九 幸せがある場所
ただいま。口にした言葉に瑠兎は驚いた。辺りを見渡す。祖父の家の玄関だ。狐につままれたような気持ちで靴を脱いだ。
神社で礼美が激怒し、一方的に会話を打ち切って去っていった。それ以来、瑠兎は上の空になっていたらしい。森澄と徳郎に頭を下げたり、家まで歩いてきた覚えはある。夢でみた光景のようで現実感がない。
「帰ろ」
独り言が口を突いた。そうだ、帰ろう。初めからそのつもりだったじゃないか。今からバスに乗れば、夕飯までに帰れるかもしれない。
二階に上がり、荷物をまとめた。スポーツバッグを肩から提げて階下へ向かう。居間に祖父がいた。座椅子に背中を預け、テレビを眺めている。帰るね、と声をかけた。引き留められるかと思ったが、祖父はうなずくだけだった。
仏壇にお参りをする。白木の箱があった。伯父の遺骨を収めた箱だ。ごめんね、と瑠兎は声をかけた。
居間へ戻る。一時停止をしたように、祖父は同じ姿勢のままテレビをみつめていた。畳の上に置いていたスポーツバッグを手にとり、肩にかける。じゃ、帰るね。瑠兎の言葉に、祖父はなにも応えなかった。マネキンのように動かない。
襖の金具に手をかける。後ろから、漫才にドッと笑う観客の声がする。瑠兎はふりむいた。
「おじいちゃん」
なにか口に含んでいるのだろうか。祖父の顔は細長かった。顔の筋肉が伸び切ってしまったような、そんな横顔だった。
「どうして伯父さんを家に入れなかったの?」
ただの思いつきだった。土曜日に森澄が訪ねてきたとき、玄関で応対していた祖父は機嫌を悪くしていた。伯父は、ごく当たり前にこの家へ帰ってきたのではないか。なにか理由があって祖父は伯父を追い払った。そして伯父は死体となってみつかった。祖父は、伯父の行方を調査していた探偵にばつの悪い想いをしていたのではないか。
目が動いた。祖父の黒目だけが真横に動き、去っていこうとしている孫娘の顔をとらえる。
「わからんかった」
「え?」
「髭を生やして、やつれて……怪しい者だと思った」
瑠兎への関心をなくしたように祖父の視線が宙を泳ぐ。ひくひくと下瞼がひきつっている。
「よくテレビでやっとるオレオレ詐欺だ、身内だとか言って騙して金を持ってく、そういう奴だと……」
足元で、どさりと音がした。瑠兎の肩からスポーツバッグが滑り落ちた音だった。祖父の瞳に涙が溜まっていく。
「なんで、あのとき……なんで……」
祖父の声は、ほとんど意味のとれる言葉にならなかった。溢れる涙が頬をつたっていくのを拭おうともしない。祖父の肩へ手をかけると、瑠兎は動けなくなった。どうすればいいのかわからなかった。
薄闇の
自分の息子の顔がわからない。そんなこと、本当にあるんだろうか。六十代の半ばとはいえ痴呆を疑ったほうがいいのだろうか。
一方で、祖父の気持ちもわかる気がした。勘違いは心に下地があると生じやすくなる。行方不明になった息子への恋しさや不安があっただろう。口では平静を装っても一人暮らしに不安はつきものだ。弱みを見せまいとする頑なな気持ちが、息子の顔を不審者に見せたのかもしれない。
一時は取り乱していたが、やがて祖父は落ち着いた。瑠兎のほうがよっぽど動揺していた。携帯電話で母にどうすべきか相談した。「何時に帰れるの?」ピントの呆けたことを言う母に瑠兎は怒り、こっちに来てよと頼んだ。
「大丈夫よ。おじいちゃんだって大人なんだから、滅多なことにはならないから」
母の呑気な言い草に、かえって瑠兎は不安を煽られた。滅多なことってなんだ。私が帰った後でおじいちゃんが早まったことでもしたらどうしよう。きっと瑠兎の言葉は支離滅裂になっていただろう。長い沈黙が続き、やがて母の声がした。
「おばあちゃんのお葬式のこと、覚えてる? あんた、お父さんの顔がわからなかったの」
忘れたわけじゃない。葬儀場に人が多くて見分けにくかっただけだ。内心の恥ずかしさを押し隠しながら瑠兎が言い訳すると、母は「はいはい」と言った。
「あのねえ、お父さんとよりを戻したの、あれがきっかけだったの」
