招待

 くたびれた吸いさしを放って、俺は頭を掻いた。

 鬱陶しい霧の中へ煙を吐き出して、コートに浮いた露を払う。灰も水気も、仕事場では嫌厭されるものだった。そも、自分自身が歓迎されているかも怪しかろうが。吐き出した溜息は、いがらっぽい紫煙の味がする。

 隙間の目立つ煉瓦道を、喧しい音を立てて辻馬車が行き交っている。揃いも揃ってくすんだ茶色をした建物は、みすぼらしい輪郭を霧へと滲ませて、どうにか体裁を繕っている。無精髭に、灰色がかった金髪、裾のほつれかけた服にはあちこちに染みがついている、そんな風体の自分には似つかわしいのだろうが、生憎と趣味ではないし、連日足を運ぶだけで気が滅入ってしまう。

 眉を顰めて、逃れるように路地へと入る。やけに仰々しい閂の付いた戸を前にして立ち止まり、舌打ちをする。相変わらず儲かっている訳でもなかろうに、見てくれだけは随分と立派なものだ。真鍮の装飾が、自分を見下ろしている。

 油っぽいインクの匂い。紙の擦れる音、ガチャガチャと不規則な機械音。既に仕事を始めているのが殆どだが、遅刻を咎めるどころか、視線を寄越す者もない。俯いたまま擦り切れたコートを脱いで、狭苦しいデスクへ向かう。積み上がる書類に視界を埋めると、悲しいかな、少しは集中力が湧いてくる。

 せめてもの抵抗に伸びをして、机の隅に寄せていたそれを、中央へ持ってくる。

 年季の入ったタイプライター。あちこちがインクで黒ずんでいて、キーの印字は殆どが擦れて消えかかっており、改行レバーはガタガタになっている。ガラクタが辛うじて本分を忘れずに動いている、そんなところだ。

 右側に山と積まれているのは速記、まとまりのないメモ書き、あるいは殴り書きの論文、調査リスト、等々。それらを解読して、見易いようにまとめて、タイプするのが我々の仕事だ。この上なく退屈で、非創造的で、薄給で、そのくせ指と腰の痛くなる業務。何もいいことがない。

 初めこそタイプライターの扱いにも不慣れで、文章をまとめ直すのに難儀したものだが、今となっては目を瞑ってでも出来る。そうなると全き精神修行に他ならず、如何に機械的、効率的に手を動かすかという作業でしかない。息を吸って吐くように、文字をなぞって書き出していく。脳裏を巡る文字の羅列、洪水。それに溺れることもなく、ただ意識の表層を滑らせていく。

 気がつけば、右側の紙束は崩されている。嫌いな仕事だが、生憎と苦手なわけではない。書き出した紙をまとめていると、見たくもない仕事場の様子が目に入ってくる。

 眩しいからとカーテンのかかった窓から、色づいた日差しが垣間見える。同僚は少なく、おそらくは外の仕事に出ている。口述筆記やら、秘書の真似事のような業務へ派遣されることも多いのだ。もっとも、それは外面のいい連中の役回りで、胡散臭いなりの自分が任されることはないし、こっちとしても願い下げだ。そうでなくとも、そういった外仕事は女性連中が任されることになっていた。

 そう、肩身が狭いのはそれも理由だ。働き始めるまで露ほども知らなかったが、タイピストという仕事は女性の就ける数少ない職種だそうで、この職場で男はむしろ少数派だ。ああいうのを今風というのだろう、髪も服も小さくまとめた女たちが、細い指でタイプ音を鳴らしている。色目を使う男もいるのだろうが、自分は興味がないし、付き合いづらいだけ損だった。いや、寧ろそう思っているのは向こうの方なのだろう、自分は職場で完全に偏屈の扱いを受けている。もっとも、それを否定する理由は何もない。

 仕事場の片隅、ひとつだけ離された机、城壁のように積み上げた書類の山。欠伸を噛み殺して、帰り支度を始めた。

 遅刻しておいて早く帰るのは何とも不良従業員だが、誰も文句は言わないし、言わせない。内仕事の専任ということもあるが、他の倍は仕事をこなしている。現に、振られた仕事は全て片付けた後だ。爪弾きにされようとも、首にはならない理由だった。

 気付けばすっかり日も暮れて、霧の中、道行く人の掲げる灯りが幽霊のように飛び交っていた。廃墟を指すゴーストタウンなんて言葉があるらしいが、死んだようなこの街並みを形容するに相応しく思える。否、死んでいるのは自分ひとりだけだろう。魂のように彷徨う灯火は、暮れなずむ夕焼けの色をしている。

 下ろしたての頃は水を弾いていたコートに、霧が染みて重くなっていく。足取りは変わらず、ある種の細工仕掛けのように、あるいはタイプをしている時のように、一定のリズムを刻んで家路へとつく。その間、どういう風の吹き回しか、昔のことを思った。

 どうしてこうも退屈で、非創造的で、薄給で、何のいいところもない職に就こうと思ったのか。勿論、実情を知らなかったのもあるが、きっかけは全然別なところにあった。

 文章を書くという行為、特に小説なり記事なりを書くことへ憧れがあった。しかし、既に他界した両親には相応しい教養を与えるだけの余裕がなく、自分は生きるため手に職つける他なかった。そこで、未練があったのだろう。書くことを生業とするタイピストに飛びついた。十年近く前の当時はまだタイプライターそのものの数も、習熟している者も少なく、多少は重宝がられたのだが、ことここに至るという次第だ。

 霧を貼り付けた頬に、水滴が流れる。思えば、ただ書くことと、何かを書くということの違いに、未熟な自分は盲目でいたのだろう。言葉を右から左へ受け流すことに、自分は何の価値も見出せなかった。皮肉なことに適性はあるらしかったが、今の自分は輪転機と何が違うのだろう。確かに、文字は読める。しかし、書くべきことを紡いでいるのは他者であって、自分はただそれを愚直に刷り増しているだけに過ぎない。

 職場よりもさらに狭い一室。取り留めのない思考を巡らしているうちに、家まで着いている。妻子もない身では特にすることがあるわけもなく、後は適当に食事を済ませて寝るだけだ。毎日がいつの間にか終わっている、そんな生活をどれだけ続けているのだろう。どれだけ、続けていくのだろうか。

 普段は顔を出すことがない、胸の奥底で揺蕩う諦念、憂慮。さしたる理由もなしに浮かび上がってきたそれは、あるいは、虫の知らせだったかもしれない。

 上着を脱いでようやく、足元に見慣れぬ何かがあることに気付いた。ドア下の隙間から投げ入れられていた手紙。親が亡くなってからというもの、何年も来ていなかったそれは、仕事場ですら見たこともないほど小綺麗だった。

 人違いではないかと訝しむが、宛名にはっきりと自分の名が記されている。差出人には覚えがないが、しかし、苗字が同じなあたり親戚かもしれない。散らかった机を漁ってペーパーナイフを見つけると、恐る恐る封を切った。

 端正な便箋、書面。職業柄、素早く視線を走らせる。しかし、二度、三度読んでも、その意味が腑に落ちない。言葉だけが上滑りして、この世の出来事と思えなかった。

 しかし、ひとつだけ理解する。

 これは自分の人生を変える。それだけは、覆らない事実だった。

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