九 刑事の選択

 これ、ちゃんと録音されてるだろうな。自分から自分に話しかけるなんて妙なもんだ。そうだな、初めに説明しておこう。これを聞いているのは反町竜二、おまえだ。そして、これを話しているのも反町竜二、やっぱりおまえだ。ただし、おまえは俺のことを覚えていない。御倉徳郎の催眠療法で記憶を封じられたのがおまえ。あのキーワードを目にして記憶を取り戻したのが俺だ。

 フリーマーケットに行ったのは憶えているよな。ビルの地下で、左右を反転させたキーワードをメモ帳に書いて、記憶を回復できるか試した。おまえの記憶はそこで途切れているはずだ。いろいろ考えたが結論はこうだ。暗所恐怖症のまま刑事を続けていく自信が俺にはない。だから、俺の人生はおまえに任せる。

 俺はどうなるんだろうな。記憶を封印すれば、今、こうやってスマフォに話しかけている俺はどこかへ消える。いや、おまえがキーワードをもう一度目にすれば思いだすんだろうが、俺はそれを望まない。これは自殺みたいなものか。

 つまらないことを言ったな。俺は刑事でいたい。部屋の明かりが消えたくらいで恐ろしくて動けなくなるんじゃ、刑事は務まらないよな。世の中、生まれつきの病気だの環境の悪さだので苦労してる奴が大勢いる。俺は選択できるだけでもありがたい。俺は俺のため、刑事として仕事を続けられる俺を選ぶことにする。だから、おまえはもう二度と記憶を取り戻そうなんて思わないでくれ。

 前置きが長くなった。本題に入ろう。おまえが知りたいと思っていることは二つあるはずだ。ひとつは実の母親のこと、もうひとつは、御倉徳郎が襲われた日になにが起きたのかだ。

 まず、母親の記憶のほうはまったくの期待外れだった。多少は思いだせたこともある。添い寝してくれたときの顔とか、洗濯物を干している後ろ姿とかな。だが、それだけだ。写真を見るのとたいして変わらない。「ああ、こんな顔だったな」と思うだけで、それ以上はなにも思わなかった。いったい俺はなにを期待していたんだろうな。

 事件のほうは四方子が犯人だろう。俺には刺した記憶がないから、消去法で四方子しかいない。あの離れと鉈弟ビルとの間には隠し通路があった。とはいえ外部犯の可能性はない。二年前、あのビルの地下に店はなかったし、監視カメラの映像によれば地下へ移動した者はいなかったからな。

 そういえば空き店舗が二つもあるというのは、地下一階のことだったんだな。二階から上はオフィスだし、一階は古本屋と歯医者で空きはなかった。元スナックは空いたままだが、向かい側は一年前からスマーフォンの修理店になったそうだ。

 まあ、そんなことはどうでもいい。順番に話すとしよう。一昨年の六月、徳郎と離れで会話したのは金曜日だったな。そのとき偶然、フリーマーケットの準備で来ていた光くんと会った。そして土曜日、徳郎との約束どおり鉈弟ビルの地下階を訪れた。そこにはすでに徳郎がいて、言われたとおりに三面鏡を開き、左右反転したキーワードを目にした。ここで、おまえの記憶は途切れた。

 ここからが俺の覚えていることだ。母親の記憶が蘇り、俺は思わず徳郎に頭を下げた。そんな俺に徳郎は報酬を要求した。森澄紺の連絡先を教えろってな。

 あいつは私立探偵めいたことはしているが、探偵事務所を開いているわけではないらしい。電話帳には載っていないし、ネットで調べても情報がない。もちろん俺だって知らない。だが、心当たりはある。おまえも知ってのとおり、シャカさんなら森澄の連絡先を知っているはずだ。

 なにを森澄に依頼したいのか、徳郎が素直に語ったなら俺はその場でシャカさんに電話したかもしれない。だが、徳郎は決してそれを明かそうとしなかった。森澄のほうから連絡させることを提案しても断られ、怪しいと思った。

 その日はそれだけで終わった。翌日の日曜日、暇を持て余していた俺はフリーマーケットを覗くことにした。ぶらついていると光くんにバッタリ会った。いや、光くんは会場でスタッフをしていたから、あながち偶然でもないんだが。

