七 犯人がわかりました
警察学校を卒業間近の頃だった。反町は寮で相部屋の男と雑談を交わしていた。会話の流れは忘れたが、不意に相手が「みんなを守るのが俺たちの仕事だから」と口にした。深く考えることもなく反町は頷きを返し、それから、悪臭を嗅がされたような気分になった。
警察官になってからも、まわりに似たことを口にする者が何人かいた。そのたびに場違いなところにいるような、据わりの悪い思いをした。警察という組織に属すには自分にはなにかが欠けている。そう感じるようになった。
――こいつら、自分が正義だと思ってやがる。
胸のうちで苦しまぎれに吐く悪態はねっとりと喉に貼りつき、流れ落ちようとしなかった。どこかに正しい答えがあるのだろう。だが、自分はまだそれを知らない。焦りに似た想いが消えることのない炎のように心を炙り続けた。
占木光と知りあったのは食品会社の副社長夫人が襲われた事件がきっかけだった。法外な借金を負った若者が、夫人を襲うよう脅迫された。だが命を奪うことに失敗し、破れかぶれになって教唆犯を銃で脅したことが真相の発覚につながった。
若者がとった行動を反町はひそかに
(この夢は……)
暗闇の中、階段を上っている。ひとつひとつの段がやたら大きく、踏板の幅も不揃いだ。明かりはほとんどない。足で探ったり、ときには手で確かめなければならない。ぶよぶよと床が柔らかく、ときに足首がめりこんで転びそうになる。
これが夢であることを反町は気づいている。幼い頃にくりかえしみた夢、いつの間にか忘れていた悪夢だ。目を覚まそうという考えには不思議と至らなかった。ここからでていくことだけを気にかけている。
力尽きたのか、へなへなと腰が砕ける。尻餅をつき、両膝の間に顔を押しつけ動きをとめる。手の平も顔も汗まみれ、埃まみれだ。もう嫌だと心の底から想う。大きく両腕をふりあげ後ろへ倒れこむ。体操マットのような柔らかな床に受けとめられる。仰向けになり、ぴったりと手の平で顔を覆う。
触れられている。誰かの手に頭を撫でられている。日溜まりにいるように身体が温かい。指先まで血が通っているのを感じる。瞼を開く。涙でにじんだ視界に面長な顔がある。美しい顔が心配そうに眉を曇らせている。かあさん。そう呼びかけようとしても喉に詰まって声にならない。
「気がつきましたか」
反町は目を見開いた。わずか五センチ先に整った顔がある。甘い香りが鼻腔を突いた。
跳ね起きる。かけられていた毛布が胸の上からずり落ちた。ふりむくと、横座りしている森澄紺がいた。肩に掛かっていた長い黒髪がするすると滑り落ちる。
我知らず、反町は頭のてっぺんに手をやった。さっきまで安らぎを感じていた柔らかさはなんだったのか。いや、待て。危険だ。そのことは考えるな。それより、ここはどこだ。
きょろきょろと周囲を見渡す。障子戸と縁側のガラス戸に挟まれた長い廊下。どうやら離れに戻ってきたらしい。物置のほうをふりむくと、引き戸が閉まっている。
「隠し通路は」
夢じゃないよな。ぽつりと反町がつぶやくと、森澄がすみませんと頭を下げた。
「混乱してるみたいですね。反町さん、気を失ったんですよ。ボクの悪戯のせいで」
膝を覆っている水色の毛布に反町は目を落とす。磯野に頼むか、森澄が自分で寝室から持ってきてくれたのだろう。それはいいとして、気を失った反町を鉈弟ビルからどうやって運んだのか。
「お詫びに、ひとつ良いことを教えてあげましょうか」
「なんだ」
「御倉徳郎さんが刺された事件、ありましたよね。あの犯人がわかりました」
警戒するように反町は眉をひそめた。柱に背中を預けた森澄が長々と足を伸ばす。
「まあ、こうやって隠し通路がみつかってしまえば、中学生にだってできる推理ですけどね」