娘が父親の顔を忘れたことに不憫さを覚えた。責任を感じて父に連絡をとった。そこからトントン拍子、てわけにはいかなかったけどね。歳月をふりかえったのか母は長い溜め息を吐いた。なにを言いたいのかわからない。瑠兎が首を傾げるのを察したのか「だからさ、」と母は言葉を続けた。
「なにがきっかけで良いほうへ転がるのか悪いほうへ転がるのか、わかんないのよ。あんたがお父さんの顔を忘れちゃったから、お父さんとまた暮らせるようになった。おじいちゃんが伯父さんの顔を忘れちゃったから、二度と会えなくなった」
それは、そういうものなの。そんときそんときで自分が良いと思ったことをがんばるしかないの。母の声は、まるで自分自身に言い聞かせているかのようだった。
「お父さんのこと何度も勝手だと思った。気持ちが通じないと思った。おじいちゃんだって、伯父さんだってそうよ。でもね、みんなそれぞれ一生懸命にがんばってるの。がんばるのは自分にしかできないの。人の分までがんばるなんてできないの。そりゃ、やり方が良くないとか、ダメな人だと思うことはあるわよ。失敗することなんて何度でもある。でも、その人なりにがんばってるの。お母さんだってがんばってる。みんながんばってるんだから、なるようになるさ。それくらいに考えておけばいいの」
なんとかならなかったらどうするの。そう疑問を口にすると「死にたくなるくらい後悔して、休んで、またがんばるの」と母は言った。大人というものはどうやら大変らしい。
二階建ての公民館が見えてきた。神社と同様にここも普段は人がおらず、窓や玄関に明かりはない。建物の前は公園で、遊具が並んでいる。遅い時間のせいか誰の姿もない。
ブランコ、雲梯、ジャングルジム。遊具を横目に眺めながら歩くうちに記憶を刺激された。クラスに一人、鉄棒が得意な女子がいた。小学四年生のときだったか、隣の市へ引っ越すため教室を去ることになった。
先生の提案で寄せ書きを贈ることになった。回されてきた色紙を前に、瑠兎はマジックペンを手にしたまま考えあぐねていた。その子とはたまに会話を交わした覚えがあるだけで親しいとまでは言えなかった。悩んだ末に「ずっと友達でいようね」としたためた。
あの子は今どうしているだろう。けっきょく別れの後は手紙ひとつやりとりしなかった。寄せ書きを目にして、たいして仲の良くない子から友達呼ばわりされて、どんな気持ちになっただろう。
記憶を探っても、その女子の名前を瑠兎は思いだせなかった。どれだけの偶然だろう。祖母の七回忌に伯父の死が重なった。森澄に頼まれて礼美と会うことになり、バスで帰ることになった。公民館に来て鉄棒が目にとまった。こんな奇跡みたいな連鎖がなければ、あの子のことなんて思いださなかった。
不思議だ。どこかで彼女は生きているだろう。ご飯を食べたり、誰かとおしゃべりしたりしているだろう。瑠兎が思いだしたとたん、急に彼女が存在し始めたような。このヘンテコな錯覚はなんだろう。
(逆かも)
きっと彼女のほうこそ瑠兎のことなど忘れているだろう。存在しないのは、自分かもしれない。
バス停の近くにある、屋根付きのベンチへ足を進める。冷たいプラスチックの座面を手で払い、腰を下ろす。
(ちがう)
自分はなにがしたかったのか。
(ちがうのかも)
伯父を殺した礼美を罰したかったのか。ちがう。きっと、そうではない。母や祖父ならともかく瑠兎と伯父との関係は希薄だ。それならどうして必死になったのか。森澄に促されたとはいえ、いつもの瑠兎ならあんなことはしない。引っ込み思案で他人に強くでることのできない性格の自分が、なぜ礼美に人殺しの疑いをかけたのか。
(認めよう)
認めるしかない。自分はずっと礼美のことを気味が悪いと思っていた。小学四年生の三学期、ひさしぶりに登校してきた礼美に違和感を覚えたときからずっと。不気味だと思っていた。理解できない、話が通じない子だと思い続けてきた。超然としていて、人と距離を置き、冷笑している。そんなふうに感じていた。けれどそれは本当の礼美だったのか。自分が、自分たちのほうが、勝手に礼美のことを冷たい人間だと思いこもうとしていなかったか。
