第6話
ひそひそと私のほうを見て噂話をしている企画部の人たちに高杉が噛み付こうとするのを必死で止める。まるで敵を威嚇するネコ科の動物のようで思わず笑ってしまうと、今度は私が高杉に睨まれた。咳払いをしてごめん、と言うと高杉ははああっと深いため息を吐いた。
「……お前な、何でそんな呑気なんだよ」
「え?」
「あらぬ噂立てられて陰口言われて。まあ、お前の自業自得なところもあるけどよ」
「はは、は……」
高杉には言っておいた。須藤さんの策略で私がここに来ることになったこと、企画部の人たちがそれをよく思っていないこと、そして高杉の出世のために絶対に須藤さんや企画部の人たちにこの件に関して楯突かないこと。高杉はやっぱり
「やれ、負けるな」
と言った。あまりに予想通りで笑ってしまった。私は思ったより平気だった。昨日課長と話したことで、自分にできる精一杯のことを必死でやろうと決めたから。最後に課長は言った。
『ま、飲みにぐらい連れてってやるから』
と。ま、俺酒飲めねぇけど、と付け足して。
「三枝さん、コーヒー」
「はい」
私より年下で後輩の女の子にそう言われても言う通りにした。いいように使われている、そう分かっていてもここで負けるわけにはいかない。誰より動いて誰より働いて結果を残してみせる。高杉はそんな私の心情を思ってか、舌打ちをしながらも何も言わず見守ってくれた。
「高杉さん、高杉さんの歓迎会しようって皆で言ってるんですけど」
その日の仕事終わり、何人かの女の子が高杉にそう言った。高杉はやっぱりここでもモテるらしい。無表情でそれを聞いていた高杉は、必死でPCに向かう私の頭を叩いた。
「っ、痛っ」
「コイツも一緒なら」
「はっ、え?」
正直仕事だっていっぱい残っているし、何を言われるか分からない飲み会になんて行きたくない。でも三枝さんまだ仕事してるし……、と言う女の子たちは予想通りで、うんうんだから私は行かないよと心の中で言っていたのに。
「じゃ、コイツの仕事手伝うから」
そう言って高杉は私の隣の席に座り直す。あ、コイツ行きたくないからって私を利用しただけだ。そう気付いたけれど女の子たちは負けなかった。
「じゃあ待ってるんで、それ終わってから行きましょう」
そう言われた瞬間の高杉の目が不機嫌そうに細められて、頭の中で舌打ちをしているんだろうなという表情を私はしっかり見ていた。じゃあロビーで待ってます、そう言って女の子たちがゾロゾロと去って行く。
「……巻き込まないでよ」
「……ちっ」
あ、やっぱり舌打ちした。思わず笑ってしまうと、笑うなとまた頭を叩かれた。
高杉の協力もあって、一人でする半分の時間で済んだ残業。待つの面倒になって帰っていてくれないかな、そう願ったけれど女の子たちはしっかり待っていた。高杉の姿を見た途端に黄色い声を上げて取り囲む。私はぽつんと残されたけれど高杉大変だな、くらいにしか思わなかった。高杉は無表情を貫いているけれど、頭の中で面倒臭い早く帰りたいコイツら香水臭いと絶対に思っている。不意に高杉と目が合う。ニコニコしている私に高杉は口パクで「アホ」と言った。どうして私を罵倒するんだ。
飲み会は前に須藤さんと鉢合わせした居酒屋だった。もちろんそんなこと女の子たちが知るはずもないのだけれど、先に須藤さんが来ていたことで私に対する嫌がらせじゃないのかと思ってしまうほどだった。飲み会に参加しているのは企画部の女の子たちと若手の男の人、そして須藤さんと高杉と私。合コン?と思ってしまうようなノリだった。
須藤さんは私を見て微笑む。気まずくて目を逸らせば高杉が私と須藤さんの間に立った。背が高い高杉の後ろにすっぽりと隠された私は、高杉の背中に仕返しでアホと指で書いてやった。そしてまた頭を叩かれた。
「あれ?三枝に高杉?」
不意に声をかけられてそちらを見れば、そこには課長がいて。顔を見た瞬間何だか肩の力が抜けてしまう。課長は私と高杉の元同僚たちの飲み会に付き合っていたらしく、同じ会社だしということで何故か合同の飲み会が開催されることになった。高杉は企画部の女の子たちに囲まれているし、私は須藤さんの視界に入らないよう元同僚たちの席に行った。課長も何故か企画部の女の子たちに囲まれていて、確かに課長は喋らなければかっこいいもんなぁと思った。
「三枝さんすごいね!企画部に抜擢!」
「え?そ、そんなこと……」
「ずっと企画部に行きたかったんだもんね!夢叶えられるなんてすごいよ」
須藤さんの企みなど知る由もない元同僚たちはただ私をすごいと褒めてくれる。純粋に喜んでくれているのが分かって何だか申し訳ない。
「でも、このチャンスは逃したくないなって思います」
「三枝さん、頑張り屋さんだもんね」
その言葉に泣きそうになった。ああ、私をちゃんと見てくれている人たちもいるんだ、と。やっぱり私は負けられない。
「うええ飲まされた気持ち悪ぃぃ」
そこに何とか企画部の女の子たちの包囲網を抜けてきた課長が来て私の隣に座った。すぐ近くでふわふわの髪の毛が揺れる。スーツを脱いでネクタイも緩めた課長は何だか色っぽくて、ドキドキしているのがバレないように目を逸らした。けれど課長は私の顔を覗き込んできた。
「ん、顔赤い。三枝も飲みすぎた?」
細い指がそっと私の頬に触れる。びくっとしてごまかそうとしたけれど、すぐ近くにあった課長の目が綺麗で目が逸らせない。課長の真剣な顔が見られる機会は少ない。仕事中PCに向かっている時でさえ気怠げなのだ。見惚れる私に、課長の顔が近付いてくる。何も言えない上に、まるで二人だけの空間にいるような心地。けれどそれは企画部の女の子の声で簡単に破られた。安心したような、残念なような。自分の中の残念な気持ちに首を傾げていたら、その女の子が大きな声で言葉を続けた。
「三枝さんって、体で仕事取ってるって噂ありますよね」
陰口のつもりだったのか、あえて私に聞こえるように言ったのかはわからない。けれど私にまで聞こえていたのだからこの飲み会に参加している人には全員聞こえているはず。シーン、と一瞬静まって、元同僚たちはごまかすように違う話題で話し始めた。企画部の人たちの視線が私に向く。きっと我慢していたのだろう、高杉が耐えかねて何か言いかけた時。口を開いたのは課長だった。
「三枝を抱きたくなる男の気持ち分かるー」
いつも通り、いや、酔っ払っているからかいつも以上にゆるい声とゆるい口調。課長はニコニコと笑いながら続けた。
「男は頑張ってる女の子に弱いから。三枝は頑張り屋さんだもんな」
さっきと同じ言葉。課長の口から出たその言葉もやっぱり、同様に私の心に沁みていく。
「大丈夫。三枝ならどこでもやってけるよ」
ふにゃっと笑って、課長はそのまま目を瞑った。そしてすぐに寝息を立て始めた。ふふっと笑って課長にスーツを掛ける。
「仕事で見返すつもりらしいから、勝手にそう思っとけばいいんじゃないですか」
高杉が付け足すようにそう言った。さっきの女の子はバツが悪そうにお酒を煽る。ありがと、と口パクで言えば高杉はやっぱりアホとだけ返してきた。
「課長、起きてください、課長」
皆が二次会に行こうと出て行ってしまった部屋で、私は必死に課長を起こしていた。ちなみに高杉は一緒に行きましょうと強請る女の子たちに面倒臭ぇと暴言を吐きながらも結局連れて行かれた。課長と二人残ってしまった個室、揺り動かしても課長はなかなか起きない。
「もう、置いて帰りますよ……」
そう言った瞬間、課長の目がパチッと開いた。反応した、そう驚いていると課長の目が私を捕らえて。そして手が伸びてきた。ハッとした時には後頭部に置かれた手に引き寄せられて。課長の柔らかい唇が私のそれにくっついていた。
「……さっきキス出来なかったから……」
課長がまたふにゃっと笑う。さっきと言われて思い浮かぶのは飲み会の最中に顔を近付けてきた時のこと。キスするつもりだったの?と驚愕に目を見開く私を至近距離で見つめて、そして課長は言った。
「美月」
と。誰かと間違えられているのだ、そう気付いた時。私の胸は正体不明の痛みに襲われていた。
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