武官の悩み





柴宿が彩霞に来て半月が過ぎた。


初夏の優しい風が吹き抜け、彩霞城内は至って平穏である。


太守は近ごろ気に入っている香を焚かせた。


煙とともに、香りがゆっくりと室を漂う。


「范溙、いるか」


「此処に」


脇に控えていた范溙は、太守の前に出て頭を下げる。


甘松と丁子の香りを身に纏い、長椅子でくつろいでいた太守が、ゆっくりと目を開けると低く言葉を紡いだ。


「柴家の三男を監視しろ」


「……」


太守の唐突な言葉にも范溙は驚かなかった。


彩霞に来たその日から、柴宿はいつも城内外の噂の的となっていた。


ただでさえいわくつきの男だ。


その男が寺の塀を破壊しただの、いかさま紛いの祈祷をはじめただのと不穏な行動をすれば、嫌でも耳に入るし、太守として警戒しないはずがない。


だがそれでも……あの人に関わることだけは嫌だ、と范溙は沈黙する。


しかし、太守の「命令だ」の一言に、范溙の無言の抵抗はあえなく失敗に終わった。



「御意」


瞑目して下がると、深いため息が漏れた。












「……お前達の祈りは天に通じた。これより魔除けの儀を行う。魔物よ!私が成敗してくれる!」


大仰な仕草や言葉遣いで、柴宿が声を張り上げている。


右手を大きく振り上げ、鬼の画が描かれた白い布を指す。


しばらくすると、布は突然燃え始めた。おおお、と村人たちの驚く声が上がる。


「それでは皆に御札と霊薬を配りましょう。怪我や腫れ物ならば、この御札を水につけて患部を洗いなさい。頭痛や熱があるならば、この霊薬に桃の種を砕いて煎じて飲みなさい」


柴宿が告げると、村民は我も我もと御札に群がった。


「柴殿、何をなさっておいでですか!このような妄言で民を惑わすなんて、あってはならぬことでしょう」


范溙は柴宿に駆け寄ると、抗議の声を上げた。


「ああ、范武官。数日ぶりですね」


柴宿はちょっと困ったように苦笑しつつ、頬をかいた。


范溙は呆れて村人に近づいて声をかける。


「あの、やめておいたほうがいいですよ。これはいかさまです。あなたは騙されてる」


訝しそうに振り向いた女性は、彼の姿を認めると険しい顔で怒鳴った。


「何を……、私の御札を奪う気だね!そうはさせないよ。これは私のもんだ。いかさまだって?あんたさっきの祈祷を見なかったのかい。あの術者様は天の啓示がわかるんだよ。隣村だってあのお方のおかげで何人も救われてるんだ。何にもしないお役人よりずっと尊いお方だよ」


女性の剣幕に、范溙は呆然と立ち尽くした。













「方術というんです」


「……方術?」


「先ほどの祈祷です。いかさまだと仰ったでしょう」


微笑んで言う彼に、范溙は気まずく目をそらした。


「呪術と言われますが、あれは方術といって医学の一つなのですよ」


薬剤を土瓶に移しながら彼は続ける。


「このあたりの村民がかかりやすい病は、頭痛や発熱、外傷や腫れ物です。ですから、それらに良い薬を御札に仕込みました」


薄葉紙を手に取り、こちらに見せる。范溙は探るように彼を見返した。


「貴殿に用意していただいたものです。これを、鬱金をといた汁に浸します。そして、海水に黄今、桜皮、槐花、甘草を混ぜて文字を書いたのです。どれも鎮痛、止血、解毒効果のあるものです。海水は鹹水といって、鬱金に反応して自然と赤く染まります」


「……それで、なぜ柴殿は説明もせず、あのように紛らわしい方法をとるのです」


方術が医学だろうが、あの方法は不審だ。


まじない師の真似事のようなことをして、いかさまと取られても無理もない。


責めるように目を上げると、身じろぎした彼

は斜陽を遮るように目を眇め、ちらりと視線を向けた。


「私に疑いの目を向ける民がいましたか?」


「…………」


范溙は言葉に詰まる。


彼らの目を思い返す。


皆、柴宿を信じ切った眼をしていた。


「病に苦しむ人たちにとって、何がどう良いのかは重要ではないのです」


ただ、これさえあればという安心を得られるなら。


柴宿が小さく呟く。


薬包からまた薬剤を取り出し乳鉢にあける。


すりつぶすと、また土瓶に移し、火にかける。


范溙は柴宿の様子を横目に見ながらぽつりと零した。


「太守に、貴殿を見張るように命じられました」


ふと柴宿の手が止まる。


ややあって、火加減を見ながら返された声は、普段通りやわらかかった。


「そうですか」


范溙はぴくりと眉根を寄せる。


「よろしいのですか」


「范武官の任務でしょう」


柴宿はおっとりと答える。


范溙は言葉を継ぎかけて、押し黙った。


芍薬の甘い香りがふわりと漂う。


絡みつくような甘さを振り切るように、踵を返す。


「明日もぜひお出でください」


ゆっくりと、微かに立ち昇る香りは、ながく鼻を擽った。







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