(私って、普通だ)
あの子の気持ちを想像せず、自分に都合よく解釈して。みんなと同じようにふるまえば面倒なことにはならないと賢く判断して。
(普通の人でなしだ)
誰かがベンチの端に腰を下ろした。物思いにふけっていたせいで足音に気づかなかったらしい。そちらへ視線を向けると、瑠兎は目を瞠った。長い黒髪の少女が座っている。神社にいたときと同じグレーのパーカーを着たままだ。
「どうやって――」
口からでかけた疑問文を瑠兎は呑みこんだ。瑠兎がバスで帰ろうとしていることは祖父からでも聞いたのだろう。知りたいのはそういうことではない。
「中学のとき」礼美が口を開いた。
「授業中に私が気を失ったの覚えてる?」
ああ、うん。瑠兎は生返事をした。
「英語の授業で、先生が黒板に書いた単語を目にして」
ぜんぶ思いだした。礼美の顔は夕焼けに赤く照らされ、半分は翳っている。
「思いだしたって、」
瑠兎は言葉を途切らせた。今、礼美は認めようとしている。徳郎から催眠療法を受けたことを、二重人格の状態にあることを。
「記憶を取り戻すためのキーワード、英単語だったってこと?」
「たぶん英語と数字の混じった、でたらめな文字だと思う。それを左右反対にしたやつ」
瑠兎は納得した。キーワードが目に入りがちなものでは生活に不都合が生じる。アルファベットと数字の混じったランダムな文字列にして、用心のため鏡文字にした。ところが、それが裏目にでた。
小文字のbは左右反対にすればdになる。数字の2は、書き方によっては左右逆だとsに見えるだろう。教師が板書した英単語は、礼美の記憶を回復させるキーワードと偶然にも一致してしまった。
「母親の記憶がないの」
視線を上げて、礼美は遠くをみつめた。写真の中の光景のようにどの遊具も微動だにしない。
「子供の頃のこと、ほとんど思いだせなくて。たぶん母親の記憶を削るとき、一緒に封印するしかなかったんだと思う。誰にも説明してもらえなかった。なにされたのか、ぜんぜんわからなかった。知らないまま登校して、クラスのみんな、すごくよそよそしくなってて」
軽い吐息がした。礼美はうなだれ、地面をみつめた。
「中学のとき、たまたまキーワードがみつかって。私、保健室の窓ガラスに頭から突っこんだんだってさ。死のうと思ったんだろうね。ぜんぶ記憶が蘇って、病院に運ばれて、叔母さんから昔のこと聞いて。それでようやく自分がなにされたのかわかったの」
「森澄さんの話、認めるんだ」
「私、別に自分が二重人格ではないとは言ってないもの。肯定も否定もしてない」
「そっか」
「そうだよ」
「今の礼美は、記憶のないほうの礼美なんだ」
「そういうこと。ぜんぶの記憶があるほうはね、なんていうか、ダメ人間。夜とか週末とかね、ときどき入れ替わってるの。一時間だけとかだけど」
「どうして?」
「私のほうが偽者だから」
なにか瑠兎は言おうとした。ぐう、と言葉が喉に詰まった。
「偽者なんだよ、私は。でもね、本物の私はまともに生きていけないの。せっかく入れ替わっても、なにもしようとしない。部屋でボーッとしてるか、散歩するか。日記を書いてもらっているからわかるんだけど」
瑠兎の推測は当たっていた。飛石家ではかつて汐帆会の集会が開かれていたという。台風が来た日だけでなく、これまでも何度か礼美は昔を偲ぶため無断で侵入していた。日記の記述を信じるかぎり、すべての記憶があるほうの礼美はまったくの偶然から伯父の死体をみつけたことになる。
日記には、幼い頃に落書きをしたことも記されていた。ただし大金を持ち逃げした「えらい人」を描いたかどうかまでは記述されていなかった。
「他に誰かと話をしたりはしていないの?」
「人と会うのは絶対に無理みたい。生きているのがつらいって、初めの頃の日記はそればかり書いてた」
「叔母さんが、優しくないとか?」
