六 封印が解かれるとき
列車を降りたのは反町だけだった。長いホームを端まで歩き、二台しかない自動改札機を抜ける。文化会館をでたときには弱まっていた雨が、また強くなっていた。コンビニエンスストアに駆けこんでビニール傘を買った。
緩やかにカーブする道を歩く。濡れたアスファルトに電柱の影がぼんやりと映る。ビニール傘の向こう、背の低いビルの連なりが歪んでいる。
(あのとき、俺に勇気があったなら)
なにか変わっていただろうか。丸一日分の記憶が消えていると知ったとき、反町の胸を支配したのは恐怖の二文字だった。捜査から外されても、むしろ安堵していた。
あの異常な状況は、調書にはどう記されたのだろう。刑事が現場にいて事件を通報した。本来なら最寄りの交番から駆けつけた警察官と協力し、現場保存などをすべきだ。それを放棄し、反町は御倉家から姿を消した。数時間後には記憶を失っていた。
反町は自身の体験を釈迦河にありのまま語った。どこまで信頼されたのかわからないが、御倉徳郎に接触したことは他言無用となった。当然、事情を知らない同僚からはなにがあったのか何度も訊かれた。そのたびに反町は言葉を濁し、逆に問い返すことで事件の概要をつかんでいった。
何者かが離れに侵入し、徳郎をペーパーナイフで刺して逃走した。侵入者の正体はわかっていない。御倉家は三方を板塀で囲まれ、北側は鉈弟ビルの土台であるコンクリートの壁に接している。表門と裏口があり、それぞれ監視カメラで絶えず撮影されている。十年近く前に徳郎が襲われたことをきっかけにセキュリティに気を配るようになったらしい。しかし監視カメラの映像に侵入者の姿はなかった。ただし映像には欠落があった。
反町には覚えがなかったが、事件が起きた日は停電があった。電力会社の設備故障により寒露町を含む広範な地域で電力供給がストップした。記録によれば停電は午後四時二十八分から十五分ほど続いたという。
無停電電源装置があれば監視カメラは停電時でも動作する。だが御倉家に設置されていたものはそうではなかった。侵入者は停電の合い間に出入りしたため、映像に姿が残らなかったと推察される。
当日の天候は曇り空だった。寝室は障子を閉めており、かなり暗かった。御倉四方子によれば侵入者はジャケットを着た若い男性だったという。四方子に断言できたのはそこまでで、服装の特徴や容貌は暗さのせいでわからなかった。駅の監視カメラ、付近住民からの聞き込みも功を奏さなかった。
短い時間だが、病院で意識を回復した徳郎は事情聴取を受けている。離れの書斎には灰皿の破片が床に散乱していた。停電により部屋が暗くなったことに驚き、うっかり肘でついてデスクから落としたと徳郎は証言した。母屋のほうへ様子を見に行こうとして玄関へ来たところで襲われた。背後から襲われたため侵入者の顔などは目にしなかったという。
担当した刑事が不審を抱き、詳細を問おうとしたが医師に阻まれた。捜査会議の場では証言の不自然さが指摘された。四方子によれば凶器のペーパーナイフはいつも書斎のデスクに置かれていたという。侵入者はいったん書斎に侵入し、ペーパーナイフを手にして玄関へ向かったことになる。書斎から玄関までは目と鼻の先であり、徳郎と侵入者は顔を合わせていなければ動線としておかしい。
侵入者など存在しないのではないか。そんな仮説が捜査員たちの間でささやかれるようになった。ペーパーナイフの柄には徳郎の指紋のみ、侵入者のものらしき指紋はどこからも検出されなかった。
代わりに容疑者筆頭とされたのが四方子だった。四方子の証言には矛盾があった。監視カメラの映像によれば午後四時十七分に反町が表門を訪れている。四方子は離れへ向かい、書斎に明かりが点いているのを窓越しに目にした。玄関から離れに入ると書斎の明かりが消えていた。この証言が正しければ、離れへ入ろうとしたとき停電が起きたことになる。しかし停電は四時二十八分からであり、十分ほど開きがある。
離れへ入ろうとしたとき四方子が目にしたというメールの受信時刻とも合わなかった。四方子のスマートフォンには海外のサーバから配信されたスパムメールが二通あり、一通は四時十九分、もう一通は四時三十六分に受信していた。どちらも停電が起きた時刻とは離れている。
