第2話

「ごめん、明日は会えないんだ」


 彼の言葉に内心ひどく落ち込みながら「そっか」と答えた。けれど結婚記念日だからと言われてしまえば上辺だけでも取り繕うことを忘れて固まってしまう。結婚記念日。私の誕生日が、結婚記念日。もちろん偶然だし彼や奥さんに悪気があるはずもない。彼と奥さんが出会って結婚したのは私がまだ高校生の頃だし、いつか不倫する女の子の誕生日だからこの日結婚するのはやめとこっか、なんてホラーに近い予知を当時の彼ができるわけがない。大丈夫、全然平気。そう彼に繰り返すフリをして、私は自分に言い聞かせていた。

 次の日の目覚めは最高に悪かった。たまりにたまった有給を使って休んでやろうかと思うくらい体は怠いし頭は痛いし、彼と分かれてから一人寄ったコンビニで山程買ったビールを全て一人で飲み干したのだから自業自得なのだけれど、理由が理由なのだから許してと誰に言うでもない言い訳を痛む頭の中で繰り返した。

 携帯には友達からのメールがたくさん入っていて、少しだけ気分が浮上してのろのろとベッドから起き上がる。無意識に探してしまう彼の名前はなかった。不意に床に散らばったビールの空き缶に足が当たり、酔っ払っていたからか最後まで飲み切っていなかったらしい缶から中身が溢れてきた。拭く気にもなれず呆然と見ていたらそれはカーペットにシミを作り広がっていく。ツンとしたアルコールの匂いが鼻を突いてやっと私はその缶を起こしタオルを取り出したのだった。

 泣いていたせいで腫れた目や今日みたいに二日酔いで蒼白い顔を隠すための化粧だけが上手くなっていく。27歳。女として一番いい時期なはずなのに今の私は沈むことしか知らない泥舟に乗っているようだ。


「おはよー」

「課長、おはようございます」

「はーいおはよー」


 課長の様子はいつもと変わらなかった。当然だ。彼は私の秘密を誰にもバラさないと言ってくれたし、突然親密になったら周りに逆に怪しまれてしまう。そもそも課長の中では私の不倫など取り立てて気にするほどのことではなく、頭の片隅の片隅に小さく追いやられてしまっているのかもしれない。それが、いい。そのほうが、いい。誰にも知られてはいけない恋は、このまま誰にも知られることなく終わらせるべきだからだ。

 その日の仕事は全く捗らなかった。頭が考えることを拒否していて、これなら新人のほうがよっぽど使えると思うほどだった。イライラして、とにかく集中力を上げようとデスクの整理をすることにした。周りが散らかっていると集中力が下がると聞いたことがあるからだ。あぁ、煙草が吸いたい。一旦トイレに行くフリをして煙草休憩を取りに行くのもありか。集中力を上げるためだと心の中で言い訳をして、これまでに入力したデータを保存しようとして。

 ……あ。やっちまった。


***


「珍しいねー、三枝が残業なんて」

「……えぇ、まあ」


 入力していたデータを間違えて削除してしまったとは言えない。本当に自分でも信じられないミスをしてしまった。誕生日に、好きな人と過ごせないくらいで。

 一人、二人。残業していた人が帰っていく。ミスをしてしまったことでようやく集中できるようになったけれど、人がいない部屋は何となく孤独を誘った。今日が誕生日じゃなければ……、そう思った後に、いい歳なんだから誕生日なんて気にするもんでもないよね、と可哀想な自分に気づかないフリをした。


「三枝ー、コーヒー」

「えっ、す、すみません、課長にこんなことさせて」

「いいよそんなこと気にしなくて」


 課長が淹れてくれたコーヒーを口に含めば、その温かさが身体中に染み渡っていくような気がした。いつの間にか課長と二人きりの部屋。思わず吐いたため息に、課長が反応した。


「今日さー、顔色悪いよね三枝」

「えっ」


 まさか気づかれていると思わなくて目を見開く。課長は手を伸ばし、眉間をきゅっと押した。


「いつもより怖ーい顔してたし」


 課長の指が温かくて、その上ちゃんと自分を見てくれている人がいることを知って。涙が出るのを必死で堪えた。


「……私、今日誕生日なんですよね」

「へー、そうなんだ」

「誕生日なのにミスしちゃうし二日酔いだしもう、最悪……」

「ま、人間80年生きるんだからそんな年もあるよ」


 80年、か。私もいつかちゃんとした恋愛をして結婚をして、大事な人に祝ってもらえるようになるのかな。これからの人生、果てしなく長く感じるけれど、私はちゃんと大切にできるんだろうか。時間を、自分を、人生を。


