第4話

「この前一緒にいたの、上司?」


 聞きたかったけれど、気になっていたけれど。どうしても踏み込めなかったところに彼は簡単に踏み込んだ。ネクタイを緩めながらベッドに座って固まる私を見下ろし、顔には穏やかな笑みを浮かべて。


「えっ、と……はい」

「随分酔っ払っていたけど何かされなかった?」


 されるわけない。課長はそんな人じゃない。酔っ払って正常な判断ができない女を抱くような、そんな人じゃ、ない。

 ふるふると首を横に振った私の顔に嫌悪感がありありと浮かんでいたからか、彼は取り繕うようにそっと頬を撫でた。


「心配しただけだ。気を悪くしたならごめん」

「……」

「君はそんなに軽い女じゃないな」


 盲目でいられる時期は過ぎてしまったのかもしれない。自分のことを棚に上げて私を疑う彼にイライラした。それと同時に、彼に何も聞けず結局キスも受け入れてしまう自分にも吐き気がした。


***


「……あ」

「きゃっ」


 資料室のドアを開けたら机の上で大きく足を開く後輩と目が合った。そして彼女に覆い被さっている男が振り向いた時、私は少なからず驚いた。


「……高杉、さん」


 思わず名前を口走った後、気まずい場面に遭遇してしまったことにようやく気付いて「失礼しました」と頭を下げる。ドアを閉めた後、私は途方に暮れた。昼休憩の間に、課長から頼まれた資料探しておきたかったんだけどな。今日は彼と会える日。残業は何が何でも回避したい。はぁ、とため息を吐いた時突然凭れていたドアが開き、口に手を当てた後輩が出てきた。私に気付いた彼女はキッと私を睨み走り去る。……あー、邪魔しちゃったから恨まれちゃったかな。そもそもこんなところであんなことしてるのが悪いと思うけどね。高杉は私のイメージでは堅物だったから驚いたけど。


「……おい、間抜けヅラにも程があるぞ」


 ポケッと彼女の後ろ姿を目で追っていた私に低い声が掛かる。誰のせいだ誰の、そう思いながらも資料探したかったしちょうどいいやと開き直り資料室に入った。男女が愛し合った後の濃密な空気は、少し苦手。ま、私が邪魔したから途中だったけど。


「ごめんね、邪魔しちゃって」

「別に」

「彼女できるなんて早いね」

「彼女じゃねぇ」


 ふーん、高杉って彼女じゃない女の子とセックスできるような男だったんだ。イメージと違い過ぎてびっくり。えっと、課長に頼まれた資料は……


「……おい」

「んー?」

「これだろ」

「えっ」


 高杉が持っていた書類を確認させてもらうと、確かに課長に頼まれたものだった。ここまで仕事ができると尊敬通り越してイラッとするな。普通の顔をしているのだろうけれど何故かドヤ顔に見えてそれが更にイラッとする。ありがと、ととりあえずお礼を言って部屋を出ようとドアノブに手を掛けた。


「待て」


 けれど、後ろから伸びてきた手がドアを押さえて阻止される。大きな音と顔のすぐ横につかれた手に驚く私を気にもせず、すぐ後ろで高杉は低い声を出した。


「今日19時までに仕事を終わらせろ。そして俺に付き合え、わかったな」

「え、今日は用事が……」

「来ねぇと犯す。話は以上だ。とっとと仕事終わらせろ」


 あまりの剣幕に為す術もなく、私は必死で頷いたのだった。


***


「おーっす、お疲れー」


 高杉に言われたバーに行くと何故か高杉の隣に課長がいた。促されるままに高杉と課長の間に座り、とりあえずお酒を注文する。いつも通りゆるい課長とは反対にピリピリとした空気を纏っている高杉に緊張しながらも、私は出てきたビールを飲んだ。


「……お前」


 高杉が口を開いたのは突然だった。いつもより低い声に高杉の怒りが表れているようで、ビクッと体を揺らしてしまう。それにプッと噴き出した課長を睨み付けて高杉に目を移せば、三白眼の鋭い目が私を見つめていた。


「不倫してんだろ」


 息を呑んだ私の横で課長がグラスの氷を回す。カラカラと小さな音が頭の中をぐるぐると回り、固まる私を見て高杉は舌打ちをした。


「やめろ。今すぐやめろ。別れろ」

「……」


 きつい言い方をされると反発が浮かんでしまう。どうして高杉にそんなこと言われなくちゃいけないの。どうしてそんな言い方されなくちゃいけないの。どうして、どうして、どうして。


