第9話 童

 まもなく最上階という頃だった。

 ケムリは膝に手をつき、下を向いて深く息を吐き出す。先刻より浮上し始めた頭の痛みと淡い吐き気。素知らぬ顔で主の背を追っていたものの、もはや痩せ我慢にも限界が来ていた。


「体力には自信があったんですけど……」

「塔は上階へ向かうにつれ空気が薄くなっていく。各国を渡り歩くさしもの行商とて、この酸素欠乏は未体験であろう」


 主は少女をその場に座らせ、独特の呼吸法を口伝する。回復するまでしばらく続けよと命じる。彼は腰を降ろして襟頭巾を払い、ケムリの休憩に付き合う。

 休憩がてら、とある修道士の話を聞かされた。

 彼は街中の親しみを一心に受ける高名な修道士であった。ある時自身に舞い降りた天啓に従い、人生最後の行として、たった一人で前人未踏とされる高山の登頂を目指したという。そこは熟練の狩人でさえ忌避する未開の地であり、山脈の成り立ちからして人の立ち入れる形状を成していない。人々は止めたが彼の意思は堅固であった。

 結局、修道士が故郷に戻ることはなかった。滑落か、土砂にでも飲まれたか、原因は定かではないがともかく彼は命を落とし、秘蔵の手記とともにこの世を去った。

 以降、その求道ぶりと手記に惹かれ多くの修道者たちがこぞってその高山に足を運ぶようになる。だが前人未踏は偽称に非ず、山は次々と修道者の命を飲み込んでいき、一時期そこらの修道院で人手不足が頻発したという。


「好きにすれば良いと申した手前、今さら目途の程を明かすつもりもないが……お前の『眼』からは、彼ら修道士たちと同様の求道ぐどうを感じる。果たしてお前の目指す場所が何処にあるのか、私の知る所ではないが……」


 自分には、修道士が掲げる行の完成や、修道誓願といった高尚な思想などない。隣人どころか、家族に話したところで鼻で笑われかねない絵空事。そんな娘の奇癖奇行を黙殺してくれる父に、遅まきながら大きな敬意と深謝の念が沸いてくる。

 徐々に落ち着いてきた動悸の経過を確認するように、服の上から胸を摩る。そこにある首飾りの形状を確かめると、少女はふらりと立ち上がった。




 * * *




 そのような寸暇を経て二人は塔の最上階へと至る。

 最後の階段を上がると、急遽開けた広大な居室の空間にケムリはしばし虚を突かれ無防備に口を開けた。

 広大とは言うものの開放感はなく、内部のほとんどは背の高い書棚で埋め尽くされていた。天井は高く、壁という壁には漏れなく本の棚が埋められている。書棚の間から奥を覗き見る。先にはささやかな書斎と寝床があったが生活感と呼ぶには程遠い。都の国立図書館を引き合いにしても、その蔵書の膨大さには眩暈を覚えるほどである。


「ここが最上階、と主様は仰いましたが……」

 本棚の合間を漫遊しながらケムリは囁くように言う。


「不思議か」

 幾度か頷く少女を見つめ、主は何故か言を曇らせる。

「世には自分の理解に及ばぬ事象が数多く存在する、とお前は言ったな。私がそれに同調したのは、この空間の存在も一つの由縁と言える。つまり、私にも分からんのだ。何ゆえこの細い塔が、かように厖大ぼうだいな階層を支えて建っていられるのか」


「この塔は、主様が建てられたのですよね?」


「私はそのつもりでいるが、そうではないらしい。私の意図せぬ所で、私の目を盗みながら――塔が自ずとをしているのだから」

 これ以上の説明を求めるな、とでも言うように彼は顔を逸らした。


 ケムリはまた何か言葉をかけようとしたが、そのとき、書棚の狭間の向こうから小さな呻き声がした。

 ぎょっとして声のした方へと視線をやる。風の軋みを除き重々しいほどの静けさに包まれたこの空間において、声は明らかに異質であった。


「居るか、わっぱ」塔の主は書棚の向こうに声を掛ける。


「童ですか」

 足取りを早める主の後ろに着きながらケムリは尋ねる。主は辟易とした息を吐く。

「お前以外にも居るのだ、迷い子が」


 迷い子と聞いてとっさに想到せぬケムリだったが、少女は確かに一度彼の姿を目で捉えていた。ただ「そういう事もあるだろう」と心に秘めてしまったせいで、すっかり記憶の隅へと追いやられていた。

 よくよく考えてみれば彼の存在は異質に他ならない。この城塞国は塔の主の長年の呪いにより、完全な霧遮蔽の庇護のもと隠蔽されている。霊性を嗅ぎ分ける『眼』でもなければ、ケムリのような異邦者が迷い込む余地は微塵もない。


 生きて動く少年、とケムリは思い返す。


 書棚の側板で隠れるようにして、その少年は蹲っていた。歳はケムリより幾らか下のよう。纏った衣服はみすぼらしいほどにで、思わず鼻を摘まみたくなるような異臭を醸している。斜め下方に目をやり、両指を絡ませ絶えず手指を蠢かせている。時折呻きを上げたかと思えば意味の通らぬ言葉を発し、少年は一人、にやにやとほくそ笑む。

 何かをしているようで何もしていない、そんな印象をケムリは抱いた。


「何処ぞからやってきた白痴の子でな。ひと月ほど前だったか」

 主が言う。

「この国は余所者を拒まぬ。お前にしろ、この童にしろ、霧を掻い潜ってきたからには霧の民としての資質がある。結果として民にならぬまでも、霧そのものには馴染めるであろうと。そして、過去にも馴染めなかった例はない……はずだったが」


 主は一度言葉を切り、腰を屈めて少年に顔を合わせる。一向に焦点の合わぬ眼を見つめながら、矢張りというように首を振る。

「これは童を通して知ったことだ。我が霧の術は、どうやら対象の知性に依存するようだ。童のような白痴、嬰児、痴呆の老耄には効果が薄い。だからこの子は深い霧中でも生きて動けるし、霧の恩恵もさほど見られぬ。なのに不思議と、この塔を己の棲み処と思い込んでいる節があるらしい。生きているようで死んでいる、という意味では霧の民との相違はなんら無いように思えるが……。ケムリよ、これは一つの提案だが」


 彼は黒々とした瞳で少女を捉え、思い掛けない言葉を口走る。

「お前が、この子を生死を決めてみぬか」

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