五 名探偵、登場

 門柱の足下はセメントで固められている。置き去りにされたようにプラスチック製の受け皿が地面にあった。水捌けの穴からこぼれたのか受け皿の中央が土で汚れている。瑠兎の記憶にある、隣の家にあった植木鉢と大きさが合う。

 顔を上げ、瑠兎はふりかえった。祖父の家の前は道路が急なカーブを描いている。ガードレールに大量の蔦が絡みついて見通しが悪い。左右をよく見てから家をでるよう、幼い頃は母から毎朝のように注意された。

 昔日を懐かしく思いだしながら瑠兎は右を見て、左を見て、もう一度右を見るのは面倒になって車道にでた。朝は涼しかったが、昼が近づくにつれて蒸し暑くなりつつある。

 昨夕、森澄から聞いた話を思いだす。あの受け皿に置かれていた植木鉢を何者かが隣家まで運んだ。それからどうしたのか。足を踏みだすたび隣家が近づいてくる。枝葉に隠れていた瓦屋根が見えてくる。塀が途切れた。勝手口の前に、昨日はなかった白い軽トラックが駐車されていた。

(あれ?)

 塀の内側に自転車があった。水色の自転車がスタンドを立てて駐められている。ハンドルから白いヘルメットがぶらさがっていた。後輪カバーに埃はなく、若者向けのデザインだ。

(あの子か)

 昨日、礼美が無視して通り過ぎた勝手口の前に見知らぬ少女がいた。扉を開け、中へ入ろうとしている。おかっぱ頭に小豆色のジャージ。背丈や顔の幼さからして恐らく小学生だろう。あの子が自転車の持ち主か。瑠兎が状況を理解するうちに、少女は家の中へ入ってしまった。

 どうしよう。伯父の死は殺人の疑いもあるとテレビのニュース番組で報道されていた。あの少女はそれで事件のことを知り、興味本位で忍びこんだのだろう。年長者として、ちゃんと叱っておくべきか。

 敷地に足を踏み入れる。勝手口のドアノブを握り、開く。三和土に台車が置かれていた。押し手から手拭いがぶらさがっている。

 薄暗い空間の奥、四人掛けのテーブルがあった。乾いた輪ゴム、赤と青のボールペン、広告チラシなどが無造作に散らばっている。床はどこも埃っぽく、土足で歩き回ったとおぼしき靴跡がそこら中にある。

 奥の壁にアルミ棚が二つ並んでいる。鍬やシャベル、草刈り鎌、プランターといったものが雑然と並んでいる。棚のすぐ手前には肥料が詰まった袋がいくつか床に積まれていた。

 扉の左手に流しがあった。瑠兎は試しに蛇口をひねってみたが、水はでてこなかった。奥のほうに食器棚があるが中身は空っぽだ。炊飯器や電子レンジといった台所にありがちな家電製品もない。かつては台所だったが、今は物置代わりになっているらしい。

 奥に引き戸があった。位置関係を思い浮かべながら瑠兎は足を進めた。開け放たれた戸の向こう、廊下が延びている。ジャージ姿の背中があった。あの少女が腕組みをして一心に床をみつめている。

 少女の行く手を阻むように、廊下には黄色いテープが張り巡らされていた。立入禁止と記されている。階段を上がることはもちろん、玄関のほうへ行くこともテープに阻まれてできない。階段の上がり口には人の輪郭線をなぞるように白いテープが貼られていた。死体はもちろん、植木鉢もない。証拠物件として運ばれたのだろう。

 さて、なんて声をかけよう。瑠兎はためらった。相手が小学生でも、大声で叱るなんて苦手だ。迷いながら足を進めていくと廊下がきしんだ。少女がふりかえり、瑠兎の顔をみつめた。

「あなたが犯人ですね」

 瑠兎は足を止めた。後ろをふりかえってみる。当然、誰もいない。

「あ、失礼しました」ぴしゃりと少女が額を叩く。「ちょっと混乱しました。気分がミステリしていたので、ミステリなこと言ってしまいました」

 気分がミステリって、なに。

「犯人は必ず犯行現場に戻ってくる。よくサスペンスドラマで、脚本家が都合よく新しい手掛かりを発見させるため刑事役に言わせる、あの定番のフレーズが現実になったのかと誤解しました」

「な、なるほどね。うん、そういう誤解ってしがちだよね」

 しねえよ。

「申し遅れました。わたくし、花水木はなみずきメイ子と申します」

「珍しい名字だね」

「ええ、探偵ネームですから」

 探偵ネーム。そんな日本語、いつできた。

「ご存知ないようですね」首を傾げる瑠兎に、少女は深々と溜め息を吐いた。

「ラジオ番組にハガキを送るならラジオネーム、ネット掲示板にコメントするならハンドルネーム、犯行現場で推理するなら探偵ネームを準備しておくのがマナーというものです」

