紅の罪咎
どこかで筝の音を聴いた気がした。
遠く、かぎりなく頼りない、細く途切れる葬送の音色。
憐花は穹からちらりと見下ろす。
彩霞を襲った洪水は、数十年間で最も甚大なものだった。
絶えない諍いと深い哀絶の声を聴きながら、憐花は独りごちる。
「いつもながら、飽きんの。よくもまあ度々」
美しい双眸に濁流を映して冷ややかに言い放つ。
「たかが数十人逝っただけじゃろうて」
ふわあ、とあくびを一つすると、憐花はついと指先を動かした。
鈍色の雲が遠ざかっていく。
彩霞にふた月ぶりの日が差した。
憐花は人間が嫌いではなかった。
卑小で惰弱ではあったが、憐花にはその非力さが愛しかった。
憐花は人間を憐れんでいた。
愚かで、卑屈で、可哀想だった。
憐花はいつも気まぐれに人間を助け、気まぐれに見殺しにした。
だからこの時も、例にもれず、すべては憐花の気まぐれだったのだ。
『助けて』
その声は幼かった。
まだ、四、五歳だろうか。
切実で、悲哀に満ちた声だった。
「何の為じゃ?」
憐花は楽しげに、冷酷に唇を歪めた。
「何の為に生きる?そなたが生きて、喜ぶ者はおらぬ。先の天災で、そなたの家族は飢え死に寸前じゃ。末のそなたは口減らしに捨てられた。鎌で腹をかっ裂かれて。山中で狼にでも食われて死ぬのがそなたの運命じゃ。戻
って喜ぶものか」
子供は憐花の姿をみとめようと僅かに首を持ち上げ、力尽きてべしゃ、と突っ伏した。
腹部からは新しい赤がどくどくと流れ出る。
シューッと蛇が這いより、子供の脇で鎌首をもたげた。
「……生きたい」
生きたい。それでもただ生きたいと、もはや虫の息になっても呟く幼子に、憐花はふと微笑した。
「よかろう。好きに生きるとよいわ」
十年後、憐花はふと思い出して幼子を探した。
夥しい数の死骸が転がっている。
苦悶に満ちたくすんだ顔。
老人や小さな子供に折り重なって倒れる親たち。
吐き気を催す腐臭の中で、少年は横たわっていた。
「なんじゃこれは」
憐花は呆然とつぶやいた。
「うぅん」
少年の声がして憐花は振り返った。
「そなた、生きて――」
「ああ、天女様」
少年はぱぁっと笑顔を浮かべる。
子供らしい、あどけない笑みだった。
憐花は違和感を覚える。
この子供は、死体の山で一体何を、
「天女様、僕がやったんです」
「……は?」
「この人たちを、僕が殺しました。僕の力を奪おうとしたから」
少年は歌うように続ける。
「ばかでしょう?僕が配った毒入りの粥を、これっぽちも疑わずに食べて死んだんです」
少年は無邪気だった。
憐花はぞわりと総毛立つ。
明らかに何か――――間違えてしまっていた。
「力とはなんじゃ?」
「嫌だなあ、天女様が下さった力です。僕はこの癒しの力のおかげで生きられた」
その言葉で、憐花は己の過ちに気づく。
ひさしぶりの気まぐれを起こして、ちょいと力加減を間違えたようだと。
少年に過剰な力を与えてしまったのだと。
「天女様、僕はあなたを待っていたんです」
「……なぜじゃ?」
憐花はこくりと小さく喉を鳴らすと尋ねる。
「貴女に会いたくて」
少年はにっこり笑うと憐花の腰を引き寄せ、流れるような仕草で抱きしめた。
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