第6話 遊行と導き
それから三日三晩、ケムリはそのほとんどを寝床の上で過ごした。
遊行が始まるまでに他にやる事がなかった、というわけではない。塔へ辿り着けぬまでも別角度からの調査を試してみることも出来た。宿の修繕にも手を付けていない箇所があったし、暇つぶしに街の散策や、獣に喰われたがっていた城門前の青年の様子を見に行っても良かった。名目上の目途ではあったが、実際にこの国を相手に商いの手を伸ばしてみたって。
いずれにしても、ケムリには悠長に安逸をむさぼる
父との別れ際に十日で都へ戻るよう言いつけられている。西の都まではそう離れていないだろうが、歩き通して丸一日で足りるかも分からない。
たった一人の家族である父に見放されてしまえば、未熟な商人見習いである自分はきっとものの数日で野垂れ死んでしまうだろう。
ところが一切に構わず、少女には何かをしようという気が起きなかった。
頭の中で次々と浮かぶ杞憂や焦燥は泥流がごとく体外へと吐き出されていく。身体は日を追うごとに気怠さを増すようで、思考もどこか暗鬱としている。
一番の問題は、ここ数日間自分が何も口にしていないということだった。パンの欠片も、水のひと掬いもである。それでいてお腹が空いたり喉が渇いたりという事もない。相変わらずまともな活動も出来ないのに存亡の危機すら感じず、わたしはただこうして天井を凝視していれば良いのだという気分までしてくる。
自分は何かの病気にかかってしまったのだろうか。ケムリはぼんやりと思う。
億劫さを堪えて寝床を立ち、一階の老婆のところで今の不安を零してみたこともあった。
「考えたって始まらんこともあるでね。遊行まで、今はただ寝とったらええ」
老婆の言葉は蜂蜜菓子のように甘く沁み渡り、益々少女を寝床に貼りつかせて離さなくなった。
そうして少女は、欲望の赴くがままに惰眠を貪る。
何度目かも分からぬ夢を見た。
夢はいつも同じ内容で、身体を丸めた自分がだだっ広い暗空間を緩やかに漂うだけのものである。ときおり星々が瞬き、巨大な岩の塊が宙を舞い鼻先を掠めていった。辺りにはおよそ大地と呼べるものはなく、足の着けそうな場所も見当たらない。が、それで不自由ということも特になかった。何故なら、足が着いていなくともこの空間には落下というものがなかったからだ。
万物はすべからく天から地へと落ちていくものだ。
そう人々は言う。だが少女にはそれを真に受け取ることが出来ない。たびたび見るこの夢が原因でもあったし、物が下へと落ちずその場に漂うだけの空間も、この世のどこかにはあるのではないか。そんな出所不明の幻象と、信念じみた思想を持っていた。
そのような惰眠にも飽くると、蜘蛛の巣の張った天井をじっと見上げて過ごした。
数日前の自分であればいてもたってもいられず、すぐさま竹箒の穂先を伸ばしただろう。
あれは蜘蛛の巣だ。……だから何だと言うのか。自己の思考の様変わりにすら鈍感になっていき、寄せては返す眠欲のなすがまま身を委ね、少女はまた闇の彼方へと旅立つ。
* * *
この国に訪れて七日目の朝だった。
自分にまだ日数を気にするような発想が残っていたのか、とケムリはささやかに驚く。それは転じてここ数日におき自分の意識が最もはっきりとしているという証拠でもあった。
ケムリは目を見開いたまま想定外の奇景に動揺する。視界がいっぱいに霧に覆われていたからだった。そのせいで、自分が今どこに居るのかを瞬間見失いかける。背中の柔らかな感触から、わたしは相変わらず寝床の上にいるのだ、というのが辛うじて分かった。
部屋の様子どころか数寸先の視界さえ定かではない。水滴の粒がまとわりついて全身がじっとりと濡れていた。霧だの靄だのはさんざん見慣れてしまったが、屋内までとなるとあまりに突拍子もない。自分はまだ夢の中にいるのだろうか? 現実に目を向けるのが恐ろしくなってくる。
――霧が最も深くなる頃、
