三 彼女はたくらんでいる

 土曜日の昼下がり。昼食を終えた瑠兎はテレビを眺めていた。玄関からチャイムの音がして、祖父が腰を上げかけた。それを押しとどめ、代わりに母が廊下へ向かった。「礼美ちゃん来たわよ」やがて母の声がした。

 れみちゃんきたわよ。音の連なりが暗号のように聞こえた。半信半疑で玄関に向かう。母の背中の向こう、黒髪の少女が立っていた。「ひさしぶり」猫招きのように片手を挙げる。瑠兎は金魚のように口をパクパクさせ、それからこくりとうなずいた。

 昨日と違って、礼美はセーラー服姿ではなかった。グレーのパーカーに縞模様のシャツ、デニムパンツの気楽な格好だ。「ちょっと話したいことあるの」顔を斜めにし、上目遣いをする。愛らしく、それでいて静かな迫力がある。整った眉と美しい瞳に、断ることを許さない気品がある。

(苦手だ)

 この子、なんか苦手だ。まだこの町にいた頃、礼美と会話を交わすたび瑠兎はそう思った。幼い頃はそうではなかった。いつからこんなふうになってしまったんだろう。

 でかける旨を母に一声かけ、サンダルに爪先を挿しこむ。髪がぼさぼさだけど、大目に見てもらうことにしようと瑠兎は思った。

 ついてきて当然とばかりに礼美は門塀のほうへズンズン歩いていく。小走りで瑠兎は追いかけた。隣には並ばず、少し後ろをついていく。

 月曜が祝日で、今日から三連休だ。瑠兎は旧友の誰とも会う約束をしていなかった。七回忌が終わったら帰るのだから遊ぶ時間がない。たとえ時間があったとしても、礼美に会うことなど思いもしなかっただろう。

 胸がざわつく。スカーフを風になびかせ、自転車を漕いでいた礼美の姿を思いだす。あのときは学校の近くだった。たまたま見かけてもおかしくはない。でも、隣家からでてきたのはおかしい。隣の町に住む礼美があんなところにいるはずがない。

 舞扇礼美とは同い年だ。小学校も中学校も一緒だった。といっても中学では一度も同じクラスにならず、ろくに会話を交わすことさえなかった。

 最後に話したの、いつだったっけ。瑠兎が記憶を探っている間にも、礼美は歩いていく。山沿いに一車線だけの道路が伸びている。迷いのない足どりで礼美は緩やかな坂道を先に進んでいく。このあたりは集落のはずれで、隣家を除けば他に家はない。

「ねえ、どこ行くの」

「ちょっとそこまで」前をみつめたまま礼美は言った。「たいしたことじゃないの。宍戸さんが帰ってきてるって、おばさんから聞いてね。ちょうどいいと思って」

「ちょうどいいって?」

「だから、たいしたことじゃないって」

 礼美はふりかえり、微笑んだ。声の調子に人を嘲るようなところがあった。

「昨日の夕方、ここ通りかかって」

「台風だったのに?」

「台風の後だから、面白そうと思ったわけ。いつもと違う風景って、わくわくするから。道路が濡れてたり、葉っぱがたくさん散ってたり」

 まあ、そんなことはどうでも良くって。説明の仕方を考えるためか、礼美はいったん唇を閉ざした。台風一過の爽やかな青空だ。山裾と道路の間を流れる用水路から水音が聞こえてくる。おもむろに礼美は言葉を続けた。

「音が、聞こえたの」

「音?」

 石造りの塀が途切れた。かつて門柱には表札があったが、今は外されている。歩みを緩めることなく礼美は敷地内へ足を踏み入れた。

「ちょっと」うろたえた瑠兎が声をかける。

「ここ、空き家なんでしょ?」

 泥棒かもしれないじゃない。怖いから、ついてきてよ。瑠兎のほうをふりかえることなく、礼美は足早に進んでいく。

 庭木は剪定せんていされた様子がなく、地面に雑草がはびこっている。壁は木肌が風雨にくすみ、どの窓も障子が閉ざされている。勝手口だろうか、上半分に擦りガラスの入ったスチール扉があった。その前を礼美が通りすぎる。

(あれ?)

 声をかけるべきか迷ったが、礼美の背中はどんどん遠ざかっていく。大きくせりだした庇の下にガラス戸があった。昨夕、礼美がでてきた玄関だ。左右に戸を開け放つことができる、まるで和風旅館のような佇まいだ。

 取っ手の金具に礼美が右手の指先をかける。戸はわずかに揺らぐばかりで、開こうとしなかった。

「鍵、かかってるね」

 瑠兎が横から口にする。礼美は小声で「そんなはずは」とつぶやいた。あきらめきれないように何度か戸をがちゃがちゃさせる。思案するようにしばし手を休めると、左手を伸ばした。反対側の戸に指をかける。

 するりと戸が開いた。礼美が自慢気な顔でふりむいた。

 二人で足を踏み入れる。薄暗い空間があった。すぐ正面に籐製の衝立があり、右手のほうへ廊下が伸びている。

 なにかが三和土たたきに落ちていた。薄暗いせいで、瑠兎の目にはぼろぼろの布のかたまりに見えた。目を凝らす。どうやら折り畳み傘らしい。布が外れ、骨が折れ曲がっている。上がり框へ斜めに立てかけていたのが倒れ落ちたらしい。

「音って、どんなだったの」

 鍵が開いていて、折り畳み傘がある。ひょっとして昨日の強風に煽られて壊れたのだろうか。接近した台風の影響で雨が降った。雨宿りできるところを求めた誰かがここを訪れ、壊れた傘を残して去ったのかもしれない。

「さあ。小さい音だったし」

 瑠兎は旧友の横顔をみつめた。音が聞こえたなんて嘘じゃないのか。この傘も礼美のものではないか。そう問い詰めたなら、この子はどう答えるだろう。

 腰を曲げ、目線を下げてみる。埃にまみれた床に点々と靴跡が残っている。さて、どうしよう。迷う瑠兎の隣で動く気配があった。

「ちょっと」

 瑠兎の声が聞こえなかったかのように、礼美は土足のまま上がり框へ踏みこんだ。衝立をまわりこんで奥へ姿を消す。しょうがない。浅く溜め息を吐くと瑠兎もサンダル履きのまま後を追った。

 衝立の向こう、左手の奥はかつて座敷だったらしい。襖も畳も持ち去られ、床の間には掛け軸ひとつさえ無い。右手のほうに顔を向ける。狭い廊下にたたずむ礼美の背中があった。

 立ちどまったまま礼美は動かない。その肩越しに階段が見えた。急な角度、たよりなさそうな手すり。視線を下げてゆく。礼美がなにをみつめているのか、ようやく瑠兎は理解した。

 植木鉢が転がっていた。横倒しになり、底にある水捌けの穴から土が覗いている。その傍ら、男性が横たわっていた。階段の初めの段に左足をかけ、廊下に寝転がっている。顔の下半分は無精髭に覆われ、瞼を閉じている。

 眠っているわけではない。息をしていない。床のあちこちに点々と赤いものが散っている。

「――伯父さん」

 自分の声のはずなのに遠く聞こえる。血の気が引いていく。足元がふらつき、瑠兎はたたらを踏んだ。

「え?」

「似てる……ううん、伯父さんだと思う」

 口元を覆うように手をあてながら礼美が目をみはる。二人は無言のまま、物言わぬ骸をみつめた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る