七 彼女はあの子じゃない

 礼美が珍しい名字で助かった。電話帳で「舞扇」の番号はひとつしかなかった。恐るおそるかけてみると、コール音のくりかえしの末に礼美が電話にでた。明日、会えないか。話したいことがある。しどろもどろな瑠兎の頼みに、意外なほど簡単に「いいよ」と返事をされた。

 月曜日、祝日。火葬場から遺骨を携えて祖父の家へ戻った。瑠兎は両親に、先に帰っていてほしいと告げた。友達と会う約束をした。帰りはバスに乗るから一人で大丈夫。「仏壇にお参りしてから帰りなさいよ」と母は言った。

 家から徒歩で十分ほどのところにある神社へ向かった。おたがいの家だと家人に話を聞かれるかもしれない。この付近には話のできる喫茶店どころか飲食店の類さえ無い。他に適当な場所を思いつかなかった。

 杉の木がまっすぐ伸びている。日暮れまで余裕がある時刻なのに、陽光は黄昏の気配を帯びている。石段を上がりきると境内が広がっていた。石畳の先に古びた社があった。風雨にさらされ木肌がくすんでいる。この神社に神主はいない。集落の人たちが共同管理している。初詣や夏祭りのときはにぎわうが、普段は閑散としている。

 社の前にある短い階段に一人の少女が座っていた。パッと顔を上げる。

 束の間、瑠兎の胸に遠い記憶が蘇った。ここで大勢の子供と遊んだ覚えがある。あの頃も礼美は髪が長く、ポニーテールにピンク色のシュシュをしていた。そういえば、スピードを出し過ぎた礼美が自転車ごと用水路に落ちたことがあったっけ。あのときの膝の傷はどうなっただろうか。

 とっくに治ったに決まっている。夢から覚めた心地で瑠兎は元同級生をみつめた。礼美は一昨日と同じグレーのパーカーに、英字プリントがされたTシャツを着ている。いつもの皮肉めいた、人を嘲弄するような笑みを浮かべている。

「なんで制服」

 礼美の問いに、思わず視線を下へ向ける。学校の制服のまま瑠兎は着替えていなかった。火葬場から戻ってきたばかりだと礼美に説明した。

「ご愁傷様」

「どういたしまして」

 さて、なに言えばいいんだっけ。瑠兎は礼美の顔から目を逸らすと、境内を囲む木々を見上げた。息を深く吸い、ゆっくりと吐きだす。「ここ、よく遊んだね」ようやく口からでてきたのは、そんな当たり障りのない言葉だった。

「そう?」

「そうだよ。覚えてないの?」

 冗談めかしたつもりだった。しかし、返事はなかった。否定も肯定もない。意味ありげに礼美は笑みを浮かべている。どことなく、ぎこちない表情をしている。

(やっぱり)

 少女の双眸をみつめる。瞳を満たす闇を覗く。

(ちがう)

 この子は礼美ではない。かつて一緒に遊んだ同級生と、目の前にいる少女は違う。

 小学四年生のとき、年が明けてからも礼美の欠席はしばらく続いた。ある朝、なんの前触れもなく教室に顔を見せた。瑠兎は声をかけたが、やがて会話は不自然に途切れた。

 礼美の父親は県外へ転居したらしい。隣町にある、母方の叔母の家で礼美は暮らすことになった。瑠兎は学校でしか礼美の姿をみかけなくなった。教室では瑠兎を含め女子の誰もが礼美と距離を置くようになった。教師たちも礼美のことを腫れ物のように扱っていた。

 母親の自殺だけが原因ではなかった。かつての礼美はわがままなところがあった。やたら人に干渉し、あれこれ指図や要求をする。それは裏返せば面倒見が良いという長所でもあった。この子の言うとおりにしていれば間違いないという安心感があった。

 年明けからの礼美はそうではなかった。会話していると、たびたび齟齬を覚えた。家族を喪って心を痛めたせいだとは思えなかった。あまりにも超然としていた。むしろ礼美のほうが同級生たちを憐み、冷ややかにみつめていた。

 中学校で瑠兎は一度も礼美と同じクラスにならなかった。ときおり昼休みに、中庭で弁当を食べている姿をみかけた。他の生徒と一緒に談笑し、自然な笑顔をしていた。

 一度だけ事件が起きた。中学二年生のときだった。授業中に隣の教室からざわめきがした。誰かが気を失って倒れたらしい。昼休みに入るとサイレンが聞こえた。教室の窓から覗くと、校門から救急車が入ってくるところだった。

 後になって瑠兎は、保健委員をしているクラスの友人から話を聞いた。英語の授業中、教師に板書をするよう礼美が指示された。机から黒板までの、ほんのわずかな距離を歩く間に礼美は気を失って倒れたという。

 それだけなら、ひどい立ちくらみで話が済んだかもしれない。不可解なことが起きたのはその後だった。保健室のベッドで意識を取り戻した礼美は、窓ガラスに頭をぶつけた。意識が朦朧もうろうとしていたせいで起きた事故ではなかった。養護教諭の目の前で、制止する間もなく自分の頭を思いっきり打ちつけた。窓ガラスが割れ、破片が顔や首へ突き刺さり、礼美は血塗れになった。錯乱し金切り声をあげる礼美を養護教諭とその場にいた他の生徒たちが制止し、救急車を呼んだ。

 それから何日後のことだったか。放課後、人気のない廊下で礼美とすれ違った。礼美は頬や額にガーゼをあてテープで止めていた。いつもなら、おたがいに無視しておしまいのはずだった。けれど瑠兎は足をとめた。ふりかえり、礼美の背中に「大丈夫?」と声をかけた。

 礼美が立ちどまり、上半身だけ捻じってこちらを向いた。怯えた顔をしていた。それはゆっくり笑みへと変わっていった。あの超然とした、人を見下すような笑み。けっきょく、なにも言わずに礼美は歩き去った。

「それで、話って?」

 夢から覚めたように瑠兎は声のほうを向いた。いつの間にか礼美が社の前にある階段から腰を上げ、すぐ隣に立っていた。「えっとね」瑠兎は目を白黒させた。

「もう一人、ここに……あ、来た」

 石段からではなかった。車でも境内へ来られるよう、石段の脇にセメント敷きの坂道がある。そちらから森澄が姿を見せた。

 瑠兎は当惑した。森澄は一人ではなかった。車椅子を押している。髪に白髪の混じった老人が座っている。

「さて」鳥居を潜った森澄が、石畳の真ん中で車椅子を止める。

「始めましょうか」

 車椅子のハンドグリップから手を離すと、森澄は待ちかねたとばかりに手の平同士を擦りあわせた。

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