 休憩コーナーで雑談していて、光くんがうっかり照明スイッチの操作を間違えた。部屋が真っ暗になって俺は悲鳴をあげたらしい。すぐに明るくなったが、床にうずくまったまま俺はぶるぶる震えていて、しばらく立ちあがることさえできなかった。

 おかしいと思うことは土曜の夜にもいくつかあった。窓の外が暗くなっていくのを目にして胸騒ぎを覚えたり、寝るときも明かりを消す気になれなかったり。そのときは気のせいで済ませていたが、今度こそ自分は暗所恐怖症だと認めるしかなかった。

 心配する光くんを適当な言い訳でごまかした。文化会館をでると俺は徳郎に電話した。森澄の連絡先を教えるよう、また要求された。ハメられたと思ったよ。これがアイツの狙いだったんだ。

 記憶を取り戻すと俺は暗所恐怖症になる。刑事を続けていくにはまた記憶を封印するしかない。そのためには徳郎に泣きつくしか選択肢がない。俺は記憶を失って元の木阿弥、徳郎は欲しかった森澄の連絡先を入手するわけだ。

 たぶん、徳郎は油断したんだろう。どうせ俺はすべて忘れるんだからと。森澄になにを依頼するつもりなのか少しだけ口にした。

 みどり様、と徳郎は言っていた。漢字でどう書くのかはわからない。汐帆会で地位の高い人物らしいが、それだけじゃない。みどり様には不思議な力があるそうだ。願いを叶えるためになにをすべきか、最善の方法を授けてくれるんだとさ。

 意外だが、どうも徳郎は本気でそれを信じている様子だった。智恵や徳があるとかじゃない。みどり様には千里眼みたいな、超自然的な力があるらしい。当然、俺は重ねて訊いた。どういう願いを叶えたいのかと。

 電話で話せたのはそこまでだった。埒が明かない。顔を合わせて話をしようってことになった。どうにかできないものかと電車で移動する間ずっと悩んでいたが、いい解決策は思い浮かばなかった。徳郎の家に着いて、表門からインターフォンで四方子に取り次ぎを頼んだ。そして四方子は一人で離れに向かっていった。

 ここからが四方子の証言と食い違うところだ。表門からは書斎の窓が見える。どうやら二人は言い争っているようだった。四方子は人が違ったように激怒していた。

 様子がおかしいと思い、離れのほうへ近寄った。そのとき、ガラスの割れるような音がした。慌てて玄関に入ると、車椅子の徳郎が書斎をでてきて廊下を急ぐところだった。開いたドアから書斎の様子がうかがえた。粉々になったクリスタルの灰皿が床に散らばっていた。憤然とした四方子がこっちへやってきた。手にペーパーナイフを握っていて、これはまずいと直感した。

 きっと四方子は、灰皿を夫の頭に叩きつけようとしたんだろうな。それで徳郎は逃げだした。その後を追って、四方子は寝室に入った。寝室には縁側に通じる障子戸があるから、斜めに進んで近道すれば徳郎に追いつくと考えたんだろう。徳郎は車椅子だから、障子戸を開けるのは手間がかかる。

 俺は慌てて後を追った。寝室で四方子を後ろから羽交い絞めにした。俺を突き離そうとするのをなだめ、落ち着くよう何度も声をかけた。せめてペーパーナイフを奪いたかったが隙がなかった。あきらかに四方子の様子は尋常じゃなかった。髪は乱れ、目のまわりを真っ赤にし、怒りと興奮で我を忘れているようだった。

 そんなことをしていると、いきなり目の前が真っ暗になった。停電だ。俺は床にうずくまり、恐怖で動けなくなった。四方子は俺の手から逃れ、寝室からでていった。徳郎が刺されたのは恐らくこの後だろう。

 どれだけ時間が経ったかわからない。スイングドアが開いて、畳の上が照らされた。懐中電灯を手にした四方子がそこにいた。暗闇に怯えていた俺にとって、それは地獄で仏だった。なにも考えることなく四方子から懐中電灯を奪いとると離れから逃げだした。

 玄関で徳郎が刺されているのに気づいた。あいにく、こっちはそれどころじゃなかった。冷静になったのは表門まで来てからだった。懐中電灯を投げ捨て、警察と病院に電話した。本来はそこで待つなり徳郎の様子を確かめに行くなりすべきだったろうな。パニックが収まったせいか閃いた。左右反転したキーワードを目にすれば記憶を封印できるんじゃないかとな。無我夢中で鉈弟ビルの地下へ行って、そこから先はおまえも知ってのとおりだ。

