たとえすべてを忘れても
暁烏雫月
忘れたくないことがある
目の前にあるのは、変わり果てた連れの姿でした。出会った当時の面影が消えて、一緒に暮らしていた時とはまるで別人になっていました。あまりにびっくりして腰を抜かしそうになったくらいです。
連れは背もたれ付きの車椅子に乗っていました。髪は少し見ぬ間に真っ白になり、誰も何も話していないのにケタケタと笑っています。そして俺の方を指して言うのです。
「あなた、だぁれ?」
連れの記憶は壊れてしまいました。僕を見ても誰かわからないほどに。可愛がっていた孫娘のこともわからないほどに。そして、一生懸命世話していた飼い猫の姿もわからないほどに。
俺も人のことは言えないけれど、連れほど酷くありません。たまに正気に戻る時があります。俺は俺自身がおかしくなっていることを自覚しています。だけど連れは、自分がおかしくなっていることにさえ気付かないようなのです。
連れが頭の病気で倒れて入院したのは何ヶ月も前のこと、らしいです。気がついたら連れは歩けなくなって、まともな会話も出来なくなって、短期間で俺よりもボケてしまいました。
「誰って俺は……」
言いかけて、言葉に詰まりました。俺は連れの何だったのでしょう。子供達に父親らしいこともせず、連れには迷惑をかけました。そんな俺に名乗る資格などあるのでしょうか。俺ですら俺の事がわからないというのに、何を言えばいいのでしょう。
俺も時折自分が誰だかわからなくなります。孫娘のことも息子と娘のことも、息子の嫁のことも娘の婿のこともわからなくなります。それでも連れのことだけは忘れたことがありません。どんな存在かもわからないのに、連れのことだけはどんなにおかしくなっても頭から離れないのです。
連れは俺のなんなのでしょう。お前、あんた、母さん……きちんと名前で呼んだことなんて数える程しかなくて。ボケ始めた今となってはもう、連れの名前すら思い出せません。
「俺は……だーれだったかな?」
「もう、しっかりしてよお父さん。ほら、お母さんだよ? お母さんに会いに来たかったんでしょ?」
わからないなりに曖昧に返事をすれば、すかさず近くにいた娘が呼びかけます。そりゃ連れが母さんなのはわかります。わかるけど、名前がわからないんです。母さんでもばあさんでもなくて、どんな関係だったのかがわからないんです。
連れが大切な人だったことは覚えてます。昔連れと交わした約束も。だけど、それ以外のことはわかりません。連れの名前も、俺が今どこにいるのかも、俺が誰なのかも、何もかもわからないのです。わかるのは一つだけ。
どうしても連れに会いたかった、それだけなのです。
俺の覚えている連れは黒髪でした。黒いおかっぱ頭で分厚い丸メガネをかけている、素敵な女性でした。いつだって後ろ向きだけど決してめげることのない、強い女性でした。
初めて会ったのは、戦後の混乱が少し落ち着き始めた頃のお見合いです。当時お見合いは当たり前で、俺と連れもそんな当時の流れに倣ってお見合いという形から交際が始まったのです。
約束をかわしたのは連れと同じ家で一晩を共にした時でした。あの時のことは鮮明に覚えています。連れのこの世の人とは思えない綺麗な姿も、当時話したことも不思議なくらい覚えているのです。孫娘のことすらわからなくなった今でも、約束したことだけははっきりと覚えています。
俺と連れの間にはそれなりに年齢差があります。もう何歳差だったかはわかりませんが、連れが女学生だった時に俺は兵士として戦地に赴いていました。だからきっと五歳くらいは違うはずです。
『俺はお前を遺して死んだりしない。死ぬなら、お前を看取ってからその後を追う。約束だ』
連れの名前はなかなか口に出来ませんでした。名前を呼ぶのが恥ずかしくて、どうしても「お前」や「あんた」といった単語が出てきてしまうのです。今となってはこの時に名前を呼んでおけばよかったと後悔しています。
上手く言葉には出来ないけれど、連れだけは誰よりも大切でした。子供達が産まれてもやっぱり連れが一番で。と言っても、大切だったことはわかるのにどうして大切だったのかはわからないのですが。
連れに会いたくて、娘に会わせるようにと頼みました。けれどどうして会いたかったのかはわかりません。一緒に暮らしていたことも子供達がいたこともわかります。だけどやっぱり、連れに対して抱いているこの感情の正体がわからないのです。
「あれだ。俺とあんたは……一緒にいたんだよ」