四方子はなぜ嘘をついたのか。ひょっとして徳郎を刺したのは四方子ではないか。侵入者など四方子の狂言に過ぎず、徳郎は妻をかばっているのではないか。
(そうだろうか)
反町がでていくところは表門の監視カメラに映っていなかった。停電から回復する前に侵入者と反町は御倉家の敷地をでていったことになる。現場から逃げようとした侵入者を反町が追跡したのではないか。
(本当に、そうだろうか)
侵入者を追跡するため現場を離れるしかなかった。自分はそう言い訳したいだけではないか。刑事としての自分を信じたいがために、都合の良い妄想に逃げこもうとしているのか。
滑り止めの溝が刻まれた急な坂を上がる。御倉家の板塀が途切れ、配管とエアコンの室外機が並ぶビルの壁面が現れる。角を曲がる。鉈弟第九ビルヂングの切り文字が並んでいる。古書店の奥、仏頂面の店主がカウンターで新聞を広げていた。
反町は薄暗い入り口に足を進めた。白地に赤い字で「開店一周年記念半額セール」と綴られた幟があった。フロア図、各階の案内、エレベーターの扉。今日は動いているようだ。通路を奥へ進む。
あの日、反町が鉈弟ビルからでてきたとき午後五時を過ぎていた。徳郎が襲われたのは四時半前後だから、その後で反町は鉈弟ビルの地下へ向かったことになる。なんのために移動したのか。
土曜日の昼下がり、鉈弟ビルを訪れた。徳郎に促され、三面鏡を覗くと意識がおかしくなった。気がつけば徳郎の姿は消え、いつの間にか日曜日になっていた。
あのときは頭の中が真っ白になったが、今なら合理的な仮説が思い浮かぶ。記憶を再封印すると、徳郎に消された幼い頃の記憶だけではなく、封印を解いていた間の記憶も思いだせなくなるのではないか。
土曜日に三面鏡を覗いたとき、実は記憶の回復に成功した。そして日曜日、徳郎が襲われた後で反町は鉈弟ビルの地下へ移動し、三面鏡を覗くことで記憶を再び封印した。このとき幼い頃の記憶だけでなく、土曜日から日曜日にかけての記憶も封印されてしまった。結果的に土曜日から日曜日へ時間を跳躍したように感じた。土曜日は徳郎がその場にいたが、日曜日は反町一人しかいなかった。途中の記憶が抜け落ちたことで、あたかも徳郎が消えたように錯覚した。
この仮説が正しければ、記憶を蘇らせたり封印したりする手段はひとつしかない。あのキーワードを目にすることだ。それなら会議室で見せられたときにはなぜなにも起きなかったのか。条件がもうひとつ必要だ。それは徳郎がいなくとも成立する条件であり、馬鹿ばかしいほど簡単なことなのかもしれない。
(試してみるだけなら、いいさ)
通路の最奥、階段室があった。壁にあるスイッチを入れる。だが、天井の蛍光灯は暗いままだった。
(おいおい)
思わず眉をひそめた。まさか偶然ということはないだろう。節電のため意図的に切れたままにしているのか。薄暗さに目をこらしつつ、反町は慎重に階段を下りていった。
幸い、地下階は通路に明かりが灯っていた。通路の右手奥にガラス扉があった。看板にある店名や料金表からしてスマートフォンの修理店らしい。開店一周年記念の半額セールをうたうポスターが貼られている。ガラス扉の向こう、青白い顔をした若い男が固定電話の受話器を耳にあて誰かと話をしていた。
左手側の奥に、見覚えのある木製のドアがあった。ドアノブをつかみ、捻じり、押す。固い手応えに阻まれた。開かない。
(それもそうか)
ドアノブの下に鍵穴があった。ありきたりなシリンダー錠らしい。あのときは徳郎が手をまわして鍵を開けさせたのかもしれない。スナックの店長が夜逃げしただの、空き店舗が二つもあるだの、話しぶりからしてビルのオーナーと親しい様子だった。
(なら、Bプランだ)
ジャケットの内ポケットから反町は手帳をとりだした。あのキーワードは頭に焼きついている。ボールペンを手にし、一文字ずつ脳裏にイメージを思い浮かべながら白紙のページに記していく。
たいして期待していたわけではなかった。だからこそ、足元の揺らぐような感覚に見舞われたときには動揺した。どこかへ引き寄せられるような感覚。どこまでも深いところへ下りていく気分。
吐きそうだ。歯を食いしばりながら反町は手帳をみつめた。そこには左右を反転させて描いた文字が並んでいた。
