爛漫
数日が経つと、片田舎の豪邸で暮らすことにもいささか慣れてきた。相続した財産の管理はほとんどが書類仕事で、目を通して署名をするだけのものだった。金額が金額なだけあって、厳めしい文面がずらずらと並んでいるが、その内容を頭に流し込むのには慣れている。
そして、意外なことのひとつ目として、タイプライターが思いの外役に立った。
殆ど気紛れで、職場で使っていた物を買い取って持ってきており、最初はらしくない未練だと自分でも呆れたものだが、偶に発生する事務仕事、特に古くなった証書を作り直すときなど、大いに力を発揮した。勿論、今扱える財産があれば新しいタイプライターなどいくらでも買えるのだが、いつの間にやら世間ではどんどん改良が進んでいたらしく、改行レバーがなかったり、タイプの仕方が違ったり、便利にはなっているのだが、手に馴染んだものの方が使いやすくて、何となくそのままにしていた。
さらにふたつ目として、亡き親類の娘は何故か、自分によく懐いた。
「ほら、見て! スミレがいっぱい咲いていたのよ」
帰ってくるなり書斎に駆け込んで、少女は満面の笑みで野草を見せびらかしてきた。何と言ったらいいかわからなくて、ああ、とか、うん、とか言い淀んでいる間に、他のことに興味が移ったのか、大声を上げながら走り去っていった。まるで嵐のようだ。
「旦那様……いえ、前の旦那様と、どこか似ているのかもしれませんね」
老メイドはそう言っていた。父親の生前も、少女はメイドに全く懐かず、時折やってくる同世代の少年少女にも興味を示さず、ずっと父親に甘えていたのだという。一度会ったっきりだし、あまり覚えてはいないが、顔も、背格好もだいぶ違うし、何より威厳が足りないと思うのだが、少女からすれば些末な差異なのかもしれない。
母親を早くに亡くしたというし、父親が手ずから勉強を教えるくらいに愛情を注いだというから、父親に懐くのも、甘えるのも、無理はないのかもしれない。しかし、その代わりとして自分へ好意を向けられることには、どこか虚しさというか、空恐ろしさというか、危うさのようなものがあると思った。
さらに時間が経つにつれて、それがだんだんとはっきりしてきた。初めこそどう接してやればいいのか、何と答えてあげればいいのか悩んでいたものの、それは取り越し苦労だと、否、もっと根の深い問題だとわかった。
少女は、自分に反応を求めていなかった。あるいは、自分を見ているようでいて、その視線は自分という肉体を素通りして、そこへ仮託した父親の姿へと向けられていた。自分が何と言おうと、何をしようと、少女にはまるで関係がなかった。少女は彼女の中にある父親へと話しかけ、彼女の中にある父親から返事を貰っているのだ。自分という存在は、あくまで依り代というか、父との対話という、ある種の儀式を行う上での窓口に過ぎないのだった。
しかし、そんな少女も、自分の言葉を全く聞かないつもりはないらしかった。少女は自分が屋敷に来たことを知るや、書斎で寝たいと言い始めた。老メイドに聞けば、子ども用の寝室はちゃんとあるのだが、娘が寂しがるからと父親が書斎に簡素なベッドを置いていて、少女はそこで眠り、仕事を片付けた父親がベッドまで運んでいたのだという。相当な溺愛ぶりだ。
しかし、通り一遍の書類仕事ならともかく、種々の引き継ぎに集中したい自分としては、作業中に喧しく話しかけられるのは勘弁して欲しかった。悩んだ末に、しばらく忙しいから、我慢してひとりで寝てくれないかとお願いしたら、しぶしぶ了承してくれた。その分、他では手の付けられないほどの腕白ぶりだったが、真摯に頼み込めば、聞き分けが悪いわけではなかった。
一ヶ月が経ち、書類の整理や不動産収入の試算も概ね終わって、現状維持で生活していくに足る収入が確保できていることがわかった。亡き親類も相当に几帳面だったようだし、別に経理を雇って試算させてはいたそうだが、自分で検めて、安堵した。
これ以降は、ちょっとした契約更新や、月ごとの家賃を確認していれば充分だ。大量の書類に忙殺されていたあの頃でさえ、目を瞑ってでもできたのだから、こんなに楽な仕事はない。それで入ってくる金額は倍どころか桁が違うのだから、悲嘆を通り越していっそ呆れてしまう。
そしてそれは、少女へ向きあう時間が取れるようになったという意味でもある。上手くやれる自信はないが、それはそれ。ここまでの恩を受け取った以上、果たさねばならないことだった。資産管理はあくまでも、後見人たる自分が生活できるようにするための頼みであって、まず憂慮したのは娘のことだろうからだ。
ここのところ構ってもらえずに鬱憤が溜まったのか、少女のやんちゃぶりは目に余るものがあった。外へ出かけたかと思えば、泥だらけになって帰ってくる。雨で出かけられないとなれば、屋敷の中を走り回る。とにかくじっとしていることがなくて、また、頭痛のするような大声を上げることも多かった。メイドは危険を察知して、花瓶や絵画、白磁の皿など、壊れものの高級品は全て鍵のかかった倉庫にしまい込んだ。自分も書斎への立ち入りは禁じて、部屋にも鍵をかけるようにはしていたが、重要な証書の類は鍵付きの引き出しへ入れる癖をつけた。
一緒に散歩へ行こうと言ったら、いたく喜んだ。少女は野原のあちこちを飛び跳ねて回って、見つけた木の全てにするすると登っては笑い、なるほど、こうやって泥だらけになるのかと妙に感心してしまった。もっとも、メイドにそう話したら、服を洗い、繕う身にもなって欲しいと苦言を呈されてしまったが。しかし、これからきちんと躾けて頂けますかと言い含める姿は、いつもより穏やかに見えた。
次いで、書斎への出入りも許すことにして、簡易ベッドも改めて運び込んだ。念のため、タイプし直した新しい証書についてはその折に複写を作っておき、寝室の金庫へしまっておくことにした。勿論、少女本人にも、大事な書類がいっぱいあるから、触らないようにとよく言い聞かせておいた。
だが、少しばかり油断が過ぎたらしい。それは、ある日突然起こった。
朝起きて、いつものように書斎へ向かう。特に仕事があるわけでもなかったが、一応、毎朝証書を確認することを習慣にしていた。
ただ、その日はやけに書斎の方が騒がしかった。少女の声だ。これだけ早起きしているのも珍しいな、と呑気に思いながら、ともかく日課を消化するべく、書斎まで辿り着いた。
声は、中から聞こえてきた。それで、昨晩鍵をかけ忘れたのだと気がついた。少女を寝室まで運ぶとき、後で戻るつもりだったのが、結局そのまま自室へ引っ込んでしまったのだ。
けれど、ドアを開けるその瞬間まで、全く油断しきっていた。
「あ、おはよう! 見て見て、すごいよ!」
少女は机の上に座り込んで、手も顔も真っ黒にして、笑いかけた。
インクリボンが引き千切られ、染み込んだインクが少女の手といい机の上といい、あちこちを汚していた。改行レバーは折れ、キートップがいくつか弾け飛んでいる。
ガラクタ同然だったタイプライターが、正真正銘のガラクタと成り果てていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます