冬の到来
霊瓏山の峰から麓にかけて、早めの冬がやってきた。
慈善寺でも、あらかじめ集めていた薬剤を整理して、診療所の一番奥の部屋で炭を焚く。
貧しい民のためだからと、タダに近い値で診療をしているので、暮らしは決して裕福なものではない。
炭は質の良くない湿気たものだったし、食事も粗末なものだった。
けれど柴宿は、美味しいお菜はほとんどリュウシンの皿に分けたし、夜は薄手の毛布をリュウシンに重ね掛け、自分は薄い布団一枚で眠りにつくので、リュウシンは不満も言わず拗ねたように口をとがらせて日々を過ごした。
もっとも、医術については、リュウシンの思うところは変わっていなかった。
「薬剤や鍼だってタダじゃないんだ。損してるの、わかってるわけ?僕の『力』なら、元手がかかってないから損はしないし、一瞬で治せる」
「この間は病人が一気に四人も来て、治療の間、他の人たちはほったらかしだった。もし重症の人が大勢来たらどうするんだよ、みんな見殺しにするのかよ」
「薬だって効果が表れるまで時間がかかる。お前、病人を早く楽にしてやりたいんだろ?苦しんでる時間のことは何とも思わないわけ?」
何度も突っかかったが、柴宿はいつも静かに微笑むだけで答えなかった。
何も答えようとしない柴宿に、あきらめたのか、それとも患者に接する柴宿の姿勢を認めはじめたのか、リュウシンは柴宿に反抗しながらも、徐々に真剣に医術を学ぶようになり、柴宿の優秀な助手になっていった。
異変に真っ先に気づいたのは、柴宿だった。
その人は大工で、誤って指に釘を打ち付け、出血が止まらないといって慈善寺を訪ねてきた。
「おう、悪いな。なんか血が止まんなくってよ。二日前にやっちまって、すぐお札で手当てしたんだけどなぁ」
「そうですか。傷が深いからかもしれませんね。リュウシンくん、消毒と止血剤をお願いします」
穏やかに話をしていた柴宿は、ふと彼の首元に視線を止めた。
「そこはどうされました?腫れているようですが」
「ああ、これか。やっぱり腫れてるか?なんかひと月ほど前から首が変だなあとは思ってたんだけどな。耳も聞こえにくいし、寝違えたかと思ってたんだが」
「ひと月前ですか?怪我の後ではなくて」
柴宿が少し真剣な顔になって聞いた。
「おう、これよりずっと前だ」
「ほかに何か変わったことはありませんでしたか?」
「え?ああ……最近、手足の節々は痛いし、腹ぁ減らねえし、年かねぇ、へへっ」
柴宿は段々と顔色を変えていく。
少しいいですか、と断って、彼の服を捲り上げた。
痣が所々にあり、腹のあたりに不自然な膨らみがある。
「この痣は?」
「さあ、最近気づいたら増えてんだよなあ。ま、仕事柄だろうとは思うが」
「この膨らみ……これはいつからですか?」
「首のと同じ頃だ」
途端に柴宿は立ち上がった。血相を変えて書棚に向かうと、次から次へと医学書を引っ張り出す。
「なに。え、なんなの?」
止血剤を持って戻ったリュウシンが問いかける。
「范武官、太守にお願いして、彩霞全域に通達を。今後、はやり病が起こる可能性があります。飲み水や食べ物は煮沸を。食事の際には必ず手を洗うようにと。それから都に、医務官の派遣を要請するようお願いしてください。大至急です。リュウシンくん、今日の診療は貴方にお任せしてもよろしいですか」
蒼褪めた顔でリュウシンを一瞥すると、柴宿は猛然と医学書の記述を指で追い始めた。
柴宿のただならぬ様子に、リュウシンは困惑の表情を浮かべた。
傷の手当てをして、いつものように患者の住まいと名前、症状を控えてから彼を見送ると、不審げに振り返る。
「どうしたのあの人」
けれど、范溙に答えられるはずもなかった。
柴宿が蒼白な顔で探しているものが、数百年に一度現れるかという治療法の未解明な奇病の記述であることや、
そしてその病がこれから未曽有の惨状を引き起こすという前兆に、ただ一人、柴宿のみが気づいていたということを。
灰の雪がちらちらと降り始める。
虎狛川を一片の花弁が流れていく。
目を止めるものは、誰もいなかった。
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