第7話 聖戦
溜まった鉛が溶け切り、半身を起こす。
寝床から降り立ったケムリは、嘘のように軽くなった身体にほのかに感動し、その場で何度か上下に跳ねた。
「重みは解けたか」
塔の主は膝を立て、ぬっと立ち上がる。恐ろしく背の高い男だった。彼と視線を合わせるためにはうんと首を捻らねばならず、ケムリは霧の塔を見上げた際を思い出した。
主は襟頭巾の下から目を細める。虹彩は漆黒のごとく暗澹としていた。ケムリはこのような黒々とした瞳を持つ人種を知らない。
彼は手の甲で頭巾を払い顔を見せる。
「名は何と」
有無を言わせぬ問いに、少女は力無く唾を呑む。
「ケムリと申します。この度は主様への拝謁もなく長期の在国、大変失礼いたしました。わたしは西の都から参じました、しがない行商の者で……」
「目途の程はよい」
主は頭巾を被り直しながら話を遮る。
「名も無き廃国同然の小さな領土だ。何れの異邦ものであろうが、野山の犬猫であろうが、余所者を拒めるほどの権勢も持ち合わせておらぬ。己が気の赴くまま見て回るがよい」
彼は部屋を出ると、下り階段に一歩足を降ろしケムリを振り返る。
「強いて目当てを挙げるとすれば……私か」
ケムリは躊躇いがちに頷く。
そうした少女の遠慮がちな年相応の態度が微笑ましいのか、塔の主は小さく笑う。
「何度も言うようだが、お前の好きにすれば良い……」
* * *
塔の主は遊行を再開する。
ケムリはその後ろに着いて回りながら、主が人々へと語りかける教義を盗み聞く。彼の口からは異国の言葉が発せられ、ケムリにはまるで訳読不能であったが、語調の節々には民を想う温かみが含まれているようだった。一見すれば少女が想像していたような『洗脳』や『そそのかし』とは別物であるように感じる。だが依然として、安易に心を開いてはならぬと惑う心も芯に残っていた。
また一人布教を終えた。それはケムリより幾らか幼い童女であった。
彼女はたった一人、元は農業区であったと思しき荒れ地で立ち尽くし、痩せたポプラの木を見つめていた。
主が声をかけると童女は淡い会釈だけをし、あとは何事もなかったかのようにポプラへと視線を戻した。主は薄い教典を手に、黙々と教理を説いていく。
「あの娘の両親は、あの木で揃って首を吊ったそうだ。件の飢饉の最中、農家の彼らにとってどれ程の痛手であったのか、及びもつかぬ。盗人になるくらいならと断魂の思いはあっただろうが、何故あの子を置いて逝ってしまったのか……」
童女から離れた後で主がそう言った。
「十五年前の大聖戦の事は知っておろうが、時にケムリよ。歳はいくつか」
「十三です」
主は頭巾の下で一度、唇を結ぶ。
「そうか、不幸な時代に産まれたな」
ケムリは返しかけた言葉を留める。
過去行われた大帝国規模の戦争について、そのあらましは父から聞かされていた。戦争を経て「世界は不幸になってしまった」と、「人の命の価値が希薄になった」とも。十五年前以前と比べた現状を、父は飽きもせず毎日のように嘆いている。
日々の糧にさえ困窮する生活を、少女は当たり前として生きてきた。これはケムリの家庭だけに留まらず西の都全体の問題となっている。戦のために多くの人宝を失い、都内外の土地は荒廃を極めた。食料や水を巡って巻き起こる諍いは日を追うごとに増えていく。
南の都などは飢饉や疫病が猖獗しとっくに崩壊してしまったと聞く。病理の温床たる病人を捨て置き、皇帝もろとも健康な民は一人残らず都を去った。残った病人だけではどうすることも出来ず、あとは緩やかな死を待つのみで、また病人を見捨てた皇帝は王位を失脚した。後任を巡った内紛の末、南の都は事実上の亡国となり幕を閉じる。
あの戦で人々が得たものは何一つない。加えて、この戦いはある重大な謎を孕んでいた。
十五年前の大聖戦は、国と国との争いではない。
むしろ国々は団結し、人類選抜の結晶とも言える軍隊を作り上げた。対する相手は五千にも満たぬ小さな一個師団だったという。
そのような規模であればそもそも同盟するまでもなく、都一つで対処できる案件であるはずだった。事の顛末は文献に残ることもなく、また聖戦に関わった軍や王侯は一人として余さず皆殺しにされたという。
諸国が同盟を組んでまで勝てなかった相手とは何者なのか? その一個師団とやらはどんな旗を掲げ、何を欲しさに我々と取り合い争ったのか……。
「私は、あの戦の生き残りだ」
主の言葉に、ケムリは一瞬言葉を失くした。やがて首を振り息を整えるように声を出す。
「あの戦の関係者に生き残りが居るはずありません。だから伝承は曖昧なままなのです。原因が分からなければ対処のしようもなく、故に草の根はただ不況にあえぎ日々を耐え忍んでいるのです」
「十五年。残党が口を噤み続けるには十分な年月だとは思わぬか」意に介さず、塔の主は口ずさむ。「口を噤まねばならぬのだ。世は衰退の一途を辿るが、口を噤む、それだけでささやかな延命となる。口にすれば動き出すのだから。まだ戦う気力のある者が残存していたかと、彼らはすぐさま矛を手に取る」
「仰っている意味が分かりません。その、彼らとは……」
主は小さく唸り、「『天使』と言い現すのが、現状の最穏当ではあるだろうが」と、霧の塔――さらにその上空を仰ぎ見、そう零した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます