二 完全なる消失
終わりにしよう。
風のうなりが聞こえた。台風が通り過ぎても、風はまだ強いらしい。ゆっくりと瞼を開く。古びた民家の薄暗い空間が広がっている。狭い廊下、埃だらけの床。二階に明かり採りの窓があるのか、階段がほのかに明るい。そのわずかな明かりのおかげで、階段の上がり口に植木鉢が転がっているのがわかる。
素焼きの植木鉢は大きく、抱えるには大人でも一苦労しそうだ。底に空いた水捌けの穴から黒い土が覗いている。枝が伸び、いくつもの葉をつけている。厚ぼったい葉からすると椿かもしれないが、花は咲いていない。
植木鉢はふちが欠けていた。破片が床に転がっている。欠けたふちや破片に黒い汚れが点々と散っている。もう少し明るければ、それが黒ではなく赤だと、飛び散った血の跡だとわかっただろう。
植木鉢の傍らに男が倒れていた。片足を階段の初めの段にかけ、背中を丸めて廊下に横たわっている。ウィンドブレーカーのジッパーが全開になっていた。顔の下半分は無精髭に覆われ、左のこめかみに楕円形の痣がある。眠っているかのように瞼が閉ざされていた。かすかに唇が開いている。だが、息はしていない。
幼い頃の記憶が脳裏を過ぎった。鴨居から紐を垂らし、母が首をくくっている。礼美は卓袱台を押しやるが、母は足を乗せようとしない。両肩に母の足裏をのせ、体重を支えようとする。だが母は膝を曲げてしまう。いつしか礼美は母のふくらはぎを抱き、ぐいぐいと下へひっぱっている。
それは嘘の記憶だ。夢でみた光景でしかない。家には紐を通せるような鴨居がなかった。母は恐らくシャワーヘッドの台を利用したのだろう。叔母からは、浴室のドアに貼り紙があったことしか聞いていない。幼い礼美が死体を目にすることのないよう、母は後の措置を貼り紙で叔母に頼んだ。
けれど思いだすのは、いつも夢のほうだ。ふくらはぎの冷たい感触が頬にまざまざと蘇る。泣きじゃくりながら幼い礼美は自分を責めている。ごめんなさい、もう悪いことしないから。ちゃんと仏様の言うこと守るから。首を吊っている母は聞きとれない小言をぶつぶつとお経のように唱えている。
数えきれないほどくりかえした思考の道筋を礼美は再びたどった。自分がいなくなっても誰も困らない。消えたことに気づかれることすらない。あの子の人生のために自分は消えなければならない。あの子が私を恐れ、蔑むことになったとしてもしかたがない。これがあの子のためになる。
ずっと前にこうするべきだった。誰も自分を必要としない。自分には存在する価値がない。私が生きていることは、あの子にとって害悪にしかならない。やっと終わる。すべてを終わらせることができる。
日の光が衰えていく。残された時間は少ない。考えなければならない。人生の幕を引くためになにを為すべきか。男の死に顔を凝視しながら、礼美は考えを巡らせる。
後ろ手に襖を閉めようとして瑠兎はためらった。あまりにも暗い。もう六時近いのだから当然だ。スポーツバッグを敷居の上に置き、六畳間の真ん中へ足を進める。垂れさがった紐を引くと蛍光灯が瞬いた。
かつて瑠兎の私室だった部屋を見渡す。隅っこに古い木製のエレクトーンがある他は、ろくに家具がない。父の家へ移るとき、あらかた持っていったのでがらんとしている。柱の傷や天井の染みはそのままでも、半分だけ他人の部屋になった気がする。
母に連れられ、この家へ身を寄せたのは瑠兎が小学二年生のときだった。両親の不仲が嵩じて、離婚には至らないものの別居することになった。まだ元気だった祖母に瑠兎はたびたび畑仕事や庭木の始末を手伝わされた。
やがて祖母は入退院をくりかえすようになった。脳卒中の次は肺炎、肺炎の次は腎不全と、身体があちこち順繰りに悲鳴をあげるのを「モグラ叩きみたいだね」と顔を皺くちゃにして笑っていた。