(これだったか)
ポストイットは三面鏡に貼りつけられていた。正確には右側の鏡だった。三面鏡を九十度ほど開けば、右側の扉に貼られたポストイットの文字は正面の鏡に左右対称に映る。反町にそれとなく左右を反転させたキーワードを目にさせること、それが三面鏡を使った目的だった。
(そうだ、こんな顔だった)
瓜実顔の女性が台所に立っている。洗い物をしている水音が響く。どう話しかけるべきかわからず、幼い頃の自分はただ三日月のような横顔をみつめている。
(どうでもいい)
いま思いだすべきことは違う。御倉家を訪れたとき、なにが起きたのか。なぜ自分は現場を離れ、ここへ来たのか。
手帳を閉じる。口元を手の平で覆い、壁によりかかる。瞼の裏にあるスクリーンに映していく。暗闇、電話越しの声、懐中電灯の光、陰鬱な曇り空。
やがて反町は思いだした。あのときの、すべてのことを。
風雨にくすんだ扉が開く。エプロンを着た中年女性が立っていた。栗色に染めたマッシュルームヘアー、前髪で額がほとんど隠れている。笑顔だが、眉が薄すぎるせいか不気味さを覚える。
反町は記憶を探った。ホームヘルパーの、たしか名前は
「すみません、警察手帳を見せていただけますでしょうか」
磯野に請われるまま、反町はジャケットの内側に手を伸ばした。たとえ休日でも警察手帳は持ち歩いている。二十代の頃は坊主頭で、休日にはもっとラフな格好をしていた。妹に「チンピラみたい」と言われたのを機に髪をスポーツ刈りにし、ジャケットを着るようになった。
胸の前に反町が掲げた手帳を、女はじっくりと観察した。ようやく信用されたらしく、身振りで招き入れられる。表門から足を一歩踏み入れると同時に反町は離れのほうへ顔を向けた。
「こちらです」
大根のように太い腕をした女が先を歩いていく。雨は止んでいたが、石畳の通路は濡れて黒ずんでいた。
「失礼ですが、四方子さんは」
「留守にしております」
ふりむいた顔は強張っていた。刑事などという招かれざる客には無理もない態度か。
通夜のため、四方子は葬儀場から帰らないと磯野は説明した。遠方からの弔問客がここに泊まるため、四方子から留守を頼まれたという。
反町が磯野の顔を目にするのは今日が初めてだ。証言の内容は耳にしていた。磯野鈴音も汐帆会の信者だ。御倉夫妻がこの家へ越してきたとき、その縁で雇われたという。
徳郎が襲われたとき、磯野にはアリバイがあった。ホームヘルパーの業務のため午後五時に御倉家を訪問する予定だった。早めに着いたため鉈弟ビルで休憩することにした。ビルの二階にある喫煙所で一服したという。
本来はビル関係者のための喫煙所だ。二階に不動産会社があるため一般客が珍しくない。おかげで部外者の磯野でも問題視されなかった。煙草を喫っていると停電があった。気にせずそのままのんびりしていると、救急車の音が近づいてきた。それで慌てて御倉家に駆けつけたという。
この主張は鉈弟ビルの一階にある監視カメラの映像によって裏づけられた。御倉家の監視カメラと違って、こちらは停電中でも動作していた。一階のエレベーター、階段、出入口の様子が記録されていた。
午後四時二十分過ぎ、エレベーターに乗りこむ磯野の姿が映っていた。それから三十分ほど後、エレベーターから小走りで駆けていく姿が記録されていた。喫煙所の窓から御倉家の敷地を見下ろせる。表門の反町や、でていった侵入者を目にできたはずだ。あいにく磯野は窓に近寄ることはあってもずっとそこにいたわけではなく、なにも気づかなかったと述べた。
鉈弟ビルの監視カメラには反町の姿も映っていた。午後四時四十五分過ぎに地下階へ階段を下りていき、五時過ぎに再び階段を使って一階へ戻ってきたという。監視カメラはエレベーターランプや階段も視角に入っている。磯野がこっそりエレベーターや階段で地下階へ移動したなら映像に残ったはずだ。
毎晩、各階の消灯と施錠を警備員が確認している。したがって前日のうちから地下階に隠れていたということはありえない。監視カメラの映像を信じるなら地下階へ出入りしたのは反町だけだった。
「どこをご覧になりますか」
離れの玄関に入ると磯野がふりかえった。首を傾げ、マッシュルームヘアーを斜めにする。ビニール傘を傘立てに挿しながら、反町は少し考え「そこの廊下の奥を」と答えた。
