六 復讐という動機
外灯が迫っては遠ざかる。車窓から光が射しこみ、また暗くなっていく。遠くほど田んぼは闇に沈んでいる。里山のふもとに集落の明かりが点々と散っている。
ハンドルを握る母はずっと口を噤んでいる。いつもなら空気が重いときは母が口を開く。通夜の後だけに、伯父のことを思い返しているのかもしれない。
祖父や母たちは葬儀場で一晩明かすそうだ。瑠兎だけ葬儀場から祖父の家へ送ってもらうことになった。後部座席に座る瑠兎は眠たげに瞼を半分閉じている。就寝時刻には早すぎるけど、疲れがでたのかもしれない。
伯父の死体をみつけたときの礼美の姿がくりかえし脳裏によみがえる。表情やしぐさ、ふるまいのひとつひとつが意味ありげに感じられる。頭の中の礼美はいつしか幼くなっていく。無邪気な笑顔ではしゃいでいる。
母が実家へ戻り、瑠兎が磯水小学校へ転入したのは二年生のときだった。引っ込み思案な性格の瑠兎に、初めて話しかけてくれたのが礼美だった。クラスメイトでは家がいちばん近いこともあり、おたがいの家へ押しかけては毎日のように遊んだ。
瑠兎が小学四年生のときだった。神戸の造船所で火災があり、百名を超える焼死体が発見された。初めのうち事故として報道されたそれは、徐々に
礼美の母親は汐帆会の熱心な信者だった。親戚知人を問わず、誰彼となく勧誘活動をしていたらしい。礼美を家へ連れてくるたび、母の眼に影が差すようになった。放課後の教室で男子が、礼美の母親を「頭がおかしい」と罵っているのを耳にしたこともあった。
冬休みまで残り数日になった日、礼美が学校を休んだ。教壇で先生が、舞扇さんはお母さんが亡くなられたため、しばらくお休みしますと説明した。教室全体が沸騰するようにざわめきかけ、瞬時に静まったことを瑠兎は覚えている。みだりに触れてはならない話題であることをクラス全員が察した。
年が明けても、しばらく礼美は学校に来なかった。汐帆会の「えらい人」が大金を横領して逃げた、礼美の母親は寄付したお金を持ち逃げされた。そんな噂が教室でささやかれた。
「お母さん」
運転席と助手席の間からフロントガラスを覗く。外灯の明かりが点々とどこまでも続いている。
「飛石さんの家って、汐帆会の人が来てなかったっけ」
しばらく間があった。それから「そう?」と声がした。
「お母さん、お隣は近づいちゃダメって、よく言ってたじゃない。若い人たちがバスに乗ってきて、ぞろぞろ歩いてたり。あれ、汐帆会の人が集まってたの?」
ヘッドレストに寄せた母の頭が斜めに傾き、やがて戻った。
「
飛石正吾には二人の息子がいた。現在、正吾が暮らしているのは長男夫婦の家だ。次男の桂馬は、六年前は大学生だった。母には、宗教を研究するサークルの仲間で勉強会をしていると説明したという。
「伯父さん、汐帆会の人だったの?」
まさか。母が低く笑った。ヒステリックな響きがあった。
「兄さん……伯父さんはちょっと、人を寄せつけないところがあってね。おじいちゃんもそうだけど」
溜め息の音。暗がりにそれは大きな音に感じた。
「おじいちゃん、あんまり気に病まないといいけど」
うなずきながら瑠兎は車窓に目をやる。つながるはずのないものが、つながろうとしている。
土曜日の昼下がり、礼美と一緒に伯父の死体をみつけた。いったん祖父の家へ戻って母を連れてきた。礼美は物置の扉を開けて中を覗いていた。
手持ち無沙汰を解消しているだけだと思った。こんな状況で、よくそんなふるまいができるものだと呆れた。自分は勘違いをしていたのかもしれない。礼美はあの落書きを探していたのではないか。
空想してみる。礼美の母親は熱心な信者だった。若者たちに交じって、隣家での勉強会に参加していたかもしれない。幼かった礼美を連れてくることだってあっただろう。大人たちの輪から抜けだし、他人の家で些細な冒険や悪戯をしたかもしれない。
礼美は絵を描いている。階段下の物置の中で、壁にボールペンで落書きをしている。描いているのは汐帆会の「えらい人」だ。大金を横領し、礼美の母親を自殺に追いこんだ相手だ。伯父とよく似た痣がこめかみにある。藁人形のようなその人物の胸に、幼い手が空想の刃物を突き立てる。
まずは居間を探した。みつからなかった。祖父の寝室に忍びこんだ。台所を探した。また居間に戻ってきた。それは二つに裂かれて屑籠に捨てられていた。
二階へ戻り、瑠兎は畳の上に紙片を並べた。携帯電話を手にし、かつて名刺だった紙に綴られた番号を入力する。はい、森澄です。二回目のコール音で相手がでた。
「あの、ご迷惑でなければなんですけど」
赤の他人である森澄に相談すべきことではないし、正式に仕事として依頼できるお金もない。瑠兎は言葉を詰まらせながら、頭の中で準備していたセリフを読みあげた。