 俺が経験したのはこれですべてだ。徳郎がみどり様になにを願おうとしたのか、なぜ四方子は激怒したのか、そこまではわからない。わからないことばかりで拍子抜けしているかもしれないな。俺が嘘をついているとでも思うか? 悪いが、知らないことは話せないし、これが本当だと証明する術もない。いいかげん、しゃべり疲れた。あとはおまえに任せる。じゃあな。


 しばらくノイズが続いた後、再生が終わった。占木光は小さく息を吐いた。耳に寄せていたスマートフォンをテーブルに置く。空になったサラダの木皿や、食べかけのラザニアの器などが散らかっている。

 光は店内を見渡した。空席ばかりで従業員の姿すらない。駅前一等地とはいえ、早朝のファミリーレストランに客は少ない。

 背広を来た若い男がこちらへ歩いてきた。コーヒーカップを手にした反町だった。テーブルの向かい側に腰を下ろす。

「終わったか」

 反町の問いに、無言で光はうなずいた。徹夜明けのせいだろう、声に覇気がない。光のほうは逆に、起きたばかりで眠い。午前八時半までに交番へ出勤しなければならない。

「ここのコーヒー、ひさしぶりだな」

 反町が陶器のカップを口元へ運ぶ。心地よい香りが光のもとまで漂ってきた。「あのときは、お世話になりました」ぺこりと光は頭を下げた。

 高校生のとき、ここで進路について相談に乗ってもらった。警察の仕事はどんなものなのか、自分にできそうか、三時間も質問攻めにした。一昨年、高校を卒業した光は警察学校に入学し、今は寒露町にある交番に勤務している。

「で、どうだ」

「そうですね」

 スマートフォンを手にとると、光はテーブル越しに反町へ返した。さっきまで耳を傾けていた長い告白を思い返す。

「嘘をついているようには感じないですね。間違いなく反町さんの声ですし、矛盾もない。信頼していいんじゃないですか」

 そうか。短く応じ、反町はスマートフォンを背広の内ポケットへ滑りこませた。

 御倉徳郎の死から三日が過ぎていた。死因は肺炎だった。明け方に呼吸困難を訴え、救急車を呼んだが病院で息をひきとった。車椅子生活で筋肉が衰えていたことも影響したという。

 反町はすべてを釈迦河に報告し終えていた。一昨年の事件は被害者である徳郎が亡くなったため不起訴のまま終わるだろう。左右反転させたキーワードで記憶を回復できることは、警備部公安課へ伝えている。御倉家にはしばらく監視がつき、四方子から聴取がされるだろう。それらは公安課の仕事であり、反町の手を離れている。

 みどり様は「碧」という字をあてるらしい。信者の証言や汐帆会の内部文書で言及されていた。ある古参信者によれば、戦後間もなく汐帆会が宗教法人として認可を受けたとき相談役を務めていた人物だという。当時二十代だったとしても、今は九十歳を越えていることになる。

 公安課の祐天寺課長によれば、恐らく存命の人物ではないとのことだった。かといって、いつ死亡したのかはわかっていない。会の内部では神様扱いされているという。キリスト教で、功績のあった聖職者が死後に聖人扱いされるようなものらしい。

「光くん、どうして森澄に依頼しようと思ったんだ? おおまかには耳にしてるんだが」

 反町がコーヒーカップをテーブルに置く。ラザニアを頬張っていた光は、咀嚼しながら頭の中で要点を整理した。

「きちんと話すと長くなるんですが」

 二年前に御倉徳郎が刺されたとき、卒業を目前に控える高校生に過ぎなかった光にはなにもできなかった。病院で徳郎は意識を取り戻したが、病状が回復してからも被害届をだそうとしなかった。被疑者不詳のまま捜査は打ち切られた。

 その後も光は反町と会話を交わす機会があった。寒露町の交番勤務となったことを機に、事件のあらましを教えてもらった。徳郎や四方子とも「お巡りさん」として接する機会を得た。とはいえ、さすがに公僕だ。高校生の頃のように探偵めいたことをする気は毛頭なかった。

