十 独りで生きていくために

 手を合わせ、目を閉じる。汐帆会にはこういうときの作法があるのだろうか。反町は迷ったが、いまさらどうにもならない。黙って頭を垂れておくことにした。

 仏壇に線香の煙が細く昇っていく。遺影の中で御倉徳郎は皮肉そうな笑みを浮かべていた。それをしばらく眺め、立ちあがる。ふりかえると、座卓の傍らにいたはずの四方子の姿がなかった。反町が視線をさまよわせると、縁側に黒いワンピースの後ろ姿があった。庭を眺めているらしい。

 桜の木があった。春の陽光を浴び、まるで輝くかのように咲きほこっている。反町が歩み寄っても、四方子は気づかず外を眺めていた。桜を挟んだ向かい側に離れがある。ガラス戸が閉ざされ、人の姿はない。

 声をかけることがためらわれた。反町はそのまま立ち尽くしていた。脳裏に柿の木が浮かんだ。風に震える裸の枝。縁側に立っていた父と、初めて会う義母の背中。

 父から離婚の理由を教えられたのは、反町が高校生のときだった。大学から合格通知を受けとり、四月から一人暮らしを始めようとしていた。

 電力設備の保安協会に父は勤務していた。地方の災害対応で激務が続いたある日、息子が大怪我を負ったと病院から連絡を受けた。母に折檻として庭にある物置に閉じこめられた。抜けだそうと考えたのか、積んであったダンボール箱をよじ登ったらしい。崩れたダンボール箱の下敷きになり、骨折による激痛を暗闇の中で何時間も味わった。

 暗所恐怖症はその体験がトラウマとなって引き起こされるのだろう。医師から父は、物置での事故とは無関係なひっかき傷や青あざがあることを知らされた。妻と話しあったが、父への非難も謝罪も、言い訳すらもなかった。どう手を打つべきか考えあぐねるうちに妻は書置きと、片方だけ署名した離婚届を残して家をでた。書置きには汐帆会に出家したことが綴られており、父が面会を頼んでも拒まれた。

 あら、すみません。四方子がふりむいた。反町は軽く頭を下げると「今朝のニュース、ご存知ですか」と尋ねた。

「なにかありましたか」

「時任涯奈が、教祖の座を退くそうです」

「そうですか」

 四方子は表情を変えなかった。反町の顔から目を逸らすと、また桜のほうへ向けた。

 二年前、汐帆会を脱会した時任涯奈は新しい宗教団体を興し、その教祖となった。規模は小さくともマスメディアに取材されることは多く、若い世代を中心に信者を獲得していった。

 一昨年の話で恐縮ですが。そう前置きして、反町は四方子の横顔に語りかけた。

「徳郎さんとお話をさせていただいたとき、隣の部屋に高校生たちがいました」

「不用品の回収で来ていた子たちですね」

「ええ。実は一人、顔見知りがいました。それで寝室のほうも、少し覗きました」

 いったん、反町は言葉をとめた。四方子が身動みじろぎすらしないのを見て、言葉を続けた。

「本の束がたくさんありました。医学に関する雑誌やハードカバーばかりでしたが、ひとつだけ若い女性向けの雑誌などが括られたものがあって、気になりました」

「この家が汐帆会の修行場だった頃、誰かが置いていったんでしょう」

「そうかもしれません。ただ、後になって気づきました。その束には赤本が混じっていました。大学の名前が、時任涯奈さんのいた大学と同じでした」

 ハッタリだった。赤本が挟まった束があったことは覚えていたが、大学の名前まで反町は記憶していなかった。

 フリーマーケットの後、光は葬儀場へ足を運んだ。磯野が寝室を物色していたことを四方子に伝えた。警察へ情報を提供する代わりに、ひとつ頼まれてほしいと四方子は言った。今夜、人と会う約束をしている。もし危ない目に遭いそうになったら助けてほしいと。

 釈迦河が地域課に根回ししてくれたのだろう。光は葬儀場での警備を担当することができた。姿を見せたのは時任涯奈だった。かつて女性週刊誌が、涯奈と母親との確執を記事にしたのを反町は思いだした。

 捜査一課の力があれば、四方子と涯奈との関係を探るのは苦もないことだ。だが、これは公安のヤマだ。黒幕の正体は時任涯奈ではないかという憶測を、徒手空拳の刑事が確かめるには鎌をかけてみるしかない。

