第3話

「これからあまり会えなくなるかもしれない」


 どこか寂しげに彼は呟いた。私に言うのではなく、独り言のように。どうして、と聞くのはやめた。自分が今以上に惨めになることがわかっていたからだ。でも彼は聞きたくないことを、自ら話した。


「妻が妊娠した」


 目の前が真っ暗になったような気がして、でも無意識の内にそう、と答えていたのだからそんな気がしただけで私はいつものように微笑んでいたのだろう。彼は少し安心したような顔で私の頭を撫でた。私は彼の奥さんが妊娠したからって、彼と奥さんがうまく行っていることを思い知らされたって、泣き叫んだりしない。彼に捨てられたくない、その一心で本当の気持ちを心の中に押し込めるただの臆病者だからだ。


「会うのは週に一回にしよう」


 私は所詮『不倫相手』なのだと、彼に会う度に思い知らされることにはもう慣れてしまった。


***


「はーいちゅうもーく。本社から転勤してきたエリートくんを紹介しまーす」


 いつものようにゆるい課長の呼び掛けで業務を開始しようとしていた皆が集まる。朝礼はさっき終わったばかりなのに、どうして朝礼の時に紹介しなかったのかと思ったけれど、すぐにその理由は思い当たった。課長が忘れていただけだ。証拠に課長の隣に立つ男の人は「俺の存在忘れてたでしょ」と呆れたような顔をしている。

 その男の人を見て、女性社員が色めき立つのが聞こえた。本社から転勤のエリート、と課長が言ったように彼は出世コースに乗っている。うちの社では基本的に本社から一度支社に転勤する。そして、本社に戻って部長や本部長になるのだ。入社した時から支社の私には全く関係のない話だけれど。出世を約束され、しかも見た目だっていい。女性社員が色めき立つのも当然だ。


「本社から来た高杉くんでーす。……えっと、下の名前……ま、いいや。はい、何か一言」

「……あ、高杉陽介です。よろしくお願いします」


 ……ん?高杉陽介?何か聞いたことあるな……。首を傾げて高杉さんをじっと見ていると不意に目が合った。そして彼も私を見て目を見開いた。やっぱり……!


「高杉?!」


 突然大声を上げしかも彼の名を呼び捨てにした私に視線が集中するのは当然の結果だった。


***


「……あ」

「……あ」


 喫煙室に入ると先にいた人と目が合って一気に気まずさが流れた。知り合いなのかと周りに問い詰められ疲れ切っていたので、会社で煙草は吸わないようにしていたけれどもう我慢は無理だった。あいつ、高杉がいたから戻ろうかとも思ったけれどここですぐに喫煙室を出るのもあからさまに避けているようで更に気まずくなりそうだから私は立ったまま煙草に火をつけた。


「……お前、煙草吸うの」


 不意に聞こえた声はあの頃のまま、低かった。そういえば高杉は知らないか。私が煙草を吸うこと。あの人の、影響なのだから。


「うん、まぁ。……あ、タメ口じゃダメか。はい、吸います」

「気持ち悪いからやめろ」


 そんなこと言われても。今は、上司なわけだし。

 あの頃は明るい茶色だった髪が、真っ黒で。見たこともなかったスーツ姿は、様になっている。立ち止まったままの私と常に進み続けている高杉。それだけが変わっていない。


「……あの時のこと、謝んねぇぞ」

「うん、わかってる。あれは私が悪かったよね。ごめん。あ、違う。ごめんなさい」

「おい次敬語使ったら犯すぞ」


 ……お口の悪いところは変わってないですね。そういえばこいつの毒舌には何度も泣かされたような……。そう、あの時も。


「高杉さ……変わったね」

「……」

「私はもう……何やってんだろ」


 前髪をくしゃっと握って俯くと煙草の煙が目に入って涙が出てきた。沁みるなぁ、もう。


「……お前」

「何?」

「綺麗になったよ」


 顔を上げたら煙草を吸い終わったらしい高杉が目の前に立っていた。高杉には考えられない言葉に、えええもしかして明日雪降るんじゃない?この季節に!と努めて明るい声で言ったけれど高杉は少しも笑わず微動だにしなかった。何か変なものでも食べたのかなぁ。それとも会わなかった五年の間にナンパ男になったのか?戸惑いを隠せない私は、何となくじっと見つめてくる高杉の顔を見ることができなくて目をそらした。


「高杉ー、て、あれ?三枝」


 その時喫煙室のドアを開けた課長にとにかく感謝した。気まずすぎるしそれに、高杉が私の苦手な目をしていた。あの日と同じ、目。


「今日高杉の歓迎会やろうと思ってるんだけど。あ、三枝知り合いだよね?じゃ、幹事よろしくー」

「えっ?!」


 面倒なこと押し付けられたよもう。おかげで高杉はもう私を見ていなかったけれど。


「……あ、そうだ。言い忘れた」

「え?」

「綺麗になった。米粒一つ分くらいだけどな」


 そう言って出て行った高杉にイラッとしながらも元に戻った気がして安心した。


***


「で、結局どうなの?元カレ?」


 飲み会での話題も結局そればかりだった。違います、ただの知り合いです、そう言っても信じてもらえるどころか、えー、どんな知り合い?言わないところが怪しい、としつこく迫られるのだ。心の中でうんざりしながらだから、と返そうとすると、いつの間にか隣にいた課長が宥めてくれた。言いにくいこともあるだろうからさー、と。課長のおかげでようやく諦めてくれた女子たちは次は高杉のところに向かった。全く、懲りないな。


「あれ、課長お酒飲まないんですか?」

「うん、俺酒ダメなんだ」


 そういえば課長がお酒を飲むのは上司が来た時だけだった気がする。お酒好きそうなのに意外。でもお酒飲めなくても酔っ払いのノリに合わせられるんだからすごいよね。


「課長ー、私高杉に久しぶりに会ってまた自信なくしましたよ。米粒ほどの自信がまた減った」


 私は酔っ払っているらしい。課長に何を言っているんだ。でも苦手だった課長のゆるい雰囲気が、今は泣きたいくらいに心地いい。ふーん、とどうでも良さそうな返事が返ってきて、でも課長のことだからちゃんと聞いてくれているのだろう。優しい。課長は。痛いくらいに。


「課長は、もし私が抱いてって言ったら抱いてくれますか?こんな馬鹿女でも」


 縋るような目で見上げれば、課長は持っていた烏龍茶をゴクリと飲んだ。喉仏が動くのがセクシーで、思わず距離を詰める。あれ、私って喉仏フェチなのか?


「無理ですよねー。だって私、貧乳だし。あれ?課長って微乳好きだったっけ」

「そうだ。俺は微乳好きだ」

「アハッ。そこだけ即答?」


 上司相手に何て失礼な物言いを、そう冷静に思うのに酔いが回った体は言うことを聞かない。課長の手がそこにあるのにどうして触れちゃダメなの、なんて。冷静なんかじゃない。充分頭も酔ってる。


「……課長」

「……三枝。男ってさ、30過ぎると性欲減退してくるんだ」

「へー」

「ま、人によるけど。俺はまだまだ平気」

「知りません。セクハラ」

「だよねー」


 触れた手から熱が伝わる。指をきゅっと握ると、手全体を包むように握られた。ああ、課長って。手大きいんだ。


「っ、ごめ、なさ、トイレ」


 今誰かの温もりに触れたら簡単に泣きそうになる。手を離して立ち上がり、座敷を出る。チェーンの居酒屋は平日でも賑わっていてフラフラしながら歩く自分を見られるのが恥ずかしかった。


「三枝、」


 そんな私を支えてくれたのは珍しく焦ったように追いかけてきたらしい課長だった。私の目に涙が浮かんでいるのを見て、課長は私の肩を抱いたまま居酒屋を出ようとする。けれどドアの前で突然立ち止まってしまった。不思議に思って顔を上げて後悔する。


「あ……っ」


 声を上げた私を見て目を見開いたのは、綺麗な人と腕を組んだあの人だった。


「須藤さん、知り合い?」


 彼の腕に細い腕を絡ませながら、彼女は言った。綺麗でスラッとしている。モデルか何かだろうな。須藤さん、と呼んだってことは。この人は、奥さんじゃない。


「……あぁ。取引先のね」

「ふーん」

「行こう。三枝」


 軽く会釈して、課長は歩き出した。居酒屋を出ると冷たい空気が頬を撫でて気持ちいい。同時に酔いが少しだけさめる。


「私だけじゃ、なかったんだ」


 もしかしたら、奥さんが妊娠したっていうのも嘘かもしれない。さっきの人に夢中になって、私と会う時間を彼女と会う時間に回そうって、そう思っただけなのかもしれない。


「馬鹿だー、もう。本当に馬鹿だ……」


 それでもまだ彼を信じたいと思っている自分がいる。きっとさっきの人は不倫相手じゃない。仕事仲間だとか、それ以外の知り合いだとか、きっと何か……


「三枝さー、知ってる?」


 ごちゃごちゃと考えて頭がパンクしそうになっていた私は突然聞こえたゆるい声にハッとした。課長がそばにいることを、忘れてしまっていた。

 課長は座り込んで空を見上げていた。つられて見上げると真ん丸な月が私たちを見下ろしている。


「……誰かがさ、I love youを月が綺麗ですねって訳したらしいよ。粋だよなー」

「……はい」

「三枝なら何て訳す?」

「ええっ」


 また難解な質問を……。何だろう、普通に愛してるとかしか思い浮かばないな。えっと……


「か、課長は?」


 そう聞いて、課長の横顔に視線を移して泣きたくなった。課長は、泣きそうな顔をしていた。どうしてそんな顔をしているのかわからない。でも、私は思わず課長の頬を自分の両手で包んでいた。課長がゆっくりと、私を見る。


「俺は、幸せになって、って訳すかな」


 直感的に思った。課長には、忘れられない人がいるのだと。ポロリと零れた涙を温かい指が拭った。そしてそのまま抱き寄せられる。


「……ごめん、少しだけ」


 私たちは互いの傷を溶かすように、一ミリの隙間もないほどきつく抱き合った。

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