 事態が急変したのは徳郎が亡くなった日だった。たまたま交番勤務の休日と日曜が重なり、光はフリーマーケットを見物することにした。そこで反町と顔を合わせ、うっかり二年前と同じ失敗をしてしまった。休憩コーナーの明かりを消してしまったが、なぜか反町は平気そうにしている。

 その瞬間、さまざまなことがひとつにつながった。一昨年のときは口を濁されたが、まるで暗所恐怖症のような反応だった。そんな病を抱えて刑事という職業をやっていけるわけがない。反町は記憶を取り戻しているときだけ暗所恐怖症になるのではないか。

「そういえば、あの侵入者も暗所恐怖症だったとすれば説明がつくと気づいて」

 侵入者の正体が反町だったなら、四方子は嘘をついていなかったことになる。そうだとすると停電の時刻との乖離はなんだったのか。

「ひょっとすると反町さんと同じように、んじゃないかと」

 四方子は娘との関係悪化から情緒不安定になり、徳郎から治療を受けた過去がある。催眠療法で記憶を封印されていたとしてもおかしくはない。とはいえ刑事の習性として、反町は素直にうなずくことはできなかった。

「根拠はあるのか」

「懐中電灯のことがあります」

 侵入者が懐中電灯を持っていたと四方子は証言した。しかし暗所恐怖症の反町が、停電で明かりの消えた母屋で懐中電灯を探して持ってくることはできない。

「とすれば、懐中電灯を持ってきたのは四方子さんだと考えるしかないですよね。でも、四方子さんの証言に嘘はないはずです」

 つまり光くんが言いたいのは。手を額にあてて反町が言った。

「ひょっとして四方子は、懐中電灯を持ってきたことを忘れたのか?」

 オレンジジュースのグラスに手を伸ばしながら、光はうなずいた。長く放置していたので、すっかり氷が溶けている。

 四方子のスマートフォンには二通のメールが届いていた。恐らく、左右反転したキーワードを画像で表示したのだろう。停電になる前、離れの玄関まで来ていた四方子は、届いた一通目のメールを目にして記憶を取り戻した。過去を思いだして激怒し、徳郎を襲った。

 それから停電になった。夫を探すため、いったん母屋から懐中電灯を持ってきた。離れの玄関口で徳郎をみつけ、手にしていたペーパーナイフで刺した。二通目のメールが来たのはその直後だった。キーワードを目にして四方子は再び記憶を封印された。

「つまり」オレンジジュースを光は口に含んだ。だいぶ水っぽくなっている。

「四方子さんの意識体験としては、表門で反町さんの応対をして離れに入ろうとした時点から、徳郎さんを刺した直後に時間が跳んでいるんです。母屋から懐中電灯を持ってきた記憶が抜け落ちたから、それを手にしているのに自覚がなかった」

 明かり欲しさに反町が四方子から懐中電灯を奪って逃走した。それを四方子は、懐中電灯は侵入者が初めから持っていたと合理的に解釈した。

「ここまで考えて、磯野さんの役目に気づきました」

「役目?」

「メールを送るタイミングを見計らう役です」

 徳郎を刺したのは四方子だとしても、四方子にメールを送った黒幕がいるはずだ。四方子の封印された記憶には、徳郎への強烈な憎しみがあることを黒幕は知っていたのだろう。

 両手の平で温めるようにコーヒーカップを抱えていた反町が、顔を上げた。

「そうか、俺が来たからか」

「でしょうね。黒幕としては脅しのつもりでしかなかったと思うんですよ」

 キーワードの画像ファイルをサーバから削除すれば証拠は残らない。その意味では完全犯罪だ。だが、憎しみが蘇ったからといって間違いなく殺せるとは限らない。実際、徳郎は死を免れた。

「刑事がいれば異常事態に対処してくれる。磯野さんは鉈弟ビルの喫煙所で、本当はしっかりと御倉家の様子をうかがっていた。反町さんが来たのを目にして、ちょうどよい機会だと思った。思いがけず停電が起きて、慌てて二通目のメールを送って事態を収拾しようとした。そんなところじゃないかなと」

 グラスを傾け、光はオレンジジュースを飲み干した。溶け残りの氷を噛み砕く。

「ここまで考えて、まずいと思いました。黒幕は徳郎さんを狙っていた。徳郎さんが亡くなったタイミングで黒幕がなにか動きを見せるんじゃないか。四方子さんだけでは危ないんじゃないか」

