八 老女とアイドル
眠りかけていたようだった。肩を震わせ、四方子は顔を起こした。長く顔をうつむけていたせいか首の後ろに鈍い痛みがあった。柔らかな一人掛けのソファに優しく包みこまれているうちに油断してしまったらしい。
見慣れない光景にとまどう。ここはどこだろう。ソファセットとローテーブル、隣には誰もいない長机がある。机のまわりに椅子が整然と並んでいる。天井が高く、床には絨毯が敷き詰められている。ホテルのような雰囲気だが、どことなく殺風景にも感じる。
ローテーブルに紙コップが置かれている。煎茶はすっかり冷めてしまったらしい。ハッとして四方子は右手を握りしめ、それを左手で包みこむようにした。思いだした。ここは待ち合わせ室だ。装飾が質素なのも、葬儀場なら当然だ。
「こんなところにいたのね」
女の声がした。四方子が顔を向けると、若い女の姿があった。開け放したままの両開きの扉から入ってきた女が早い足取りで近づいてくる。その後ろにはスーツ姿の男が付き従っている。
四方子は女の名前を知っていた。時任涯奈。アイドルグループの一員として活動した後、汐帆会への出家を宣言して耳目を集めた。今は汐帆会から脱会し、新しい宗教団体の教祖として知られている。
「探したわ。意外に広いのね、ここ」
三人掛けのソファの真ん中に涯奈が腰を下ろす。黒のワンピースにジャケットの組み合わせは、葬儀の場であることを意識して選んだのだろう。ゆるやかにウェーブする髪を肩まで伸ばし、好奇心に満ちた瞳が四方子を観察している。
男はソファの横に立ち尽くしていた。すぐそこに一人掛けのソファがあるというのに。背広を着ていても鍛えられた身体つきだとわかる。視線はまっすぐ前を向き、石像のように身動きしない。
「この人のことは、気にしなくていいから」
視線に気づいたのだろう。涯奈はそう口にしながら足を組んだ。
四方子は壁の時計を見上げた。約束の時刻を二十分近く過ぎている。緊張し、やがて待ちくたびれた四方子がうとうとするのも無理はない時間だ。疲れと眠気で頭の中が霞んでいる。「元気そうね」四方子は絞りだすような声で呼びかけた。
「あなたは疲れているみたいね」涯奈が微笑む。
皮肉を受け流すように四方子はうなずいた。
「もう年だから。会の方たちが来てくれて、いろいろ助かったわ」
汐帆会は冠婚葬祭での助け合いを重視する。御倉徳郎の出身は三重県だが、親戚付き合いのある者はいない。医師として長らく人々と関わってきただけあって参列者は多かった。汐帆会の助けがなければ四方子は途方に暮れていただろう。
「お話はなんですか」
「あなた、御倉徳郎を殺したの?」
きっと唇を結び、四方子は涯奈を睨んだ。きれぎれの想いが胸のうちに浮かんでは消えていく。強い憎しみが瞬時に膨れあがり、そして萎んでいった。
「あら、ごめんなさい。悪かったわ。ひょっとしたらと思ったんだけどね」
フフ、と鼻を鳴らす。酔ったように涯奈は身体を前後に揺らした。しばらく思案するようにそうしていたが、不意にソファから立ちあがった。
「時間の無駄だったみたいね。行くわよ、
四方子は瞼を閉じた。息を吸い、ゆっくりと吐きだす。決意を込めて言葉を放つ。
「
その場を離れようとしていた涯奈の足が、ぴたりととまった。
「なにも知りませんよ」
ゆっくりと涯奈がふりかえる。四方子の顔を見下ろしたまま動かない。
「でも、あなたのことなら知っている。ええ、よく知っていますよ」
四方子も涯奈をみつめていた。蔑みと哀れみの混じった目をしていた。
「
その三文字の響きが涯奈の表情に亀裂を入れた。瞬時に頬が紅潮し、怒りに髪を逆立てる。四方子は無言で、それまで左手で包みこんでいた右手の握り拳を開いた。涯奈の目の前に突きつける。
劇的な効果だった。涯奈はとっさに目を逸らそうとした。だが、それはできなかった。目を見開いたまま、ひくひくと頬を引き攣らせている。まるで鼻を捻じられ、それにつれて顔の皮膚がすべて
「海木!」天井を仰ぎ見る姿勢のまま、四方子を指差す。伸ばした人差し指の先がぶるぶると震えている。「キーワード! 早くキーワードを!」
四方子はローテーブルに手を伸ばした。紙コップを手にとり、煎茶を手の平にこぼす。両手をこすりあわせると水性ペンで綴られた文字は滲み、ただの汚れとなった。アルファベットと数字で構成された文字列を判読することは、もう誰にもできない。
腰が砕けたように涯奈はソファの端へ座りこんだ。乱れた髪に顔が隠れる。半開きの唇が細かく震えている。
「なるほど」海木が白い歯を見せた。
「無理にでも教えてもらわないといけなくなったな」
海木はローテーブルの側面を回りこんだ。四方子の、喪服の肩に手を置こうとする。
足音がした。海木は動きを止めた。開け放したままの両開きの扉の向こう、制服姿の警察官が廊下を横切ろうとしている。そのまま通り過ぎていくはずだった警官は、室内の様子に違和感を覚えたらしい。部屋に入ってきた。
「なにかありましたか?」
まだ警官になって日が浅いのだろう。若く、柔和な顔をしている。顔色の悪い涯奈を一瞥し、海木と四方子に問いかけた。
四方子はなにも答えなかった。海木は唇を固く結び、じっと警官を観察している。
「行きましょう」
弱々しい声がした。頭痛をこらえるように、顔の上半分を手の平で覆った涯奈が腰を上げる。足元がふらつき、素早く海木が駆け寄った。しかし涯奈は海木の手を拒み、毅然とした様子で歩きだした。
そういえば、ご存知ですか。四方子に向かって警官が話しかける。
「磯野鈴音さんのことです。ホームヘルパーをされている」
廊下へ向かおうとしていた涯奈が入り口際で足を止め、ふりむいた。
「窃盗の容疑で逮捕されたそうですよ。たまたま訪れていた私立探偵が見咎めたとかで」
「ええ、警察の方から連絡を頂きました」
「そうですか、それなら良かった」
涯奈が唇を開いた。だが、そこから言葉はでてこなかった。奥歯を噛みしめ、四方子の顔を睨みつけていたが、不意に顔をそむけると廊下へでていった。海木が急いでその後を追った。
うまくいきましたね。警官が四方子の耳元に口を寄せると、そっと小声でささやいた。
ありがとうございます、占木さん。そう言いながら四方子は頭を下げた。
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