「ちがう。ちがう、そういうことじゃないの。治らないの。心が壊れるって……本当にどうしようもないんだよ」
ずっと誰かに打ち明けたかった。かぼそい声で礼美は言った。瑠兎は瞼を細めた。自分は今、なにを言えばいいのだろう。
「疑って、ごめんね」
「まったくだね」語尾に失笑の響きがあった。
「なんてね。私だって、私がわからない。記憶のないときの私が、宍戸さんの伯父さんを殺したのかもしれない。私には本当のことなんてわからない」
「ごめん、そうじゃないの。神社にいたときは気づかなかったんだけど……私、見かけたの」
「誰を?」
「礼美を」
台風が間近に迫る頃、母の運転する車で祖父の家へ向かう途中。東修蓮高校の近くで、自転車に乗るセーラー服の少女を車窓からみかけた。
「礼美が学校の近くで自転車に乗ってるところ、たまたま見かけたの。学校からここらまで一時間くらいかかるでしょ? 礼美が寄り道せずにまっすぐ帰ったとしても四時半くらいになるはず。犯人は遅くとも四時前にうちから植木鉢を持ち去ってるの。だから礼美は犯人じゃない」
「本当に犯人が植木鉢を運んだとは限らないじゃない。どっかの子供が悪戯で持っていったとか」
「そんなこと言ってたら、きりがないよ」
「いいの、私にはそれで充分」
瑠兎は違和感を覚えた。充分とは、なんのことを指しているのか。言葉どおりに解すれば、礼美が礼美の中にある別人格を疑うのに充分という意味になるが。
――地方では、なにが起きても不思議じゃないんですよ。
不意に、迷子の顔を思いだした。そうだ、きっとそうなんだ。この町ではなにが起きたって不思議じゃない。だから、もっと考えるんだ。「子供の落書きで連想したけれど」なにかに憑かれたように瑠兎は口を開いた。
「あの落書き、おかしくない?」
「なにが」
「どうしてあんなところに書いたんだろ」
「小さい子なら、どこに落書きしたっておかしくないけど」
「そうだけど、上の段なのはおかしいよ。小さな子供なら下の段にすると思う。背が低いから、足を掛けるところがないと上の段に潜るの難しい……あ、そうか!」
帰省した伯父、こめかみにできていた痣。初めてそれを目にしたとき、エレクトーンの練習をしていた。エレクトーンは中学の入学祝だった。
「ごめん、肝心なこと忘れてた。私たちが小学生のとき、伯父さんに痣はまだ無かったの。だから、あの落書きを礼美が小学生のとき書くなんてことありえない」
「つまり?」
「あの落書きは古いものじゃないのかも。礼美の中にある人格が、死体をみつけた後で書いた」
おや、と思った。ブルーシートを手にとったときの感触を思いだした。軽い音が耳に蘇る。ボールペンが床に落ちた音だ。シートの下に隠れていた黒いボールペン。
あの落書きが、礼美の中にいる別人格が残したものだとしたら。なんらかの筆記用具を必要としたはずだ。台所のテーブルには赤と青のボールペンがあった。黒いボールペンはブルーシートの下に隠れていた。けれど落書きに使われたのは、黒いボールペンだった。
どういうことだろう。礼美が使う前は見える場所に置いてあったのか。たとえそうだとしても、使った後でブルーシートの下に隠す理由がない。
こう考えたほうが自然だ。誰かがブルーシートを後から置いた。六時前に礼美が死体を発見し、落書きを残し、使った黒いボールペンはテーブルに残して立ち去った。その後で誰かが来てブルーシートをテーブルに置いた。気づかないまま黒いボールペンの上に置いてしまった。
その人物はなぜブルーシートを戻しに来たのか。いつ、なんのために持ち去ったのか。
「瑠兎、まだ時間ある?」
「え?」
瑠兎は驚いた。考えに夢中になっていたところを呼びかけられたせいではない。礼美の声が、今にも泣きだしそうに震えていた。
「私にはもう、どうにもできないから……ごめんね」
なんのこと? 瑠兎が訊いても、返事はなかった。礼美は屈みこむと小さな石を手にした。足元の乾いた土に石で線を刻んでいく。
「礼美?」
日が暮れていく。なにもかもが赤黒く染まっていく。公園は深紅の血に染まり、闇に蝕まれていく。ベンチの端に誰がいるのかさえわからない。