 地面にいくらか花びらが散り落ちている。かすかな風に枝が揺れているのが、まるで同じ時間をくりかえしているように感じた。まぶしさに目が疲れたかのように四方子は瞼を閉じ、顔の上半分を手の平で覆った。「あの人、嘘を吐いたんですよ」唇だけが動き、言葉を紡いだ。

「去年、あの離れで。ずっと二人で桜を見ましょうって。春が来るたび、お花見しましょうねって。一昨年は入院でそれどころではなかったですし、去年の春になって、ようやく元気がでてきて、そんな約束をしたんですけどね」

 顔を覆う手の甲に無数の皺が刻まれている。口元はほころび、薄ら笑いを浮かべている。

「私はずっと黛子が、娘が芸能活動をすることには反対でした。出家のことも後になって知らされて。無理を言って汐帆会の施設で面会させてもらったときには、あの子は私のことを忘れてしまっていました」

 恐らく黛子とは、時任涯奈の本名なのだろう。四方子は途切れがちに過去を語った。娘から記憶を奪った御倉徳郎を襲ったこと。その場にいた者たちの手で押しとどめられ、失敗に終わったこと。警察への被害届をださない代わりに、四方子も娘に関する記憶を封印するよう提案された。

「自分が、こわかった」

 顔を覆っていた手が、ずるりと滑り落ちる。手の平をじっとみつめ、四方子は言葉を続けた。

「娘に手をあげたことはありません。でも、私はきっと何度も言葉や態度で娘を傷つけてきたんでしょうね。自分が恐ろしかった。消えてしまえばいいと思った」

「なぜ娘さんの記憶を蘇らせたんですか」

 葬儀場でなにが起きたのか、光は詳しく語ろうとしなかった。光がどこまで四方子に事情を打ち明けられ、どこまで協力を約束したのかわからない。だが、反町には予想がついていた。徳郎によって封印されていた記憶を、少女時代の母親との確執を時任涯奈に思いださせたのだろう。教祖の座を退いたことからしても、それは涯奈に精神的苦痛を与える行為だった。

 決まっているでしょう。きっぱりとした口調で四方子は告げた。

「身を守るためですよ」

 記憶を封印していた涯奈にとって、四方子は知識として親だと知っていても、感情的には赤の他人に過ぎなかった。磯野鈴音に御倉家を物色させたことからしても、涯奈は法の範疇を越えて四方子に害を与えかねない。

 たとえそうだとしても、それは身勝手ではないか。親として失格ではないか。自分の身を守る。ただそれだけのために、娘に生涯苦痛となり続ける記憶を蘇らせることは許されるのか。なぜ話しあって過去の確執を乗り越えないのか。

 ――自分で考えて選んだことでないと、責任とれないですから。

 光の言葉が脳裏をかすめた。

 顔さえ思いだせない反町の実母は、なにを想って父のもとを去ったのか。どれだけの煩悶の末に息子の記憶を消したのか。

 これで失礼します。反町は軽く頭を下げた。四方子はまた桜を、誰もいない離れをみつめていた。


 列車の振動が絶え間ない。車窓からの光景がいつしか住宅街から水田に転じていた。まばゆい緑がどこまでも続いている。

 背もたれに身を預け、反町はぼんやりと車窓を眺めていた。昼下がりの車内はがら空きで、通路を挟んだ座席は横になろうと思えばできる。そんなことをすれば確実に寝てしまうだろう。無理を言って焼香を済ませてきたが、すぐに署へ戻らなければならない。

 振動を感じ、反町はスマートフォンをとりだした。帰りがいつ頃になりそうか尋ねる、妻からのメッセージだった。

 高校時代の同級生と結婚したのは去年の六月だった。義母と同居してもらうのに、ずいぶん苦労した。

 今夜も帰れそうにないことを返信する。スマートフォンのディスプレイを暗転させた。表面が指紋で汚れている。

 凶器のことが頭を過ぎった。一昨年の事件のとき、ペーパーナイフの柄には徳郎の指紋しかなかった。徳郎はナイフの柄を拭ったうえで自分の指紋をつけたのだろう。妻をかばうためだったのか、四方子が逮捕され警察に介入されるのを嫌っただけなのか。

 桜をみつめていた四方子の横顔を思いだす。間違いなく四方子には徳郎への愛情があった。徳郎のほうはどうだったのか。そもそも二人の結婚はどういうものだったのか。

 家宅捜索で押収したUSBメモリに保存されていた名簿のことを反町は思いだした。教祖の座を退いたということは、涯奈は自分のキーワードを知らず記憶の再封印ができないのだろう。涯奈は徳郎から高額で名簿を買いとったが、そこに涯奈のキーワードはなかったわけだ。だからこそ徳郎の死を好機と見て磯野鈴音に家探しをさせたが、森澄と反町に取り押さえられた。