「俺も誕生日ってあんまいいことなかったからさー。自分に言い聞かせてるところもあるんだけど。ところでいくつになったの?」

「27です」

「おー、結構いい年だねー。頑張ってねー」


 何だかぐさっと刺さるようなことを言われた気がするけど気にしないでおこう。デスクに戻った課長を見て、私も仕事を再開した。

 仕事がようやく終わったのは10時過ぎだった。家に帰るのはいつも11時前だしいつもと同じなのだけれど、仕事をしていたのと好きな人と過ごしていたのとでは違う。疲れがどっと押し寄せてきて私は盛大に伸びをした。


「お疲れだねー。送るよ、俺車だし」

「ええっ、大丈夫です、こんな時間まで付き合わせたんだから……」

「残業なんて毎日してっから気にしなくていいよ。ほら、行くよー」


 意外と強引な課長に断りきることが出来ず、私は課長を追いかけた。


「お邪魔します」

「どうぞー」


 課長の車は黒のセダンだった。助手席に座ると案外運転席と近くて緊張する。何となく発進させようとした課長を見ていたら不意に目が合った。


「何?」

「え、いや、何でもないです」

「そ?」


 車を運転する姿にときめいたなんて絶対言えない。この年になってこんな簡単なことでときめくなんて相当私の心は枯れているらしい。でもこんなの反則だ。

 スーツを脱いだ課長はワイシャツにちょっと緩めたネクタイ姿。ネクタイ緩める仕草って女の子なら誰だってキュンポイントだと思う。左手を膝掛けに乗せて片手でハンドルを握りながら、課長は口を開いた。


「三枝はさ、彼とどうやって出会ったの?」


 まさかそんな話題が出てくるなんて思ってもいなかったから課長に見惚れていた私は固まった。課長の中で私の不倫のことなど忘れ去られていると思っていたのに、ストレートに聞かれてしまった。


「えっ、と……社内の、エレベーターで……」

「へー」

「私、自分に自信がなくて。あんなかっこいい人に声掛けられたのも始めてで、浮かれてたのかな」


 声を掛けられた時、単純に嬉しかった。食事に誘われた時、私は確かに舞い上がっていた。


「なんで自分に自信がないの?」

「それは……可愛くないし、美人でもないし、それに、む、胸も……」

「胸?」


 そ、そこに反応してほしくなかった……。でも、一番のコンプレックスはそこだ。


「ち、小さいし……」

「三枝。俺こう見えてもおっぱいは巨乳より微乳が好きなんだ」

「知りません。つーか、セクハラです」

「だよねー。でも、こういう奴もいるからさ。おっぱいについては気にしなくていいと思うよ」


 慰められたのかただ単にセクハラされたのか、よくわからない言葉の後、課長はちょっとコンビニ寄るね、と言ってコンビニに車を停めた。私は特に用もなかったので車の中で待たせてもらうことにした。それにしても、まさか課長とこんなに話すようになるなんて思いもしなかった。苦手だったのに。いつの間にかその苦手意識は薄れている。あのゆるい話し方も気にならなくなっているから不思議。

 何となくコンビニの中にいる課長を車の中から眺めてみる。無造作な黒髪が、しっかりセットされたあの人とは違い歩く度揺れている。パッチリ二重な目と切れ長な目。身長は多分同じくらい。指はきっと、課長のほうが長い。筋肉はたぶん、あの人のほうがある。あれ、でも課長って着痩せしそうな感じだな。そんなことを考えた後、無意識にあの人と比べている自分が嫌になった。

 しばらくすると課長が戻ってきた。そして私におにぎりを手渡す。


「お腹空いたでしょー。言っとくけどツナマヨは俺のだからね。あ、あと」


 ゴソゴソと袋の中を探っていた課長は何かを取り出して、私の目の前に差し出した。それは、最近テレビでよく見るゆるキャラの小さなぬいぐるみだった。


「誕生日おめでとー」


 年を取ると涙腺が緩くなるって本当らしい。そっと頭に置かれた課長の手が温かくて、私はそのぬいぐるみを握ったまま声を押し殺して泣いた。

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