世界のことをより良く知ることができる術の一つだ。退屈な日常の暇つぶしにもなる。

 ケイタにとってもこの家庭教師の仕事はそんなに酷な仕事ではないはずだ。彼の業務は、わたしに勉強範囲を指示し、たまに質問を受ける、といった程度だ。その間ケイタは研究のための論文を読んでいたり、お茶を入れてきてくれたりする。

「コーヒーどうぞ。砂糖とミルクはなしで大丈夫でしたよね」

 ケイタはわたしの机にコーヒーを置くと、いつものように椅子に座って、優雅に論文を読み始めた。組んだ脚の先には、ブランド物の刺繍が入った紺色のソックスを履いている。

 コーヒーを飲みながらケイタを眺める。改めて観察すると、ケイタの容姿はそんなに悪くないと思う。今は地味な格好をしているが、流行りの服を着て髪を整えたりすれば、時代が時代なら女にチヤホヤされていただろう。身長も高いし。論文を読む姿は絵になっている。

 そんなケイタを少しからかいたくなって、ちょっかいを出してみた。


「そういえばiPS細胞というので同性の間でもコドモができるらしいですね」


 ケイタは少し考えて、

「あぁ、iPS細胞で精子も卵子も作れますからね。昔は特に女性同士だとY染色体がないから難しかったんですが、今ならどっちの性同士でも、技術的には可能でしょうね」

 そう答えた後、眉をひそめ、でもそれがどうしたんです? と尋ねる。

——iPS細胞

 父と並び称されている日本人の研究者が、昔ノーベル賞を受賞した細胞。万能細胞と呼ばれ、国を挙げて研究が進められた細胞。

「もしかして、女性に好きな人でもいらっしゃるんですか」

 ケイタがストレートに聞いてくる。こういう、無駄な気を遣わないで聞いてきてくれるところは気に入っている。もしかすると、わたしが誰かに取られやしないかと気が気でないのかもしれない。

「せっかくなら相手は選びたいじゃない?」

 にっこり笑って振り返ると、彼はわたしの意味深な言葉に眉をひそめたが、年下の女にからかわれたが癪に障ったのか、頬を指でかいていた。

 居心地が少し悪くなったようで、トイレお借りします、といったん部屋を退室していった。ここまで反応が良いと、からかい甲斐もあるというものだ。

 わたしには、友人と呼べるような人はいない。みんな、わたしというレンズを通して、父ばかり見ているから。だから、わたしの友人は物語の中にいる。

 ケイタのことも友人だと思ったことはない。

 もし、わたしが父の娘として生まれていなければ、ケイタと友人になれただろうか。

——ケイタと一緒に学校に通う自分を想像する。

 昔はわたしと同じような年齢の人間は、学校というところに通って、同じようなコドモと一緒に勉強をしていたらしい。

 当然、新たな人間が生まれない以上、今や学校という教育機関は存在しない。学問は人間の能力を測るためのテスターとしての役目を終え、一部の人間の純粋な興味を満たすための趣味に成り代わっていた。学問の歴史的経緯を見れば、太古に先祖返りしたとも言える。ケイタがその時代に生きていたら、教師でもしていそうだ。権威的な志向のあるケイタにぴったりだろう。

 現代はそんな教師もほぼ絶滅した。個人で運営している塾や、同じ興味をもつ者が集まる勉強会などは、存在するが少ない。

 その分研究機関はたくさんできて、有り余る時間を真理の追究に注いでいる。学者たちにとっては理想の環境なのかもしれない。


 ブーッブーッ

 勉強の見張りがいなくなって気が緩んでいたところに、突然ケイタのカバンからバイブ音が鳴り響き、驚くと同時に、興味をそそられる。

 ちょうど今ケイタは部屋を出たばかりだ。男性のトイレは速いが、少しくらい見てもバレないだろう。それに緊急の事態だったら大変かもしれないし、と誰にでもなく言い訳してデバイスを探す。ケイタがいつ帰ってくるか、というスリルがたまらない。

 デバイスには「レオナ」という人物からの、待ち合わせ時間を告げる通知が表示されていた。

 誰だろう。

 まずこのレオナとは男性なのか女性なのか。さすがにロック解除はできないので、疑問に思いつつも、元あった場所にデバイスを戻し、机に戻る。

 画面に表示されていた待ち合わせ時間は、この勉強時間が終わったすぐ後だ。こっそり後をつけてみるのも面白いかもしれない。頭の中では、さっき聴いたバイブ音が高揚感を煽るように反芻されていた。


 それが、同時にわたしの未来に黄色信号を点滅させていたということに、このときは気がついていなかった。

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