「それで森澄に依頼したわけか」

 正確には釈迦河を介して依頼した。警官とはいえ光がたった一人で警護するわけにもいかない。光の推理は当て推量が多く、警察組織を動かせるほどのものではない。緊急措置として頼りにできるのは森澄だけだった。

「まさか隠し通路をみつけてくれるなんて、思いもしませんでしたけどね」

 反町は苦い顔をした。鉈弟ビルの地下で意識が途切れ、気がつけば御倉家の離れにいた。そこには森澄紺もいた。スマートフォンに録音された自分自身の告白を聞き、どうにか状況を理解した。依頼人が占木光であることを森澄は明かし、捕り物に協力してほしいと頼んできた。

 光の杞憂は現実のものとなった。磯野鈴音が離れの寝室を物色している様子を森澄は隠し撮りした。初めのうち、磯野は警察署に行くことを頑なに拒んだ。刑事である反町が加勢するとあきらめた。

 眠気を覚え、反町はコーヒーカップを口元に運んだ。頭がうまく回らない。目の前にいる、スプーンでラザニアを美味しそうに食べている若者の姿をみつめる。文化会館で別れてからのわずかな時間で、この青年はそこまで推理し、行動したのか。

「本当に四方子が刺したと思うか」

 独り言めいた反町のつぶやきに、スプーンを口にくわえたまま光は顔を斜めにした。

「四方子は記憶を失っていて証言できない。俺が嘘をついているかもしれない」

 ぽんぽんと、反町はスマートフォンを収めたあたりを叩いてみせた。「そうですねえ」斜め上をみつめながら光が口を開く。

「大丈夫だと思いますよ」

「なぜ、そう思う?」

「鉈弟ビルの地下に、です」

 二年前の光景が反町の脳裏に浮かんだ。徳郎の姿が消えたと錯覚し、元スナックの部屋をでた。廊下の蛍光灯の明かりをみつめるうちに頭の中が白く灼きつくされそうに感じた。「ああ、そうか」思わず独り言ちた。

 徳郎が刺された後、元スナックの部屋に反町はどうして入ることができたのか。地下は空き店舗ばかりだ。人の出入りもなく、明かりはすべて消されていたはずだ。暗所恐怖症の反町は階段を下りることができなかったはずだ。節電でもしているのか、二年が過ぎても階段は明かりが点かなかった。エレベーターを使ったとしても廊下が真っ暗だから同じことだ。

 明かりを点けたのは恐らく徳郎だろう。激怒した四方子から逃れ、隠し通路を使って鉈弟ビルの地下階へ逃れた。廊下の明かりを点けてエレベーターで地上へ逃れようとした。だが、そこで停電が起きた。エレベーターが動かなければ車椅子の徳郎には脱出しようがない。しかたなく離れへ逆戻りし、そこで四方子にみつかって刺された。

「よくある話ですよね。停電で明かりが消える。停電から回復すると、スイッチが入れっ放しの照明が勝手に点く。通路とか部屋の明かりが点いていたからこそ、反町さんは暗所恐怖症でも部屋に入ることができたんじゃないかと」

 扉の鍵も同じことだろう。普段は鍵がかけられていたが、エレベーターへ向かおうとした徳郎が内側からつまみをまわして解錠した。離れへ戻るとき施錠し忘れたため、後から来た反町は苦もなく部屋に入ることができた。

「ということは、徳郎さんが刺されたのは停電の後です。反町さんは暗所恐怖症のせいで、寝室で身動きできない状態でした。犯人は四方子さんに限定されます」

「まあ、本当の犯人は黒幕ということになるがな」

「そうですね。これが犯人当て小説だったら、犯人は四方子さんでしょうけど」

「犯人当てなら、なにが違うんだ」

「さっき話しましたけど、黒幕は徳郎さんを殺そうとまでは思ってなかったでしょうから。本気で殺そうとして徳郎さんを刺したのは四方子さんなんです」

 僕も反町さんに訊きたかったことがあります。空になったラザニアの器にスプーンを置くと、占木は唇を開いた。

「二年前、記憶の回復に成功したこと、シャカさんに報告しなかったんですね。なんだか反町さんらしくないなと思って」

「覚えていないから答えられないんだが……まあ、俺も刑事である前に人の子だってことだろうな」

 再び記憶が封印された今、そのとき自分はどう判断したのか本当のことはわからない。せいぜい想像するだけだ。

 記憶の回復に成功したと報告すれば、東京にいる誰かは喜んだことだろう。それで捜査が前進したかもしれないし、少なくとも捜査一課は公安に恩を売ることができた。客観的に判断すれば、反町が釈迦河に報告しない理由はなにもない。