祖母が亡くなったのはそれから二ヶ月後だった。葬儀の最中、母は瑠兎の肩をついて「あれ、お父さん」と小声でささやいた。似たような黒服姿がひしめき、どれだけ視線をさまよわせてもみつからない。そもそも父の顔がどんなふうだったか思いだせないことに瑠兎は気づいた。
瑠兎の知らぬ間に、母は父とよりを戻したらしい。高校入学と同時に
問題は祖父だった。母と瑠兎がいなくなってから一年余り、問題なく家事をこなしているらしい。とはいえ、車なしには生活できない辺鄙な土地だ。六十代半ばの祖父がブレーキとアクセルを踏み間違える心配をするのは気が早いかもしれないが、いずれは心配しなければならない。
母はたびたび同居を勧めたらしい。けれど、結果として祖父は一人暮らしを続けている。高校生の瑠兎にさえ祖父の心中を察することができた。住み慣れた家を離れて娘婿の家に厄介になるだけでも抵抗感がある。くわえて、その男は長年にわたり娘と孫を放ったらかしにしてきたのだから無理もない。
瑠兎は窓辺に寄った。がたつく障子を開ける。クレセント錠を外し、サッシ窓を半分ほど開けると涼しい風が頬を撫でた。それほど強い風ではない。居間で祖父や母と会話していたときは風の音が耳についた。もう台風は通り過ぎたらしい。
視界は暗い緑で埋め尽くされている。枝の隙間から隣家の玄関が見える。距離にして三十メートルはあるだろうか。この辺りは山裾で、隣家の敷地のほうがわずかに標高が高い。
瓦屋根の古びた日本家屋は、どの窓も明かりがない。誰も住んでいないのだから当然だ。息子たちが家をでていき、妻に先立たれた老人が一人暮らしをしていた。やがて老人は息子夫婦と同居することになり、瑠兎が中学生のとき空き家となった。母が祖父に同居を勧めるのは、似た境遇の隣家に影響されたのかもしれない。
祖母の七回忌など日帰りで充分だ。わざわざ前日に泊まることを母が決めたのは、祖父を説得する時間を設けるためだろう。生まれ育った土地とはいえ、寂れていく一方のこの町から祖父をさっさと連れだしたいに違いない。
(そういえば)
祖父が家をでることを拒むのは、娘婿への嫌悪だけではないのかもしれない。上京した長男の身を案じているのかもしれない。
(誰だったんだろ)
祖父の家まで、もう間もない頃だった。運転席の母が「お化け?」と声をあげた。
道路脇を長身の人物が歩いている。磯水町の者であれば顔に見覚えがあるはず。あれは間違いなくよそ者だった。というより、あんな格好の者が町内にいたら忘れるはずがない。
切れ長の瞳。やや面長の、逆三角形の顔。ドレープたっぷりのカットソーは、まるでカーテンを首に巻いているかのようだ。ファッションショーで堂々と歩くトップモデルのような、あるいはドラァグクイーンのような迫力。「あれ男? 女?」はしゃいだ母がサイドミラーをちらちら見るので、運転に集中するよう瑠兎が諫めなければならなかった。
この家に着いたのが午後四時過ぎだった。仏壇にお参りし、居間で祖父と四方山話をした。卓の隅に名刺があった。大きく「
タイミングからして、すれちがったあの人が森澄だったのだろう。あんな若い人が祖父の知人だとは思えない。東京で暮らす伯父とつながりのある人ではないか。ひょっとして伯父の行方がわかったのだろうか。
後でこっそり、名刺を確かめてみよう。窓を閉めようと瑠兎が手を伸ばしたとき、隣家に動きがあった。
(あれって)
玄関の戸が開く。セーラー服を着た少女が姿を現す。長い黒髪、物思いに沈むように目を伏せている。
(礼美?)
瑠兎は硬直した。息を呑み、少女が歩き去っていくのをただ見守る。その姿は枝葉に隠れ、やがて暗がりに沈んで消えた。
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