「あんなところ、なにかあるんですか」
廊下を先に進む磯野が疑問を口にした。「ちょっとした確認で」反町は適当な返事をした。
「さっきも別のお客様をご案内したので」
「は?」
俺以外の誰かが同じところを調べたというのか。そう問いかけようとすると、寝室の前を通り過ぎた磯野が突き当りを直角に右へ折れた。続けて反町も奥に進む。磯野が「あら」と声をあげて口元を手で押さえ、廊下の真ん中で立ちどまった。
「いらっしゃいませんね」
右手は寝室の障子戸、左手は縁側でガラス戸が閉まっている。「失礼」と声をかけ、反町は磯野を追いこすと奥へ進んだ。
突き当りは物置だった。引き戸が開かれており中の様子がわかる。狭い部屋で、人が隠れるスペースはない。
反町は物置に足を踏み入れた。白熱電球が明かりを放っている。電球のソケットが天井際の壁に直接据えつけられている。年式の古そうな掃除機、トイレットペーパー、食器を収めた棚。雑多な日用品が棚に並んでいる。反町は床を見下ろした。この幅なら車椅子でも通れるだろう。
「ここを調べていた客というのは?」
戸口をふりむく。磯野は瞼を細め「ええと」とつぶやいたきり、語尾を濁らせた。
「あら、いやだ。名前でてこないわ」
反町は奥に進み、木目に目を凝らした。細長い板が垂直に何枚も敷き詰められた壁だ。左右を見渡し、握りしめた拳を突きだす。ドアをノックするように手の甲で叩く。
「とてもおきれいな方でしたよ」
コン、コン。壁の向こうから返事があった。かすかに金具の触れあう音がした。壁板の狭間に黒い亀裂が入る。ゆっくりと裂け目が広がっていく。壁でしかなかったはずが、ドアノブも鍵穴もない扉と化して奥へ向かって開かれていく。
「おや」美しい顔があった。
電球に照らされ、天使のような光の輪が黒髪に輝いている。ペイズリー柄のシャツに、袖のない真っ白なトレンチコートを羽織った人物が立っていた。
「ちょっと待ってくださいね」
「そりまちさん?」
「
そうでした、失礼しました。口先ではそう言っても森澄の表情は悪びれていなかった。うっとりと瞼を細め、微笑みを浮かべている。
反町は床に目を落とした。光の輪が揺れている。光源をたどると、持ち手がオレンジ色の懐中電灯を森澄が手にしていた。
後ろから「あの」と声をかけられた。磯野が目を丸くしている。
「これは、いったい」
「隠し通路ですね」反町よりも先に森澄が答えた。「十戒で、ひとつくらいあっても許しちゃうと言われているやつです。できれば他言無用でお願いしますね」
「はあ。あの、私、他に用事がありますので」
「どうもどうも、ご迷惑をおかけして。ええ、構いませんよ。ボク、まだちょっと調べたいことがあるので、もう少しお借りしますね」
パチン、パチンと懐中電灯のスイッチを入れたり消したりする。レース編みのような光の輪が物置のあちこちにパッと現れては唐突に消えた。「それでは」とだけ言い残し、そそくさと磯野は立ち去った。エプロン姿が廊下を遠ざかっていく。
反町は記憶を探った。たしか事件当日、捜査員が表門の近くに落ちていた懐中電灯を拾ったはずだ。普段は母屋の玄関に常備してあるものだという。
四方子の証言を信じるなら、侵入者は懐中電灯を手にしていた。侵入者はいったん母屋に忍びこんで懐中電灯を持ちだし、それから離れで凶行を働き、表門から逃げるとき懐中電灯を投げ捨てていったことになる。
「それで」改めて反町は森澄のほうへ向きなおり、溜息を吐いた。「どうしてここに?」
「泊めてもらったんですよ」
「おまえ、御倉と関係があるのか?」
「ちょっとした頼まれ事を引き受けまして」
経験的に反町は知っていた。森澄は依頼主や依頼された内容を誰にも明かさない。職業倫理からすれば立派なことだが、刑事である反町にしてみれば扱いづらい。
森澄紺は探偵事務所を構えているわけではないらしい。知人を通じて、さまざまな依頼に応じる。その調査能力や行動力は確かなもので、釈迦河は一目置いているようだ。一方で非協力的な態度をとることが多く、刑事たちの間では要注意人物とみなされている。