ふと老婆の言葉を思い出した。ならば、まさにこれこそが遊行の時ではないだろうかと思う。
依然として身体は鉛を持ったように動かない。
ならばとケムリは目を閉じ、霧に覆われた我が身に神経を集中させた。そうすることで五感を研ぎ澄まし、少しでも現状を把握しようと努めた。
霧はきっと屋内外に問わず国中に蔓延していることだろう。その様を想像してみた。
霧粒を自身の肌と地続きとすることで、徐々に空想の幅を広げていく。
不思議なことに、そうすることで空想が実体を持ったかのような鮮明さを見せ始めた。五感は我が身の感触に留まらず、まるで国そのものと一体となっていくようだった。
たとえば一里先に居る人間の些細な動きであろうと、細かい水の粒が振動し、その動きがこちらまで伝わってくるという感覚だ。同様に話し声は音の波となり、感情は風の揺らぎとなり、肌を通して我が身へと伝播してくる。
霧は母の羊水ように優しく国全体を包み込む。その範疇にある全てを把握できるようで、また、自分もその一部であるという気がした。
ふいに、遠くの街道に塔の主の存在を感じた。
それが主以外の人物であるとは考えられなかった。裏付けや確証はないものの、ケムリにはそれが塔の主人であるとしか思えなかったのだ。
彼――彼女?――は鳶色の外套に身を包み、襟頭巾を目深に被っている。右手には
そこまで認識して、ケムリは自身の感覚の研鑽ぶりに驚く。存在の挙動だけじゃなく、その詳細な容貌までを感じ取っている。瞼の裏にくっきりと塔の主の姿が射影されている。
主は国中を徘徊する。路上でうつむく人々を見つけては腰を降ろし、彼らの耳元に何事かを囁きかける。声量の程は限りなく微細で、言の一つずつを判別することは難しい。が、それは聞いたこともないような宗教による教義や訓導のようである。内容は個別に使い分けられ、その人に適した教理を説いているらしい。
誰も彼もが無気力な死人も同然なのにどうして訓導に違いが生まれよう、とは思うが、恐らくそこには主なりの裁量があるのだろう。
ケムリには遊行をする主の行動の一つ一つが手に取るように分かった。寝床から天井を仰いだままひたとも動けぬくせに、羊水のごとき霧のおかげで仔細に伝わってくる。
そして、主がこの建屋へと刻一刻と近づいてきていることも。
突如、瞼の裏の射影が転瞬する。塔の主がこの宿場の一階にいる映像が見えた。まるで主が一瞬にしてそこへ移動してきたかのように感じられる。
息を呑み耳を澄ませた。階下で、塔の主と老婆が会話をするさざめきが聞こえてくる。これは霧を介さずとも直接届いた。
とん、とんと階段を上がってくる足音がして、ケムリは緊張で唾を飲み込む。
扉の前で足音が止まった。ぎゅっと目を瞑り、叫びそうになる思いを堪える。ぎい、と扉を開く音がした。
塔の主が、こちらを見つめている。それが分かった。ケムリは目を閉じたまま扉の方を見ることが出来ない。
「迷い子よ……」
心臓が跳ね上がる。声はすぐ枕辺からした。
ゆっくりと刻まれた声紋は低く、内耳の奥底へと反響する。
「口は、利けるか」
ケムリは小さく首を振る。実際唇は固く結ばれ、無理に開こうが見苦しい咽びしか出そうになかった。
「異邦の迷い子よ、お前は何の目的でここにいる。この国の人間になりたいのか。それとも……」
これにもケムリは、否定の意で首を振った。
「そうか……ならば済まないことをした。
左の手首にひやりとした感触があった。あまりの冷たさに吃驚し肩が震える。塔の主は優しげな手つきでケムリの手首を握っていた。その状態で暫時彼は黙する。恐る恐るケムリは目を開け、枕辺の存在を見る。襟頭巾の下で、彼は眉根を寄せ瞼を伏せていた。
その瞬間、体中に溜まった鉛が少しずつ溶け出していった。
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