事件のとき、この家には四人の人物がいました。そう言いながら森澄は右手で四本の指を伸ばす。
「徳郎さん、四方子さん、反町さん、そして謎の侵入者です。状況からして徳郎さんを刺したのは侵入者でしょう。ところが、こいつは監視カメラに映っていません。ということは停電でカメラが機能していなかったときに侵入したのか?」
おまえがどうして捜査情報を知っているんだ。ツッコミを入れたいところだったが、反町はひとまずこらえることにした。
「それは無理があります。だって停電は事故ですからね。いつ起こるのか、あらかじめ知る手段がありません。それより隠し通路を前提に考えるべきでしょう。犯人は通路から離れに侵入した。そこへ、たまたま停電が起きたと考えるほうが自然です。さて、隠し通路を使った侵入者は誰なのか?」
人差し指だけを伸ばし、それを横に向ける。指の先には物置の引き戸があった。
「汐帆会の関係者でしょうか。鉈弟ビルの監視カメラには、地下へ下りる外部からの来訪者は映っていませんでした。では、喫煙所で一休みしていたという磯野さんでしょうか。いいえ、二階からエレベーターなり階段なりで移動したら、それも映像に残っていたはずです。ビルの外から来たわけでも、どこかのフロアから下りてきたわけでもない。とすれば、残された可能性はひとつだけ」
物置のほうに向けていた指を、森澄は唇の前に立てた。まるで秘密の打ち明け話をするように。
「侵入者は初めから地下にいた。反町さんがいらっしゃる前に探ってみました。地下一階にあるのはスマートフォンの修理店だけでした。ちらっと覗いてみただけですが、店主一人しかいないようですね。あの人が暇なときに興味本位で空き店舗を探索して、たまたま隠し通路をみつけた。離れに入って徳郎さんにみつかり、騒がれたので刺してしまった。どうです、ありえる話だと思いませんか?」
思うわけないだろ。反町は即答した。
「おまえも見ただろう。開店一周年のポスターを」
狐につままれたように森澄は動きをとめた。握り拳をつくり、もう片方の手の平へ打ちつける。
「あ、なるほど。さすが刑事、素晴らしい観察眼ですね」
蚊を追い払うように反町は軽く手をふった。そういうおとぼけはもういい。
「おまえ、わかってるんだろ」
「なんのことでしょう」
「四方子が発見したとき、侵入者は寝室の床にうずくまっていた。障子が閉まっていたとはいえ、表は明るかった。鼻をつままれてもわからないような本当の闇じゃなかった。にもかかわらず、侵入者は動こうとしなかった。寝室には縁側へ通じる障子戸がある。スイングドアの陰に身を隠すって手もある。逃げることも隠れることもせず、侵入者はなにをしていたんだ?」
「そうですねえ。徳郎さんだけでなく、四方子さんも襲うつもりで待ち伏せしていたとか」
「だったら懐中電灯だけ奪って逃げるなんて不自然だろう。もっと簡単で、筋の通る解釈がある。停電は突然だった。誰にも予想できないことだった。侵入者が、薄暗がりでさえ恐ろしくて身動きできなくなる病気だったとしたら」
暗所恐怖症。ぽつりと森澄が答えた。
「それでおまえはさっき、なにを確かめた? 俺を誘いこみ、不意を突いて明かりを消し、どう反応するか実験したよな」
侵入者と反町、どちらも闇を怖がって動けなくなる。暗所恐怖症などという珍しい病を抱えた人物が事件のとき二人もいたのか。そんなわけがない。
「侵入者は、俺だった」
床に指先をつき、力を込める。立ちあがった反町の膝から毛布が滑り落ちていく。
あれ、反町さんが犯人なんですか。森澄がパチパチとまばたきをした。
「さあな、どう思う?」
反町が森澄を見下ろす。無言のまま刑事と探偵はおたがいをみつめた。
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