 経緯はわからないが、涯奈は四方子のキーワードなら知っていた。磯野鈴音を通じて広告メールに偽装する形でキーワードを送った。

 いざとなれば徳郎は涯奈の記憶を蘇らせ、精神的な傷を負わせることができた。逆に涯奈は、引退した徳郎が外部に秘密を漏らさぬよう、脅しとして二人を結婚させたのではないか。四方子はメールひとつで夫に襲いかかる便利な凶器だった。徳郎と涯奈はおたがいに剣先を喉に突きつけあうことでフェアな立場にあった。

 涯奈はアキレス腱となる自分のキーワードを徳郎から買いとるつもりだった。だが、名簿にそのキーワードは含まれていなかった。だから脅しとして、磯野にメールを送らせ、四方子に徳郎を襲わせた。確証はないが、一昨年の事件はそういう構図だったのではないか。

 スマートフォンを手にしたまま、反町は過ぎゆく車窓の風景を眺めた。水田の向こう、山並みが続いている。山裾に集落がある。あの小さな屋根のひとつひとつに人がいる。家族や恋人と暮らす者もいるだろう。独りきりで過ごす者もいるだろう。反町は目を閉じた。暗闇に包まれた気がした。無機質な空間をさまよう車椅子のイメージが浮かび、ひとつの疑問符が生じた。

(なぜだ)

 二年前、記憶を取り戻して激高した四方子に襲われ、徳郎は逃げた。車椅子で隠し通路を通り、鉈弟ビルのエレベーターで地上へ行こうとした。だが停電が起きてエレベーターが止まり、逃げられなくなった。

(なぜ、戻ってきた?)

 追いかけてこなかったということは、四方子は隠し通路の存在を知らされていなかったのだろう。徳郎は戻ってくる必要はなかった。停電が回復するまで鉈弟ビルの地下階に身を潜めていればよかったはずだ。

 ――私はずっと黛子が、娘が芸能活動をすることには反対でした。

 目を見開く。四方子は涯奈のことを語った。黛子という、涯奈の本名らしき名前さえ口走った。

 四方子は娘についての記憶を取り戻している。徳郎を刺した直後、二通目のメールで記憶を封印されたはずだ。誰が、いつ、四方子の記憶をまた蘇らせたのか。

(治そうとしたのか)

 四方子の、を。

 涯奈を除けば、キーワードを知っているのは徳郎しかいないだろう。徳郎が記憶を回復させたとしか考えられない。

 ――世間はどうあれ、私はこれを治療行為だと信じてやってきた。

 一昨年、徳郎と初めて離れで話したときの言葉を思いだす。徳郎は自分の仕事に誇りを持っていた。四方子の記憶を奪ったのはあくまで治療行為であり、過ちだとは思っていなかったはずだ。

 四方子にとって、娘との思い出を取り戻すことが必ずしも幸せだとは限らない。怒り、悲しみ、憎しみ。人を殺しかねないほどの強い負の感情を抱えながら生きていかなければならない。かつて四方子に殺されかけた徳郎はそのことを誰よりも理解していたはずだ。それでも封印を解いた。殺される危険を覚悟して妻の記憶を蘇らせた。

 碧様に願おうとしていたのはそれではないか。四方子が娘の記憶とともに生きていく手段を知りたかった。けっきょく徳郎は神の力を借りなかった。自力でそれを成し遂げる覚悟を決め、隠し通路を離れへ戻った。

 それから二人はどんな日々を過ごしたのか。妻の説得に失敗し、徳郎はペーパーナイフで刺された。いま四方子は記憶を回復しているのだから、徳郎が再び説得を試みたことは間違いない。だが、人を殺すほどの強い感情がそう簡単に癒えるだろうか。

 恐らく何度もくりかえしたのだろう。四方子が夫への殺意を抑えられないときは記憶をまた封印した。再び記憶を蘇らせては話しあった。言葉を尽くし、長い時間をかけて妻に許しを乞うた。

「どいつもこいつも」

 独りで生きていくために、人はどれだけ他人の手を借りなければならないのだろう。

「勝手な奴ばかりだ」

 俺も人のことは言えないが。

 小声で漏らした独り言を耳にする者はいなかった。心臓の鼓動のように列車が規則正しく振動する。それを感じながら反町は、まどろみを求めて瞼を閉じた。

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