第5話

「あの、会うの、やめませんか」


 勇気を出して言った言葉は笑えるほどに震えていた。彼の反応が怖くて目を逸らす。須藤さんは一つため息を吐いた。小さく、まるで面倒なことになったと言われているみたいに。きっと私には聞こえないと思っていたのだろうけれど、耳に全神経を集中させていた私にはしっかり聞こえていた。


「どうして?もしこの前のことを気にしているなら……」

「違います!」


 この前のこと。きっと須藤さんは居酒屋で綺麗な人と一緒にいるところに鉢合わせした時のことを言っているのだろう。確かに、それもある。でも違うのだ。


『どうしても三枝に幸せになってほしいんだねぇ』


 課長の言葉が脳裏に蘇る。高杉にも悪いことしちゃったし。この人と一緒にいても幸せになれないことなんて始めからわかっていたのに、私はきっと酔っていたのだ。不倫という大人の関係に溺れる自分に。


「私、幸せになりたいんです」

「……俺といても、なれない?」


 揺れそうになるのはまだ未練があるから。一度目を瞑ってもう一度開ける。須藤さんの優しくて温かい目が好きだった。


「ごめんなさい。帰ります」


 最後に笑顔を見せることができて、よかった。


***


「三枝ー、ちょっと部長に色仕掛けしてタブレットにしようって言ってきてよ」

「無理です。課長、そんなことよりさっきの話って」

「うんほんとほんと」

「そう、ですか……」

「うん、忙しくなると思うけど頑張ってね」

「はい!」


 課長に呼び出されて言われたこと、それは高杉と共に企画部に行き大きなプロジェクトに関わることだった。そこでの働き具合により今後の配属先が決まるそうだ。どうして私に話が来たのかわからないけれど、やるからには必死でやりたい。ちょうど彼とも別れた。仕事に打ち込めるならタイミングもいい。

 荷物を整理して企画部に向かった。部屋にいる人の目が一斉に私に向く。ざわざわとする部屋に何か違和感を感じたけれど、異動してきたのだから仕方ないかと気にしないようにした。既に来ていた高杉が隣のデスクを指差していた。


「遅かったな」

「うん、さっき聞いたから」

「あの人……」


 高杉は課長に呆れているらしい。荷解きをしていると、後ろを誰かが通った。


「ビッチ……」


 ポツリと呟かれた言葉に慌てて振り向くけれど、そこにはもう誰もいなかった。


「どうかしたか」


 高杉には聞こえていなかったらしい。私は慌てて首を横に振った。

 しばらくして、全体会議があるということで高杉と二人会議室に入った。


「あ、三枝さんだっけ?全員にお茶よろしく」

「あの、三枝もこのプロジェクトのメンバーで……」

「いいよ、高杉!やります」


 今回のプロジェクトの責任者である企画部長の偉そうな言い方に高杉が言い返そうとしたけれど、ここで高杉まで目を付けられたら大変なことになる。私は高杉を制して急いで立ち上がった。

 企画部に来てから何となく感じていた違和感。私はその直後理由に気付く。


「あっ、ありがとうございます!」


 棚の上にあるお茶っ葉を取ろうとして届かなかった手の上。後ろから伸びてきた手がそれを取って、慌てて振り向いた。


「どういたしまして」


 そう言って微笑む須藤さんに、背筋が凍り冷や汗が背中を流れる。どうして、ここに、須藤さんが。一瞬ざわざわと会議室が揺れた。……まさか。まさかまさかまさか。


「二社合同プロジェクト、責任者の須藤純也です。よろしく」


 手をぎゅっと握っても、震える手は止まらなかった。


***


「どういう、ことですか」


 その日の夜、私はいつものホテルにいた。もうここに来るつもりなんてなかったのに。けれど話を聞かなければならないと思った。絶対に、今回の異動に関わっているのは彼なのだ。


「行きたかったんだろう?企画部に」


 確かにそうだ。私は入社した時から企画部に行きたくて仕方なかった。……でも。


「まさか、私たちの関係のこと……」

「ハハ、そんな危ういことしないよ」

「じゃあ……」

「エレベーターで会った時に君がこっそり書いていた企画書を見て素晴らしいと思った。だから推しただけだよ。企画部に」


 ……すれ違い様、私はビッチだと言われた。きっと企画部の人たちは私が須藤さんに色仕掛けをしたとでも思っている。もしかしたら、不倫のことだって……。


「……どうして、こんな……」

「わからない?」


 須藤さんの長い指が私の顎を掬う。絡み合った視線の向こう、須藤さんの目の奥に確かに感じたのは。


「離すつもりはないって意味なんだけど」


 狂気に似た強いものだった。


***


 バタン、と大きな音がフロアに響き渡って、同時に「うおっ」と情けない声が聞こえた。驚くのも無理はない。午後10時前。もう課長以外の人影はない。私は今朝まで使っていた椅子に座った。


「三枝?どうした?」


 今朝ここを出たばかりなのに、何だか安心する。須藤さんの手を振り払って慌ててホテルを出て、気が付けばここに来ていた。ここに来ると安心するような気がしていた。……課長はいるだろうとは思っていたけれど、別にいなくても……


「……うそ」


 本当は少し期待していた。もしかしたら課長はまだここにいるんじゃないかって。


「何ぶつぶつ言ってんの。コーヒー飲む?」


 ピトッと頬に当てられた温かいそれは、いつも私が使っていたマグカップだった。課長は私の隣の席に座り体ごと私のほうを向いた。


「どうした」

「……」

「何かあったね」


 ポツポツと、あったことを話す。とてもゆっくりで聞き取りにくいはずなのに、課長はうんうんと相槌を打ちながら聞いてくれた。


「私、どうしたらいいか……」


 須藤さんの行動は、脅しにも似たものだ。不倫がバレたら私はきっと会社にいられなくなる。けれど、須藤さんも同じく。危ない橋を渡ってまで私を引き止める須藤さんは絶対に私を手放すつもりはないらしい。誰にも知られてはいけない秘密を共有している私たちは、むしろ強すぎる因縁にも似たもので強制的に結ばれている。互いに身動きできないのだ。

 私を明らかに敵視している企画部の人たち。私を手元に置いて監視しようとする須藤さん。自業自得だ。でも、息苦しい。


「やっちゃったね」


 相変わらず軽い口調に何だか笑ってしまう。


「ここに戻ってきてもいいよ三枝」


 戻りたい。戻れるものなら。


「でも、企画部で必死でやって周りを見返すでもいい。決めるのは三枝だ」


 高杉ならきっと、やれ、見返せ、そう言うんだろう。課長はどんな選択だって私に選ばせる。優しいようで、残酷。でもこれは私が決めなければいけないことだ。自分のことなのだから当然。……でも課長なら、間違えたって弱音を吐いてもきっと。


「私、頑張ってみます」

「そう」


 こうやって、頭を撫でてくれるのだろう。闘う決意をした日。私は課長の温もりととてつもない安心感を知った。

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