 それでも報告しなかったのは、思い出を取り戻したことが反町にとってプライベートなことだったからではないか。長く患っている持病のことを他人にはおいそれと話せないように。孤独な苦しみは人とわかちあうことができない。

 ちょっと行ってきます。空のグラスを手にして、立ちあがった光がドリンクバーのほうへ歩いていく。その後ろ姿をみつめながら反町はぼんやりと物思いにふけった。

 森澄の連絡先を教えるよう、徳郎は要求した。それでいて森澄のほうから連絡させることは拒んだ。連絡先を、相手に気取られることなく知りたいのはどんなときか。森澄のほうに、徳郎と接触したくない事情があったのではないか。会おうとしていることを知られると森澄に逃げられる。そう心配したから、徳郎は連絡先だけを入手しようとしたのではないか。

 神戸の事件で汐帆会の教祖が逮捕された前後、ネットでひとつの噂が流れた。当時まだ高校生だった森澄紺が警察に捜査協力し、真相を突きとめたという。素人探偵が怪しげな宗教団体の闇に迫る。暇を持て余した者たちが喜びそうな、荒唐無稽な話だ。

 しかし、こう考えればどうだろう。森澄紺は汐帆会とつながりがあった。会の内部情報に接近できる立場にあった。徳郎の家を訪れ、敷居をまたいでも当然とされる間柄だった。だからこそ神戸の事件で謎を解き明かすことができた。

 磯野鈴音と同じだったのではないか。なんらかの情報を得るため、森澄も徳郎の死と同時に御倉家を訪れた。そこへ折良く光からの依頼があった。そもそも御倉家に到着するのが早すぎる。初めから森澄は御倉家に来て、なにか良からぬことをするつもりだったのではないか。磯野を排除し、それから――。

「大丈夫ですか?」

 びくりと腕が動いた。カップの中でコーヒーが揺れ、こぼれそうになった。「おう、すまん」反町は、光に笑顔を向けた。眠りこけそうになったらしい。考え事をしていたはずだが、なんだったろう。

 森澄はどうやって御倉家に入りこんだのか、だったか。まあ多分、俺が御倉家で隠し通路を探していたところへ森澄がやってきたので、磯野に俺が口添えして入れてやったのだろう。反町はその結論に満足し、コーヒーを啜った。

 向かい側に光が腰を下ろす。メロンソーダを満たしたグラスを手にしている。フリーマーケットの日はまだ肌寒かったが、彼岸を過ぎてから急に暖かくなった。

「さっきの話だが、光くんならどうした?」

「うーん、そのときになってみないとわからないですね」

「そうなのか」

 意外に感じた。徳郎がなにか困っているなら、脅しという卑怯な手段をとられても相談にのり、釈迦河の手も借りて最善の手段を探す。光はそんなふうに考えると思っていた。

「良いと思ったことを全力でやればいいと以前は思ってました。でも、とっさの判断って難しいですよね。他人を信じすぎても疑いすぎてもダメですし、自分を大事にするのもないがしろにするのもダメなんです。迷いすぎて良くない判断をすることもあるし、直感だって当たっているとは限らない。絶対に確実な判断なんてない」

 でも、だから、うーん、なんていうか。光は視線を宙にさまよわせた。

「独りで考えるのって、大切なんですよ」

「そうか?」

「自分で考えて選んだことでないと、責任とれないですから」

 なにか言い返そうとして、反町は言葉を呑みこんだ。「ああ、そういえば」なにかが脳裏をよぎった。

「明日香ちゃんとはどうなったんだ」

 ストローをくわえた光が動きをとめた。緑色の液体がストローを上がっていき、また下りていく。

「きちんと話すと、長い話になるんですけど」

 光は笑みを浮かべた。恥ずかしそうな、それでいて満足げな微笑みだった。

「じゃあ、いい」

 まあ聞いてくださいよ。僕が警察官になること、どれだけ反対されたと思います? 語り始めた光を押しとどめる言葉が思い浮かばない。どうやら睡眠をとれるのはもう少し先になりそうだと反町は思った。

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