ようやく口に出したのは、なんともつまらない気の利かない返事でした。他に言葉が浮かびません。俺の答えに娘が可笑しそうにお腹を抱えて笑います。何かおかしいことを言ったでしょうか。俺には何がおかしいのか、わかりません。
連れは老人ホームという建物に住んでいます。娘が言うには一緒に暮らせないそうです。何年か前に頭の病気で倒れてから一気にボケてしまい、今じゃ俺より記憶が壊れています。
何回か会いに来ましたが、会う度に連れの体が細くなっている気がします。指はもちろん、顔も足も。体も小さくなって前より動かなくなった気がします。けれど俺も人の事は言えません。
昔よりわからないことが増えました。出来ないことも増えて、娘無しでは生きられません。頭の中に消しゴムがあって、俺の記憶を消せるものから順に消しているようです。
近頃、杖なしで歩けなくなりました。一度寝てしまうと起き上がるのに時間がかかります。体が思うように動きません。日中でも眠くなって、寝て起きるとわからないことが増えています。俺ももう限界が近いようです。
まだ、寝たきりにはなれません。まだ、車椅子に乗るわけにはいきません。連れの前では元気に立って歩いている姿を見せたいのです。人の顔すら見分けられない連れだけれど、それでも連れの中ではいつまでも元気な人でありたいのです。
連れが死ぬまでは。連れの死を確認するまでは。何があっても死ぬわけにはいきません。昔、約束しましたから。連れが忘れても俺が覚えています。記憶の壊れた連れ一人遺して先に逝くなんてこと、出来るはずがありません。
「ふっふっふっふっふ」
何がおかしいわけでもないのに連れが笑い始めます。おかしくなってから、連れは何も無い時に笑うことが増えました。会話が通じることなんて数える程しかありません。俺に至ってはせっかく通じた会話で何を話したかも覚えていませんが。
名前も関係も思い出せないけれど。今朝何を食べたのかも俺自身のことさえもわからなくなるけれど。それでも俺は、連れとかつてかわした約束だけは覚えています。
「あなた、だぁれ?」
「お母さん、この人はお父さんだよ。私はお母さんの娘。わかる?」
連れがさっきと同じ質問をします。何を聞いたのかも、なんて答えてもらったのかも覚えてないのでしょう。娘が少しイライラした様子で声を返しました。
連れはまだ、覚えているでしょうか。俺とかわした約束を覚えているでしょうか。あの約束はまだ有効でしょうか。俺は覚えてます、誰よりもはっきりと。
(お前が死ぬまでは、どんなに頭が空っぽになっても立って歩き続けるつもりだ)
連れや娘の前では恥ずかしくて言えない言葉は、そっと胸の内に隠しました。きっと俺が死ぬ時に、頭の中にある消しゴムが綺麗さっぱり無かったことにしてくれるはずです。
連れが動けなくなって何度春を迎えたでしょう。寒さも暑さも分からなくなりました。毎日ぼーっとしているとすぐに夜になってしまいます。俺の知らない時間が増えて、知らない間に色々なことをしているようです。
ある時は本棚が大移動をしていました。ある時は服を間違えて着ていました。ある時はご飯を食べたことを忘れ、ある時は娘に声を荒らげたことを忘れ。俺もついに連れのことを言えなくなってしまったようです。
そんなある日のこと。俺は我が家のリビングで娘と一緒にいました。のんびりテレビで時代劇を観ていると、娘が少し焦った様子で近付いてきました。
「お父さん。お母さん、今から病院行くってよ」
「そうだなぁ」
「今度はもう、乗り越えられないかもしれないねぇ」
「……そうだなぁ」
「って、言ってもわかんないよねぇ。お父さんもボケちゃってるもんねぇ」
ボケていても分かることがあります。失ってから気付くことがあります。私にとってそれは、連れの存在でした。連れとの関係と連れに抱いていた気持ちの正体を失いました。
知っています。娘が時折息子や息子の嫁と話していることを。孫娘には知らせないように、今後のことを相談しているのを聞きました。会話の意味はほとんどわかりませんでしたが、一つだけわかることがありました。それは、連れはもう先が長くないという現実でした。
「お父さんも気をつけてよ? なーんて、立って歩いていることすら奇跡なんて言われるくらいだし、もうなーんにもわかんないか」
俺の頭は本当に空っぽです。萎縮とかいうのが進んでいて、いつ歩けなくなってもおかしくないそうです。それでもこうして杖を使ってでも歩けているのは、連れより先に死ぬわけにはいかないから、なのでしょうか。