その人物は口を開こうとしなかった。まるで人の形をした闇があるかのようだった。がらんどうのマネキンがなにも思うことなくそこにある。
瑠兎は喉の渇きを覚えた。時間だけが過ぎてゆく。もしかしてという不安と、他にありえないという確信。それが交互に、波のように打ち寄せては引いていく。
「礼美」
知らなければならない。
「あなた――」
彼女の気持ちを知らなければならない。
「死のうとしたんだね?」
保健室の窓ガラスに頭を打ちつけた。記憶を取り戻した彼女が真っ先にしたことは、命を投げだすことだった。母親を喪った苦しみに苛まれ、この世から消え失せようとした。
「あなたは死にたかった。ずっと、ずっと死にたかった。だけどそれは許されなかった。もう一人の礼美がいたから」
ゆっくりと言葉を紡ぐ。慎重に推理の糸を紡ぐ。これまで自分が知ったすべてのことを総動員する。考えながら語り、語りながら考える。
「あなたにはすべての記憶がある。もう一人の礼美の記憶があなたの中にある。小学生のとき、私はあなたとうまくやり直すことができなかった。クラスの誰もあなたとの関係を修復できなかった。でも中学生になって、新しい友達ができて、ちゃんと普通にふるまうことができるようになった。あなたが死を選ぶともう一人の礼美も道連れにしてしまう。それはできなかった」
暗闇はなにも応えない。
「私の伯父さんの死体をみつけて、あなたはこれがチャンスだと思った。あなたが苦しみから解放され、もう一人の礼美はごく普通に生きていく手段をみつけた」
――けっきょく私が殺したかどうか、証明できてないじゃない!
神社の境内で、怒りのあまり大声をあげた礼美を思いだす。
――アンタなんかに私の、私の気持ちなんて……。
やっと、ここまで来た。あのときの彼女の気持ちにたどり着いた。あのときの礼美は、もうひとつの人格をこの世から消滅させてもいいのか、ずっと悩んでいたんだ。
「伯父さんを殺したのはあなただと礼美に信じさせれば、礼美はもう記憶を回復させようとはしなくなる。人を殺してしまったかもしれない自分を恐れて、二度とキーワードを目にしようとしなくなる。あなたはそれが狙いで、あの落書きを残すことで疑いの目を向けさせて――」
それで?
「だから……」
なにを言えばいいのだろう。どう言葉を続ければいいのだろう。瑠兎は喉元を押さえた。なにか、なにかあるはずだ。目の前にいる彼女のための言葉が。
(本当に?)
いったい自分になにができるというのか。礼美は言っていた。目の前にいる、すべての記憶があるほうの人格は治らないのだと。どうしようもないのだと。人前にでることすらできず死ぬことばかり願い続けている。
記憶に欠落がある礼美は自分こそ偽者だという負い目から、彼女を見捨てることができなかった。定期的にキーワードを目にして人格を交代させ、もうひとつの人格が更生するのを待った。完全な記憶を取り戻し、ごく普通の人間として生活したかっただろう。
その心は、完全な記憶がある彼女にすべて伝わっていた。けれど立ち直ることはできなかった。せめて礼美の心の負担とならない消え去り方を探していた。伯父の死体がきっかけをもたらしてくれた。彼女にとって千載一遇のチャンスだった。
それをたった今、台無しにした。
不用意な言葉で。探偵気取りの憶測を口にして、なにもかもダメにした。
「私、あなたに……」
生きろと言うのか。彼女に、生きていれば良いことがあるとでも言うつもりなのか。今、この町から去ろうとしている自分にどうしてそんなことが言える。どうしてそんな無責任なことが言える。これだけ長い間、彼女のことを思いやることができず、忘れ、そして傷つけてきた相手に、そんなおためごかしを口にするつもりか。
(そうだ)
御倉徳郎に相談すれば。いや、ダメだ。御倉は治療のために記憶を封印した。完全な記憶があるほうの彼女が消えてくれるなら、それで問題解決だと考えるだろう。
(それでいいんじゃない?)
彼女が消えてしまえば、それでいい。舞扇礼美はごく普通の高校生として生きていける。もう一人の礼美は生きていくことのつらさから解放される。それで別に誰も困らない。すべて解決だ。
(――本当に?)
本当に、彼女は消えるのか。
(ちがう)
ここに自分がいる。彼女の存在を知ってしまった自分がいる。
きっといつか思いだすだろう。もう一人の礼美がいたことを。絶望を抱えながら、それでも最善の選択を探して必死にもがいた女の子のことを。
「あの子の気持ち、わかる?」
礼美の形をした者が言葉を発した。
「良い子なんだよ、あの子」
私なんかより、ぜんぜん。それは暗い声だった。さっきまでの礼美の声とは、別人と言っていいほどに響きが違った。
「ねえ? 私がこのままキーワードを見ないでいれば、ずっとこの身体を乗っとっていられるのにね。私がその気になれば、死んじゃうことだってできるのに」
礼美の瞼から大粒の涙がこぼれる。頬をつたい、顎先から落ちていく。
「馬鹿みたい。私にだって、どうすればいいかわからないよ。記憶が欠けてないぶんだけ私のほうが頭が良いって、あの子ずっと思いこんでるみたい。本当にもう、ずっとずっとどうすればいいかわかんないの。部屋に閉じこもって、天井をみつめてさ。自分にいったいなんの価値があるんだろうって。そんな話、誰も聞きたくないよね。みんな自分のことで忙しいのに……だから、なにも言わなくていい。なにも言えなくていいんだよ」
瑠兎はベンチから立ちあがった。一歩、進む。静かに泣いている礼美の、すぐ隣に腰を下ろす。
「ごめんね」
肩を寄せる。耳元にささやきかける。身を屈め、スポーツバッグを引き寄せる。水色の表紙のメモ帳をとりだす。
「ごめん、私、なにもできそうにない。なにもしてあげられない」
顔が熱い。声が震えそうになる。白紙のページに、記憶している番号を書き留める。シャーペンを握る手が思うように動かなくてヘタクソな字になる。
「でも、愚痴くらいは聞いてあげる」
ページを開いたまま、礼美の手にメモ帳を押しつける。
「ほら、覚えて。これは私とアンタだけの秘密にして。もう一人の礼美には教えちゃダメ」
「どうして?」
「だって、もう一人の礼美には今の友達がいるじゃない。あなたの友達は私だけ。私たちだけが秘密を知ってる。そういうのって、なんか素敵じゃない?」
瞳を光が刺した。瑠兎が目を向けると、カーブを曲がったバスがこちらへ向かってくるところだった。「馬鹿みたい」礼美が笑った。
「いまさらアンタと友達だなんて」
瑠兎は返事をしなかった。いま口を開けば、強がっているのがバレそうで怖かった。バスが速度を緩めながら停留所に迫ってくる。スポーツバッグにメモ帳を戻し、ゆっくりと瑠兎は立ちあがった。
さよなら。背後から小さな声がした。ふりかえらず、歩きながら瑠兎は手を小さくふった。バスの乗降口が音を立てて開く。一歩ずつ瑠兎はそこへ近づいていく。
これで良かったのか。バスは見送り、今すぐ駆け戻ってあの礼美ともっと話をすべきではないか。この後、元の人格へ戻ってくれるのか。何事もなかったように明日の朝を迎えてくれるのか。
わからない。それは彼女が決めることだ。がんばることは彼女にしかできない。最善の選択はなんなのか誰にもわからない。わからないまま生きていく。身を灼くような後悔と覚悟を、狂おしいほどの懊悩と自嘲を重ねながら生きていく。
頬を涙がつたうのを感じながら、瑠兎はバスに向かって歩いていく。夕闇の中、バスの車内だけが幸せに満ちているように明るい。輝きが涙でぼやけてみえる。瑠兎の背後には闇が迫りつつあるのに。
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