八 お前は人殺しだろう
初めまして。森澄が軽く頭を下げた。肩章のついた半袖シャツに金ボタン、紺色のスラックス。どうやら船長をイメージした恰好らしい。礼美が、ぽかんと口を小さく開けていた。森澄の顔と服装、上下に視線をせわしなく往復させる。うんうんと瑠兎はうなずいた。
車椅子の老人を見下ろし、森澄がこちらはと言いかけた。「ひょっとして」思わず瑠兎が口を挟む。
「
テレビニュースで目にした覚えがあった。瑠兎はそれほど社会問題に関心があるわけではない。ただ汐帆会のことだけは例外で、何度かネットで情報を漁ったことがある。
徳郎はかつて「汐帆会の御用医師」「幻術使い」と仇名された元精神科医だ。去年、自宅で何者かに襲われた。犯人は徳郎の胸を刃物で刺して逃走し、未だに捕まっていない。汐帆会の内輪争いが関わっているのだろうと噂されている。
「こんにちは」
ライオンのたてがみじみた蓬髪に、黒縁の四角い眼鏡。老人は不愛想に唇を歪めたまま、ありふれた挨拶を口にした。薄いピンクのワイシャツにコーデュロイのサマージャケットは、若作りしすぎのようでいて似合っている。
瑠兎はそっと視線を横へ向けた。礼美の顔から、あの冷たい微笑が消えている。苦いものを噛んだ顔をして車椅子の老人を睨んでいる。初対面の相手に緊張しているのか、それともなにかを恐れているのか。
「御倉さんは若い頃に渡米して、独自の催眠療法を編みだしてね」
森澄が、口上を述べるように語りだす。
「帰国してからは主に汐帆会を伝手として、心の病を抱える人たちにその療法を施してきた。トラウマとなっているような、つらい記憶を忘れさせたんだ」
「そんなこと、本当にできるんですか?」
瑠兎が首を傾げる。徳郎の名前こそ知っていたものの、治療の内容は初めて知った。
「一時期、ネットで話題になっていたね。眉唾扱いされたせいか、あまり広まらなかったみたいだけど」
森澄は説明を続けた。徳郎の催眠療法は、記憶を完全に消去してしまうわけではない。患者ごとに異なるキーワードがあり、それを目にすると思いだすことができる。もう一度キーワードを目にすれば記憶は再び封印される。
「再び記憶が封印されると、記憶が蘇っていた期間に経験したことも併せて忘れてしまう。さて、問題はここからなんだ。キーワードを何度も目にして、記憶の回復と再封印をくりかえすと、どうなると思う?」
「えっと……」
瑠兎は顔をうつむけると、森澄の説明を頭の中でくりかえした。記憶を回復した状態では普通の人と同じだ。生まれてからの記憶がひとつながりになっている。封印しているときはそうではない。トラウマになった経験を思いだせなくなっている。くわえて、キーワードを目にして記憶を回復していた期間の記憶も失われる。ところどころ穴の開いた不連続な記憶になる。
「二重人格みたいになる?」
「そう。解離性同一性障害、いわゆる多重人格に似た状態になる。正確にはちょっと違うけどね」
二重人格ならば人格Aと人格Bの記憶は独立している。人格Aのとき見聞きした出来事を、人格Bは知らない。同じように、人格Bが経験したことを人格Aは共有していない。
御倉徳郎の催眠療法から生じる状態は違う。記憶を回復しているときを人格A、封印しているときを人格Bとする。人格Aは、人格Bの見聞きしたことをすべて覚えている。逆に人格Bには、人格Aのときの記憶がない。
「今の君は、どちらかな?」
森澄が、礼美の顔を覗きこむように顔を斜めにした。「なんのことですか」礼美の返事はかぼそかった。顔から血の気が失せ、紙のように白い。
「あいにく御倉さんは、ボクが頼んでもキーワードを教えてくれなかった。そもそも君が御倉さんの治療を受けたかどうか教えてくれなかったんだ。その代わり、この場へ参加させてほしいと頼まれた。どうするのが君にとって最善なのか、自分で判断したいってね」
車椅子の老人は、ほとんど動こうとしなかった。膝の上に行儀よく手を重ね、目を細めて礼美の顔をみつめている。患者の顔を観察する医師の顔をしている。
「そんなわけでボクも、君が本当に二重人格なのか確信はできない。じゃあ宍戸さん、後はよろしく」
沈黙が下りた。カリスマボーカリストみたいな探偵は、微笑みを浮かべたまま口を噤んでいる。「もしかして」瑠兎が口を開いた。「私が説明するんですか」
当然だよね? 森澄が瞼をパチパチさせた。本気でとまどっているらしい。
「舞扇さんを疑っているのは君なんだから」
「それは、そうだけど」
言われてみれば当然だ。昨夜、森澄は言っていた。対等の立場で情報交換と意見交換をしようと。堂々とした話しぶりに、このまま森澄がすべての謎を説明してくれるかのように錯覚していた。
そうじゃない。自分はテレビの前にいる視聴者じゃない。後部座席から指図だけしていればいい司令官じゃない。
(これが、探偵)
今していることは謎解きなんかじゃない。伯父を殺したのは礼美かもしれないという推理は本当に正しいのか、実証しようとしている。
(名探偵じゃない。ただの、探偵の仕事)
かつての同級生をみつめる。瑠兎はぐっと息を呑んだ。自分はこれから疑いをかけなければならない。衆目の前で、お前は人殺しだろうと言いがかりをつけなければならない。
「ごめん、見ちゃったの」
「なにを?」
「礼美が、あの家からでてくるところ」
台風が来た日のことを瑠兎は話した。祖父の家に着き、夕方六時近くに二階へ上がった。部屋の窓から飛石家のほうを眺めていて、玄関からでてくるセーラー服姿の礼美を目にした。
「土曜日に二人であの家に行ったとき、礼美、勝手口のほうは入れるか試さずに通り過ぎたよね。それって前の日に玄関を出入りして、そっちなら開いてるって知ってたからじゃないの」
「……わかった」
礼美が小さくうなずく。まごついた表情になった瑠兎に「慌てないで」と礼美は言い足した。
「私が認めるのは、あの家に入ったことだけ。散歩してて、興味本位で中に入ったの。あの人、もう死んでた」
「どうして通報しなかったの」
「怖かったからに決まってるじゃない。人の家へ勝手に入ったの怒られるし、自分が犯人だって疑われるかもしれない。でも、黙ってるのはさすがに悪いし、ちょうど宍戸さんが帰ってきてるって聞いたから。二人で初めてみつけたことにしちゃえって思ったの」
「ほんと?」
礼美は薄笑いを浮かべた。
「嘘だと思うなら、証明してみればいいじゃない」
瑠兎は瞼を細めた。昨夜、母の運転する車で、何度も礼美のふるまいを思い返した。一挙手一投足になんの意味があったのか想像を巡らせた。
「私と一緒に飛石さんの家に行ったとき」
玄関の戸に礼美が手をのばす。取っ手の金具に指先をかけるが、動かない。
「玄関、右側は鍵がかかってた。だから左側を開けて入った。それって、どうして?」
「どうしてって、なにが?」
「だって、その前の日も、礼美は飛石さんの家に入ったんだよね? だったら、右側の戸は鍵がかかってるの、知ってたはずじゃない」
台風が来た日の夕方、伯父をみつけたのはすべての記憶がある人格Aの礼美だったとしたら。そして翌日、瑠兎と一緒に飛石家の家へ行った礼美は、記憶を封印している人格Bのほうだったとしたら。
人格Aは人格Bへ、死体をみつけたことを恐らく文章で伝えたのだろう。人格Bはその伝言を信じ、伯父の死体を瑠兎と一緒にみつけるよう行動した。しかしその伝言には、玄関の戸が右側だけ施錠されているという細部までは記述されていなかった。結果、人格Bの礼美は右側へ手をかけてしまった。
息を吸う。強い言葉を探す。鍵盤を思い浮かべる。背筋を伸ばし、空想の指先をそっと鍵盤に置く。
「私の伯父さんを殺したこと、あなた知らされてないんでしょう」
礼美の顔に狼狽の色が浮かんだ。壁に亀裂が生じたのを瑠兎は感じた。
目の前にいる礼美が人格Aと人格Bのどちらなのか、瑠兎には判断材料がない。だからハッタリをかますしかない。人格Aの礼美が伯父を殺し、人格Bを騙しているのではないか。その可能性を突きつければ、目の前にいる礼美が人格Bならば間違いなく動揺する。
もちろん人格Bではない可能性もある。それどころか二重人格という前提すら間違っている可能性もある。それでも構わない。推理が外れていたら、また別の推理をするまでだ。大切なことは実証することだ。可能性をひとつずつ確かめて、前に進むことだ。
「ねえ、聞いて。物置の壁にある落書き、みつけたの。私がお母さんを連れて戻ってきたとき、見てたよね。でも、それってありえない。だって私の伯父さんと礼美をつなぐ重大な手掛かりなんだから、絶対に秘密にするはず」
飛石家の物置に落書きがあることを、人格Bは人格Aから教えられたのではないか。人格Bは瑠兎が戻ってくるのを待つ間にそのことを思いだした。人格Aは死体をみつけただけだと信じていたならば、手持ち無沙汰の解消に幼い頃の悪戯の痕跡を探してもおかしくはない。
「いい加減にして!」
礼美の大きな声に、思わず瑠兎はのけぞった。
「人を異常者扱いして、何様のつもり? わけのわからない理屈ばかりこねないでよ! 私が二重人格者だったとして、それがなに? けっきょく私が殺したかどうか、証明できてないじゃない! アンタなんかに私の、私の気持ちなんて……」
顔を歪め、ちぎれんばかりに目を見開く。言い足りないとばかりに唇をあえがせながら、礼美は視線をさまよわせた。不意にそれが途切れると、瑠兎に迫ってきた。
「ご、ごめ……」
つかみかかられると思った。だが、礼美は瑠兎に肩をぶつけただけだった。そのまま、すれ違う。石段のほうへ長い黒髪を揺らしながら小走りに駆けていく。かつての友人の背中を、瑠兎は呆然として見送った。
車道に覆いかぶさらんばかりに木々が枝を突きだしている。朱い空を眺めながら森澄は車椅子を押していた。神社から遠ざかり、ようやく坂の傾斜が緩やかになりつつあった。
「あれで良かったのですか」徳郎が口を開いた。
のんびり景色を眺めていた森澄は視線を下げた。車椅子に座る徳郎の白い髪が、夕日を浴びて金色に輝いている。
「なにが?」
「さきほどの話し合い、中途半端に終わってしまいましたが」
犯人扱いされたことに怒った舞扇礼美が憤然として立ち去り、会話は続行不可能になった。残された宍戸瑠兎は、気を取り直すと森澄に礼を述べた。表情は明らかに意気消沈しており、肩を落として帰っていった。
「しかたないよ、証拠がないのは確かだし。あのね、御倉さん。年下なんだから敬語はやめてほしいな」
年下、ね。徳郎はそう言うと、おかしな冗談でも耳にしたようにくぐもった笑い声をあげた。
「戻るつもりはないんですね」
不意打ちのように首を後ろへ捻じり、徳郎は森澄を見上げた。皺に埋もれた奥に、光を帯びた瞳があった。
「ないよ」
「本当に?」
「もうボクは、ただの探偵だからね。それ以上でも、それ以下でもない」
「そうですか……まったく、こっちから探しても逃げ回ったくせに……」
ぶつぶつと不満気に徳郎は言葉を続けた。聞きとることが難しいほどトーンダウンしていくと、盛大な溜め息を吐いた。首をゆっくりと左右にふる。
「もう、この年だ。いつ死んでもおかしくない。だから、まあ、これは
「うん」
「アレは例の場所に。妻に言づけておきますから、焼香のひとつくらいしていってください」
「ボクにはもう必要ない」
「人生は長い。どんなに固い決意も、変わらないとは限りません。それはあなたもご存知のはずだ」
そうだね。森澄は瞼を細めると、目を遠くへ向けた。長い下り坂に沿って田んぼが広がっている。稲の刈り取りが終わり、ひび割れた泥ばかり荒れ野のように続いている。遠い山の端が朱色に染まり始めていた。百年一日のごとく変わらない風景。
「私は、正しい選択をしてこれたでしょうか」
「わからない」
もうボクは、色が違うからね。そう言いながら森澄は道の先に目をやった。カーブの向こうから迎えの車が姿を見せたところだった。
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