(俺はまだ歩けるから。立ってお前に会いに行けるから。お前が死ぬのを見届けてから後を追うから。だから安心して、空の上で俺を待っていてくれよ。もうこれ以上頑張らなくていいんだよ)
心の中ではいつだって連れに呼びかけています。この声が聞こえることも連れの心に届くこともないと知っているのに、呼びかけずにはいられません。
嬉しい時も悲しい時も、俺の思うありとあらゆることを連れと共有したいのです。昔は出来なかったから。本当はもっと前からこうして、連れの前で素直でいたかった。後悔したところでもう遅いですが。
今日は頭がやけにぼんやりします。夢でも見ているのでしょうか。見慣れたリビングに、車椅子に座っていない連れの姿を見つけました。黒く染めた髪にピンと伸びた背筋は、とても今の連れからは考えられません。
「雄作さん、雄作さん」
聞き間違いでしょうか。いるはずのない連れが俺に向けて呼びかけます。でも、雄作というのは誰の名前でしょうか。連れが本当に好きだった人、なのでしょうか。
「お父さん。おじいちゃん。私ですよ」
連れが俺の手を取って優しく笑います。見慣れた分厚いメガネは今日も顔に乗っていました。しわくちゃになった手も顔も、こうして会話出来ることも、懐かしい。一体いつ以来でしょうか。連れの姿に昔を思い出します。
連れは俺といて幸せだったのでしょうか。俺以外の人と一緒にいた方がよかったのではないでしょうか。どうして連れは俺と一緒にいてくれたのでしょう。そんな小さなことさえ、今となっては後悔のネタになります。
「お前、どうしてここに……」
目の前にいる連れが信じられなくて声を出せば、連れがふふふと柔らかく笑いました。
「私は幸せでしたよ。娘と息子に会えて、二人共結婚して、たった一人の孫にも会えて。孫の結婚式に出られないことだけは残念ですが」
連れが俺といて幸せだったはずがありません。俺はひどいことをしてきましたから。家庭より仕事優先で、時には感情に任せてテーブルをひっくり返したこともありました。きっと子供達にとっても良い父親ではなかったでしょう。
孫娘が産まれてからは連れから孫娘のことを聞くことが増えましたっけ。なかなか珍しい人生を辿る子で、連れはいつだって心配していました。
次こそは平凡でいいから平和な生活が送れるように。夢が叶うように。笑って暮らせますように。そしていつか、孫娘の成人式と結婚式に参加出来ますように。そんなことばかりを願っていたこと、今でも覚えています。
「あの子ももう、大丈夫。雄作さんも、まだこっちに来ちゃダメよ。約束したじゃないの。雄作さんがいるべき場所はここじゃないでしょう?」
連れが俺の手を引いて玄関へと向かいます。引き戸を開ければ眩い白い光に包まれた世界が広がっていました。連れは俺の背中を押して光の中へと導きます。とっさに振り返れば、連れは玄関で小さく手を振って笑っていました。
「ここで待ってます。だから、たっくさんの土産話を持ってきてください」
最後に聞こえた連れの声は何故か涙声で。さっきまでいたはずの我が家は少しずつボヤけていきます。連れの姿も我が家も、メガネを外した時のように輪郭が定まらなくなってからふと、思い出しました。
「孝子! 待つんだ、孝子!」
ようやく思い出しました。雄作は俺の名前で、連れの名前は孝子で。そして俺と孝子は、夫婦だったのです。頭の中がようやくスッキリしたかと思うと、視界が真っ白になりました。
目が覚めるとそこは病院のベッドでした。近くでは介護に疲れた娘が寝ています。どうやら俺はどういうわけか病院で一夜を過ごしたようです。
「おい。孝子はどこだ?」
俺が問いかけると、娘が目を真っ赤にしてこちらを見てきました。俺の顔を見ると泣きながらも笑顔を作りました。
「置いてかれちゃったね、お父さん」
置いてかれたんじゃありません。先に行って待っているのです。連れを遺すことはしなかった。約束は果たしましたよ。あとは、土産話だけです。
どうしてでしょう。悲しいとも嬉しいとも思わないのに、頬を涙が伝います。娘は俺の涙を拭うと、俺を抱き寄せて泣き始めてしまいました。どんな人かもどんな関係かもわからないけれど、どうしてかこぼれ落ちる涙を止めることが出来ませんでした。
たとえすべてを忘れても 暁烏雫月 @ciel2121
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます