第10話 粗末な命
白痴の少年の発見から数刻が過ぎる。
霧の塔は書棚室を最上階に据えるが、実は更に上、屋上階へも上がることが出来る。
入り口は居室の一角にある。天井には抜き取られたような穴と
まず塔の主が屋上に上がり、続いて少年、ケムリの順に上る。
そこは吹きさらしの平坦な石造りであった。
敷地は広大で、端から端まで駆けるだけで息が上がりそうだった。都の子供たちを連れてくれば鬼ごっこや玉蹴りなどで一日を丸ごと潰してしまうだろう。この下に膨大な蔵書が埋まっているのかと想像してみると、ぞっとしない思いがする。
空に見える暗闇と星々にもう夜になってしまったのかとたじろぐケムリだったが、主によれば、ここでは常に頭上は闇に落ちて見えるとのことだった。
「塔の下を見よ」
言われた通り胸壁から真下を見下ろす。
雲が下にあり、雲海のせいで視界の大半が阻まれていたが、地上までは途方もない高さがある事が分かる。下はまだ昼であり、塔の上と下界では世界が切り離されているように感じた。普段の主が人世と離れた存在であることを、少女は仄かに理解し始める。
胸壁沿いに屋上階を周遊しながら、更に半刻。
意を決したケムリは屋上の中央へと向き直る。手持無沙汰に徘徊していた少年の手首を取り、「こっちに来て」と誘導する。
中央には石造りの高座があり、胴中には一振りの小刀が置かれていた。小刀は、先ほど主が用意したものであった。
ケムリと少年は小刀を挟み、正面から向き合うように座る。少年は石の上でもぞもぞしていたが、「そこから動かないで」と指示すると、彼は惑いながらも坐してじっとしていた。
ケムリは固い地面で居住いを定めるように何度か尻を動かす。やがて三角座りに落ちつくと、あとは少年の顔を見つめて押し黙った。
塔の主は少し離れた場所で折椅子を出し、足元に何冊かの書を置く。その中から一冊を選んで膝元で開くと、黙して書へと目を落とした。
* * *
自ら物事を語ることの出来ぬ白痴の少年の過去を明かしたのは、宿場の老婆であった。老婆が役する名読みの記録を塔の主は仔細に聴き取り、またそれを口伝いにケムリにも教えた。
少年はある罪を犯し国を追放された棄児であったという。
国とは、数年前に大飢饉と疫病により崩壊した南の都だった。それは健康な民が都を去るか否かという瀬戸際の時分。
小さな大工商を営んでいた彼の家では、増加の一途を辿る徴税により一家離散の危機に瀕していた。いち早く家を飛び出し姿を眩ましたのは、真っ先に我が子らを庇護すべき両親であった。
痩せ衰えていく二人の妹のため、少年は盗みに手を染めることとなる。
彼は豪商邸に入りライ麦パンと鱈の燻製を手に入れた。二人の妹にその全てを分け与えると、少年は満足げに微笑み自身はそれらを一切口にしなかった。
久しぶりの食事に喜び飛び跳ねる妹たちを眺めながら、次はどこへ盗みに入ろうかと少年は画策し、その足でまた家を出ていく。
金持ちや貴族の家を狙ってはたびたび盗みを働く少年だったが、不況のせいか、彼らでさえ碌な物を口にしていないことが分かってくる。だが妹たちのため草を食みながら食料を盗って回る。王政は機能せず自己の政治に手一杯で、彼の悪事が露見する事はしばらくなかった。
少年の罪が明らかとなったのは、最初に盗み入った豪商がきっかけだった。豪商は執着心の強い男で、逆にそんな性分だったからこそ一端の財を成し得たといえるが、ともかく彼は時間と手間を掛けて執念深く犯人を洗い出した。
少年は都の大広場で縛り上げられる。自分の命もここまでかと、彼は妹たちの顔を思い浮かべながら死を甘受し始める。
だが少年に死刑が執行されることはなかった。代わりに断罪されたのは、盗んだものを口にした幼い二人の妹たちであった。少年に課せられた罪の清算とは、二人の妹が民衆の前で惨たらしく処刑される様を、ただただ眺めるという事だった。
妹たちの四肢は醜く粗雑に分断され、しばらくの間路上に転がされた。忌み子の肉塊として、街の子供たちが可笑しげに肉を足蹴にする。解放された少年は怒りに震え子供たちに組みかかっていくが、大人たちに頭を殴られ、そのまま意識を失った。
気づけば自宅の床の上だった。妹たちを失った出来事を受け止めきれずしばし家中を歩き回る。古びた戸棚から、手の付けられていない黴びたパンや燻製が見つかった。
豪商の使いが訪れたのは間もなくの事であった。一包みの大きな布袋を少年に届け、特段の言もなく使いは去っていく。布袋に入っていたのは、人々の足型が付いた妹たちの肉塊であった。
袋を開き、妹たちの胴を晒す。彼女らの
* * *
ケムリは白痴の少年から目を離さない。
吹き晒す風を浴びながら外套も羽織らず、組んだ両手で潰れるほど膝を抱き、少年を凝視し続ける。
彼は死にたがっているのだと、塔の主は言う。だが彼には自決という発想がない。国を追放された後――自分は何かをしなければならないと、何かをやり忘れていると、そんな朧な意思だけを宿していた。彼はひたすらに野山を走り、森を徘徊し、そしてこの霧の国へと辿り着いた。
ケムリは目を離さない。
白痴の少年はあちこちに視線を這わせ、一度たりとも目の前の少女を捉えることはない。彼はきっと死を捜しているのだ、そう思う。
いつしか、ケムリの目からは熱い涙が溢れていた。
命の価値が失われた、と父は言う。
獣に喰われちまわねえかな、と城門前の青年は言う。
不幸の時代に産まれたな、と塔の主は言う。
そして、世界はいずれ崩壊する、とも。
少女には受け入れ難かった。
この世に生を受け、この世で生を全うする。それだけでいい。人生を面白可笑しく謳歌したいという欲もない。人が生き、人が住まう地で、ただ人らしく生きる。それだけでいいのに。少女には彼らが頭から諦めているようにしか見えなかった。人類はもう終わりだと、諦めて死を受け入れよと。表面では抗い嘯きながらその実、可能性を自身で断っているようにしか思えなかった。どうして赤の他人がわたしたちの生まで否定する。何故、自らで命を粗末にしなければいけないのか。わたしたちはただ生きていくことさえ許されないのか。
少年と対面したまま夜が訪れ、そのまま一晩が明ける。
月夜で妖しく光っていた鈍色の小刀は、やがて昇る朝日を浴びて照り輝く。
少女が三角座りを解き膝を立てたのは、そんな刻。
主は書を閉じ、目頭を揉んで佇立する少女を注視する。その一部始終を黙って見ていた。
ケムリの手には小刀が握られていた。
少年は魂の灯らぬ目をする。歩み寄る少女にこれといった反応も見せず。
彼女は小刀を握った右手を少年の胸元に近づけた。そこで幾許か静止し、意図が汲めぬとばかりの少年を見据えると、左手で彼の手を取り、小刀の柄を触らせた。
無音が場を支配している。
鳶が塔を周回し、ひょろろろ、と甲高く鳴く。
ぽたりと、一滴の血が足元に落ちた。
ケムリの腹部に小刀が深々と突き立っていた。そのまま少年の手を握り、刃を横へと滑らせる。そうすることで鮮血は量を増し、夥しい噴血が二人を汚した。
ケムリは自分の腹を見下ろす。
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