反町自身、これまで何度か森澄とは縁があった。性別すらわからない探偵の予想外な行動にふりまわされた。ある意味、わかりやすい奴なのかもしれない。森澄は事件解決にしか興味がなく、そのためなら常識外れのことをしかねない。悪人ではないが、正義と認めるにはどこか危うい。
「まさか、汐帆会に頼まれたのか」
「せきほかい?」
反町の言葉の意味が図りかねたように森澄はぎゅっと眉間を寄せ、それからパッと笑顔になった。
「ああ、わかりました! 汐帆会の読み方、ずっと〝せきはんかい〟だと勘違いしてました。だから、耳で聞いてもすぐには結びつかなくて。ご存知ですか? お赤飯って皮の破れた小豆が切腹を連想させるから、関東地方では縁起が悪いものとされていたそうですよ。鏡開きに刃物を使わないようにしたり、首が落ちるようだからと椿の散るのを嫌ったり、お侍さんって臆病だったんですね」
そんな豆知識、どうでもいい。反町の憤りを悟ったかのように、森澄は奥のほうへ一歩後ずさった。
「ご案内しますよ」
ためらうことなく奥へ進んでいく。つられるように反町は隠し通路へ足を踏み入れた。壁はコンクリートが剥き出しで、照明の類はない。暗がりを目にしているだけで気味の悪さを感じる。
大丈夫だろうか、正気を失ったりはしないだろうか。奥のほうへ目をやる。それほど長い通路ではない。三メートルほどで行き止まりになっており、森澄が扉へ手を伸ばそうとしている。
かちり、と背後で音がした。ふりむくと扉が閉まっていた。奥の扉と同じように、こちらも金属製の取っ手がついている。
「心配は要りませんよ」森澄の声がした。
「磁石でくっついているだけです。ほら、こうやって強めにひっぱれば」
ぐい、と森澄が取っ手を引くと、奥の扉が開いた。扉を潜る前に森澄は、壁にあるスイッチを入れた。向こう側の部屋の照明スイッチだろう。
反町は早足で通路を進んだ。明かりは森澄が手にする懐中電灯しかなく、かなり暗い。こんなところに置いてけぼりにされてはたまらない。
「物置側からはドーンと勢いよくぶつかれば開きます。この通路、それなりに幅もありますしね。車椅子の人でも扉を開けることはできるでしょう」
「鍵をかけられないのはまずい気がするがな」
「恐らくこれ、緊急時の脱出ルートなんでしょう。下手に鍵をかけると、いざ脱出というとき鍵を探すのが時間のロスになるじゃないですか。大勢の信者が寝泊まりしていたみたいですし、すぐに逃げられるようにするにはこれくらい簡単なほうが良かったんでしょうね」
森澄が開けた扉の向こうに、反町は足を踏み入れた。ハンガーのぶらさがった金属パイプに見覚えがあった。徳郎が消えたと錯覚したとき、まっさきに確認した収納スペースだ。すでに引き戸を開け、森澄は室内にいた。明かりの灯った裸電球の真下に立っている。こちらに背を向けた三面鏡があった。
鉈弟ビルの地下一階、元はスナックだったという空き店舗だ。御倉家を訪れる前、廊下側から鍵がかかっていることを確かめたドアがある。つまみが水平になっているのは施錠状態なのだろう。あそこさえ施錠されていれば第三者が勝手に御倉家の離れへ侵入することはないわけだ。
初めてここへ来たときのことを反町は思い返した。徳郎はビルのオーナーと親しい様子だった。恐らく、あの家が汐帆会の施設として使われていた頃から隠し通路のことは話が通っていたのだろう。
そもそも考えてみるべきだった。あの日はエレベーターの工事があった。車椅子の徳郎がどうやってこの部屋に来たのか。ここなら誰の助けも借りずにこっそり来ることができる。
「さて」
真上からの光を浴び、森澄の顔には深く陰影が刻まれている。唇の端が歪んでいた。微笑んでいるはずの表情は、目のまわりが深い影に覆われているせいか、どこか悪魔じみている。
「悪く思わないでくださいね」
森澄が両手をあげる。裸電球へ手を伸ばす。ソケットから突きでているスイッチに指をかけた。探偵がなにをしようとしているのか反町は悟った。ジャケットの内側に手を伸ばす。スマートフォンなら明かり代わりになる。
間に合わなかった。森澄のほうが早かった。瞬時に目の前が真っ暗になる。絶叫しながら反町はその場にうずくまった。
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