 ちなみに探偵ネームは名字を三文字にするという決まりがあります。だからといって霧ヶ峰とかエアコンみたいな名前はお勧めできません。よくわからないことを滔々とうとうと語り続ける少女に、瑠兎はひたすら頷きをくりかえした。

「えっと、花水木メイ子ちゃんね。私は、ルウ。瑠璃色の兎って書くの」

「顔色の悪そうな兎ですね」

「メイ子ちゃんは、明るい子って書くの?」

「いえ、迷う子供です」

 それじゃ迷子まいごだよ。というか、迷探偵になりそうな名前を探偵ネームにしてどうする。

 いや、そんなことはどうでもよかった。瑠兎は胸に手をあて、落ち着きを取り戻した。当初の目的を果たすことにしよう。

「ええとね、迷子ちゃん。ここは入っちゃダメなところで」

 しっ。迷子が指を唇にあてた。かすかに音がした。台所のほうからだ。誰かが勝手口の扉を開けたらしい。

「隠れましょう」

 小声でそう言いながら、迷子は階段下の物置の扉を開いた。中は押し入れのように上下二段に分かれている。迷子はそそくさと下の段へ潜りこんだ。

 足音がした。こちらに近づいてくる。瑠兎は反射的に動いた。上の段へ飛びのり、扉を閉める。

 ――犯人は必ず犯行現場に戻ってくる。

 迷子が言っていたことを思いだした。昨日の森澄との会話が頭の中で渦を巻く。伯父を殺した人物がこの向こうにいるのか。

 台所から廊下へ気配が迫ってくる。扉の向こうで足音が止まった。「あっちゃん、二階かあ?」間延びした声がした。

 急に視界が明るくなった。扉が開いていく。下の段から迷子が押し開けたようだ。白髪の老人がふりかえり、目を丸くした。

 そりゃそうだろう。小学生と高校生、女の子が二人もこんなところで隠れん坊をしていれば。

「……お邪魔してます」

「瑠兎ちゃんか。おひさしぶり」

 隣家の主人、飛石正吾とびいし しょうごだった。頭には麦わら帽子を被り、首にタオルをかけている。以前は農業を営んでいたが、今は年金暮らしらしい。瑠兎の祖父より高齢で、恐らく七十代だろう。

 あなたが犯人ですね。と、迷子は言わなかった。物置からでてくると、ジャージの膝についた埃を手の平で叩いて払いつつ「お邪魔してます」と真面目な顔で言った。

 瑠兎も床へ下りようとした。ふと、暗がりに目が惹きつけられる。「いやっ」大きな蜘蛛がいる。思わず声をあげてしまった瑠兎に、迷子がふりかえった。

「ごめん、なんでもなかった」

 蜘蛛ではなかった。物置の内側の壁、扉のすぐ横に落書きがある。ボールペンを使ったのだろう、黒い線が縦横に走っていた。人の姿らしきものが稚拙に描かれている。藁人形のような身体に、不釣り合いなほど大きい頭。なぜか目が三つもある。

(ひょっとして)

 黒い線を指でなぞってみる。目が三つもあるわけがない。いちばん端は目ではなく、痣のつもりではないか。

 ナイフなのか包丁なのか、刃物らしきものが描かれている。それは藁人形のような人物の胸に深々と突き立てられていた。


 迷子が両肩に鍬をかついでいる。瑠兎と飛石は一緒に肥料の詰まったビニール袋を台車に積みこんでいた。

 花水木迷子は小学生ではなかった。粕丘かしがおか中学校の二年生で、園芸部に所属しているという。粕丘中学校はひとつ隣の学区で、飛石が息子夫婦と暮らしている家から近い。園芸部の顧問教師に頼まれて、飛石は相談役をしているという。

「迷子ちゃん、園芸を教えてもらいに来たんだ」

「いえ、事件があったので来ました」

 不法侵入者は瑠兎だけだった。飛石は勝手口の鍵を開けたところで、トイレを借りに隣家へ、すなわち瑠兎の祖父の家へ行っていたらしい。その間に自転車で迷子が到着した。ミステリ好きな迷子は、飛石の手伝いをする代わりに犯行現場を拝見させてもらいに来たのだという。

「まだ事故か事件か、わからないけど」

 そう口にしながらも瑠兎は馬鹿ばかしさを感じていた。映画じゃあるまいし、こんな地方の町でサスペンスドラマみたいなことなど起こるはずがない。伯父はどうせ、雨宿りに借りた空き家で運悪く足を滑らせただけなのだろう。

「ご存知ないんですか」

「なにを」

「地方では、なにが起きても不思議じゃないんですよ」

 両肩に鍬をかついだまま、迷子はごく真面目な顔をしている。

「瑠兎ちゃん、そこのシートとってもらえる」

 飛石に頼まれ、瑠兎はテーブルに目をやった。工事現場などによくあるブルーシートが畳んで置いてある。手にとると、足元で小さな音がした。

 テーブルの下を覗いてみる。キャップの黒いボールペンが床に転がっていた。どうやらシートの下に隠れていて、瑠兎がシートを手にとったとき摩擦で動いて落ちたらしい。瑠兎はボールペンを拾うとテーブルに戻した。他に赤と青のボールペンが転がっていたので、その隣に並べた。

 迷子と一緒に勝手口の扉から表にでる。軽トラックの荷台にブルーシートを広げた。最近洗ったばかりなのか、土汚れもなく青々としている。逆にトラックのほうは積年の汚れやへこみでボロボロだった。ドアには擦ったような傷まである。のんびりした印象と裏腹に、飛石の運転は荒いのかもしれない。

 飛石が台車を勝手口の上がり框まで押してきた。瑠兎が台車から肥料の袋を抱えあげる。ずしりとした重みが腕に伝わった。よたよたしながらトラックの荷台まで運ぶ。ふと手の平を目にすると、埃まみれになっていた。

 肥料のビニール袋は汚れていない。きっと物置へ隠れたとき汚れたのだろう。手を洗いたいところだが、この家は水を使えない。急に催した飛石が、祖父の家へトイレを借りに行ったのもそのせいだ。飛石に訊いてみると、水道だけでなく電気やガスも契約していないという。

「ここ、物置代わりにしてるんですね」

 肥料を運びながら、飛石はうんうんと小さくうなずいた。

「畑道具は場所とるし、床が汚れるから息子の嫁さんがいい顔しなくてね」

 こんな辺鄙なとこ、買う人もおらんしね。しみじみした調子で言いながら飛石は袋を荷台に積んだ。

「台風が来た日って、玄関の鍵は開けてたんですか?」

「鍵かけるの忘れてたんだろね。あっちは普段、使わないから鍵かけっ放しにしてたつもりだったんだけど。昨日は警察の人が来て、なんべんも訊かれたけど、いつから開いてたかなんて覚えてるわけないさ。まさか、架くんが死んでるなんて思わなかったなあ」

 ぽつりと漏らした飛石の言葉を、うっかり瑠兎は聞き逃しそうになった。

「金曜日、ここに来たんですか?」

「そうだよ。でも勝手口のほうしか入ってないから、なんも気づかんかった」

 台風が来襲した一昨日の午後四時前後、飛石はホームセンターで買った肥料をトラックで運んできた。台風が近づいていることもあり、風が強くなる前に息子夫婦の家に帰った。翌日、訪ねてきた警察に事情を訊かれ、伯父の死体がみつかったことを初めて知った。

 瑠兎は記憶を巡らせた。森澄の話によれば、伯父がこの家を訪れたのは風が強くなってきた午後四時半以降と推測される。四時前後に飛石が来たときには伯父はまだいなかったかもしれない。瑠兎は重ねて飛石に質問したが、玄関には注意していなかったため伯父がいたともいなかったとも断言できないという。

「うちの植木鉢があったかどうかなんて、知らないですよね」

 飛石は首を左右にふった。トラックで前を通りすぎただけなので覚えていないという。

「植木鉢がどうかしたですか?」

 飛石ではなく、迷子のほうが食いついてきた。祖父の家から植木鉢が運ばれたことを瑠兎は説明した。その間に飛石は勝手口を施錠し、トラックの影へまわりこんだ。運転席のドアを閉める音が響いた。

「瑠兎さん」

 助手席のドアを開けたまま、迷子が立ち尽くしている。とろんとした目つきで宙をみつめていた。

「ルミノール試薬って、ドラッグストアに売ってますかね?」

「海の、シャーク?」

 薬屋さんで鮫は売ってないと思う。

「あ、いいです」

 迷子は手をひらひらとふった。顔を斜めに傾け、なにかぶつぶつとつぶやいている。頭痛をこらえるように頭の左側を手で押さえながら助手席に乗りこむ。トラックのエンジンがかかった。二人が去っていくのを瑠兎は見送った。

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