「あの時も、そうだったよね。高杉は私の気持ちなんか考えずに抑え付けるだけ」

「被害者ぶってんじゃねぇ。不倫してる奴に『私の気持ち』なんて言う権利ねぇんだよ、今すぐ別れろ」


 被害者、権利。一番言われたくない言葉だった。絶対的に悪いのは、不倫をしている彼と私。わかっている。わかっているんだから。


「っ、たまには、私の気持ちに寄り添うとか、優しいことできないの?!」

「……。お前、本当に馬鹿女なんだな」


 呆れたような物言いに、涙が込み上げてくる。嫌だ、絶対に泣きたくない。絶対に。課長は何も言わず黙って烏龍茶を飲んでいる。それにも腹が立って私はきつく唇を噛んだ。


「あんただって、会社でセックスしてたじゃん」

「話をすり替えるな。そもそも俺もあっちも独身。昼休み。責められる要素はない」

「っ、好きでもない人とするの、最低だと思う!」

「既婚者とセックスするの、最低だと思う」


 言い返せなくてとうとう涙が零れた。イライラは課長に向き、突然課長のほうを向いた私に課長は驚いた。


「な、なに?」

「高杉に言ったんですか?!」

「この前歓迎会で見ただけだ。課長に当たってんじゃねぇ」


 私に逃げ場を作らない高杉が憎くて悔しくて。鞄を掴んで帰ろうとする私の腕を高杉が掴む。逃げんのか、と見下すように言われ、私は座り直した。負けたくなかったから。


「真剣に、好きなの。ダメなのはわかってる。でもやめられないの」

「自分のことしか考えられねぇんだな」

「……っ」

「考えたことあんのか?お前を抱いた後に帰ってきた旦那を迎える嫁さんと子どもの気持ち」


 何も言えない。悔しい。悔しい悔しい悔しい。


「お前将来結婚して、旦那に不倫されて、好きなら仕方ないねって笑えんのか?既婚者と知ってて関係を続ける相手の女を許せんのか?」

「……」

「好きだからで許される話じゃない。お前に他人の人生を狂わせる権利なんてない」

「……」

「別れろ」


 高杉の言っていることは全て正論だった。その通りだ。好きになった人が既婚者だった。それだけでは許されない問題がたくさんある。私は今すぐに彼と別れるべきだ。わかってる。わかってるんだ。


「まーまー高杉。三枝もちゃんとわかってるよ」

「課長がそもそも甘やかすからコイツが付け上がるんですよ」

「頭ではダメだって思ってても体が動いちゃうんだよね。その気持ち、俺もわかるから」

「……俺だって、わかりますけど」


 二人の会話がどこか遠くに聞こえた。俯いてメソメソ泣く私の頭を撫で、課長は笑う。


「それにしてもさー、高杉って三枝のこと大好きなんだねー」

「っ、はぁ?!」


 課長の言っている意味がわからなくて顔を上げる。課長は「顔真っ赤ー」と高杉をからかい、高杉に目を向けると「見んな犯すぞ」と睨まれる。けれど耳が真っ赤だった。え、高杉照れてる?


「心配なんでしょ?」

「……別に。不倫なんてしてても幸せになれねぇって言いたかっただけですから」

「それ心配してんじゃん。あはは、高杉って可愛いねー」

「……おいだから何見てやがんだ犯されてぇのか」


 か、課長に言い返せないからって私に当たらないでもらえません?!高杉のきつい言葉の裏に隠された真意に、私はやっと気付いたのだった。

 しばらくして帰ります、と高杉が立ち上がり、課長が送ろうかと言ったけれど一人で帰っていった。


「帰ろうか。送るよ」

「……」

「女の子が泣きながら一人で帰るなんて危ないでしょ」


 私の体を支え、課長は歩き出す。この前と似てるな、そう思いながら私は課長の腕に頭を預ける。


「高杉の言う通りですよね、全部」


 車を発進させた課長は何も言わなかった。それをいいことに私はひたすら喋った。自分の気持ち、全部。


「前にも、こんなことあったんです。高杉って実は私の大学時代の彼氏の友達なんですけど」


 その彼氏がとんでもない浮気性だった。私はそれに薄々気付きながらも捨てられるのが怖くて気付かないフリをして。ある日高杉が私に言った。「いつまでも馬鹿女のフリしてないで別れろ。お前はあいつの本命じゃない」と。それでもいい、二番目でもいいからそばにいたいと思っていた私はハッキリ言われたことに腹を立て「あんたには関係ないでしょ」と吐き捨てた。結局簡単に捨てられた私に高杉は連絡をくれたけど、一切取り合わなかった。


「あの時と同じことしてる。本当に馬鹿だなぁ……」

「高杉ってさー、その頃から三枝のこと大好きなんだねー」

「え?」

「三枝に、どうしても幸せになってほしいんだねぇ」


 そういえば。あの時も言っていた気がする。「あんな男といても幸せになれねぇぞ」って。


「……課長は、言ってくれないんですか?やめろって」


 自分でもどうしてこんなことを言ったのかわからない。課長にどんな答えを求めていたのかもわからない。でも。


「周りがやめろって言ったからってやめれるもんじゃないでしょ」


 その言葉に、突き放されたような気がして。少なからず落ち込んだのは確かだった。

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