「話を、聞いてもらっていいですか」
くすりと、受話器の向こうから笑う声がかすかに聞こえた。
「ボクは失敗した」
気負いのない声だった。それでも空気が張り詰めるのを瑠兎は感じた。
「君の伯父さんを助けることができなかった」
「森澄さんのせいじゃないです」
「うん、まあね。だけど本当の名探偵だったら、どうにかできたかもしれない」
理想は理想でしかない。だからといって、理想に近づこうと努力しないことの言い訳にはならないんだよ。森澄は穏やかな口調でそう言った。
「雨坊さんはなぜ死んだのか、不幸な事故だったのか誰かの仕業なのか、ボクだって明らかにしたい。相談に乗るんじゃなくて、情報交換と意見交換をしよう。おたがい、対等にね」
やばい。なんか、ドキドキしてきた。瑠兎はエレクトーンの前にある椅子に腰かけた。背筋を伸ばし、胸に手をあてる。
エレクトーンは中学入学のとき、お祝い代わりに買ってもらったものだ。腕が上達せず、父の家へ移るとき部屋が狭くなると言い訳して置いていった。ひとつだけ良かったのは集中力がついたことだろうか。背筋を伸ばし鍵盤を思い浮かべると、やるべきこと以外は目に入らなくなる。
声が上ずらないよう注意しつつ、瑠兎は自分が見聞きしたことを語った。死体発見の前日、礼美が隣家からでてきたこと。物置の壁に伯父を描いたと思われる落書きがあったこと。汐帆会から大金を持ち逃げした「えらい人」が伯父だったのであれば、礼美には復讐という動機があること。
「つまり、舞扇礼美さんが犯人かもしれないってことだね」
「そうかも、くらいだけど」
憶測が多すぎることは瑠兎も自覚していた。あの落書きを礼美が描いたと仮定しても「えらい人」を描いたとは限らない。伯父以外に誰か、こめかみに痣のある別人がいたかもしれない。そもそも伯父に大金があったなら、愚痴をこぼすほど嫌な仕事などしなかったのではないか。
ボクの手元には、雨坊さんの経歴とか資料がいろいろあるけどね。森澄がマウスをクリックする音が聞こえた。
「汐帆会との関わりを示すものは無いね。でも大金を横領して逃げるほどの人なら、過去の痕跡を巧く隠した可能性は捨てきれない」
それはそうと。しばらく続いた沈黙を森澄が破った。
「舞扇さんが犯人だとすると、どうして植木鉢を運んだのかな」
それはもちろん。瑠兎はあらぬ方向をみつめ、続けるべき言葉を探した。
「凶器、かな。女子高生じゃ男の人にかなわないから。上から落としたんだと思います」
あらかじめ礼美は二階に植木鉢を運び、身を潜めていた。伯父が階段を上がってきたら、真上から植木鉢を落とす。直撃はしなくとも身体のどこかにぶつかれば怪我をするだろう。
「仮にそうだとしよう。じゃあ、どうして君の家から植木鉢を運ぶ必要があったんだろう。手ごろなものは他になかったかな」
瑠兎は閉口した。物置代わりにしている台所に、重くて硬いものはいくらでもあった。
「不自然だからといって、ありえないと切り捨てるのも乱暴だけどね。君の家の前を通りがかって、たまたま植木鉢が目に入って、それで凶器にすることを思いついたのかもしれない。いろんな解釈ができるよ」
「他になにかあるんですか」
「たとえば、君のお祖父さんが犯人とかね」
ひゅっと短く、瑠兎は息を呑んだ。
「もうすぐ台風が来る。風で枝が折れるのを心配して、植木鉢を玄関に入れたのかもしれない。そこへ雨坊さんが帰ってきた」
なんらかの理由で二人は口論になった。雨坊は突き飛ばされ、植木鉢に頭をぶつけて命を落とした。もうすぐ娘と孫が帰ってくる。死体をどこかに隠さなければならない。
「それで事故死に見せかけようとして、お隣に運んだ? でも、だからって植木鉢まで持ってかなくても」
「雨坊さん、出血していたからね。植木鉢に血がついたんじゃないかな。逆に雨坊さんの髪に植木鉢の土がついたかもしれない。植木鉢と死因との関係を見抜かれると、自分が犯人だとバレてしまう」
「そんなのありえない。証拠隠滅すればいいじゃないですか。植木鉢、細かく砕いて、地面に埋めちゃえばいい」
「ボクが犯人だったら、そうしただろうね。だけど世の中、そんなふうに利口かつ冷静で素敵な人ばかりとは限らない」
人間はときに愚かな行動をとる。常識に沿っていること、合理的であることは推理の正しさの保証とはならない。だからといって、なんでもかんでも可能性をあげつらっていてはきりがない。
「推理だけじゃ意味がない。実証しないとね」
明日、ちょっと時間あるかな。受話器の向こうで森澄はそう言った。
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